2章:人を殺める
浴室には、水で満たされたバケツが置いてある。たったこれだけの量で人の命を奪うことができると想像すると、恐ろしくなる。
「できれば絞殺をおすすめしたいんですけれどね。我が国の死刑制度に用いられていることもあって、束さんにとっても私にとっても、一番肉体的・精神的な負担が少ないですから。ですがこの手法は先日、生田星影に使われてしまいました。短期間で殺害方法が被ると、身体が体験を覚えているがために走馬灯現象の効果が弱まるんです。撲殺や焼殺では束さんのトラウマにもなりかねませんし、水責めによる窒息がもっとも優しいのではないかと」
まるで新しく購入した家電の使い方を教えるみたいに、淡々と向野さんが解説する。
「私は目を閉じますので、お好きなタイミングでこのバケツに私の顔を埋めてください。呼吸ができないので私は本能的に抵抗のような素振りを見せますが、決して力を緩めてはなりません。私が完全に動かなくなるまで手を離しちゃダメですよ」
「……正直、自信がないです」
「大丈夫です。私がよみがえる瞬間をあなたは目撃なさったでしょう?」
「……でも……」
人を殺したいと思ったことのない僕にとって、これからする行為はアイデンティティの崩壊を招きかねない。
「心配ありません。あなたは何も間違っていない。むしろ正しい行いをしようとしているのです。こんなことを頼める人は他にいないんです」
向野さんはその場しのぎではない声色で、僕の気持ちを落ち着かせてくれる。
「大丈夫、大丈夫です」
僕はいつの間にか向野さんに抱きしめられていた。背中をぽんぽんと叩く手のひらから、温もりが伝わってくる。
向野さんだって怖くないはずがないのに。他人を労わっている場合じゃないのに。僕はいつまで弱腰になっているんだ。
「……もう平気です。ありがとうございます」
両肩を押して距離を取り、今度は僕の方から抱きしめる。
「頑張ります。ごめんなさい。頑張ってください」
「ありがとうございます。頑張りますね」
装飾も修飾もない無機質な僕の言葉を、向野さんは丁寧に受け止めてくれる。
「では、まいりましょうか」
そう言って、向野さんは静かに目を閉じた。
もう引き返せない。無理にでも思考を切り替える。事件を解決するために、これ以上斑目に罪を重ねさせないために、僕は向野さんを殺す。
呼吸が荒い。脳内でからからといくつもの思考と感情が絡み合い、ぶつかり合い、せめぎ合い、歪な音を立てている。手の表面に汗がびっしりと浮かんでいる。気持ち悪い。向野さんの艶やかなカフェオレ色の髪を汚したりしないか。ああでも、これから水に漬けるのだから関係ないか。真っ白なうなじは罪も穢れも知らないとでも言いたげに、これから人を殺めようとする僕を暗に糾弾しているかのようだ。黙れ、黙れ。僕は間違っていない。だが正しいのか? 頼まれるがままに人殺しをしようとしている僕は正しいのか? これじゃあ生田や湊と同類じゃないか。罪に貴賤はない。法の下では誰もが平等だ。いくら正義のためだとしても、平たく言えば僕はただの人殺し。その肩書きが消えることは永遠にない。呼吸が荒い。どうしてこんなことになっているんだ。警察はどうした。司法はどうした。いち国民に人殺しを強いる世の中に恥を知れ。ああ、恥ずかしい。恥ずかしい。許してほしい。僕は間違っていない。誰も間違っていない。誰を憎んだらいい? 誰を呪ったらいい? 何を信じればいい? 「うあああああああああっ!」しがらみを振り払うように、力任せに向野さんの頭を水底に押し付ける。水が弾け、向野さんの首が前方に傾く。呼吸が荒い。やってしまった。向野さんは暴れることなく静かに受け入れている。髪が水面に浮かび、まるで土を穿つ根のように広がっている。何秒経った? 腕時計は外してしまったから時間を確認できない。体感では一分以上経っている。タオルハンガーの横に丸時計が吊るしてあった。一秒の長さに愕然とする。人が窒息死するまでには三分はかかると言われている。この状態をあと何秒続ければいい。吐きそうだ。何も考えるな。思考を巡らせるほどに耐えきれなくなる。これは作業、作業だ。事件を解決するために必要な手順、ルーティーン。でもああ、さっきから水泡が浮かんでくる。酸素が足りないのだ。今ならまだ助かる。助けられる。でもそんなことをしたらきっと向野さんに軽蔑される。「ごぼおっ!」水を通して悲痛が声となって届いてくる。手の甲が熱い。もがく向野さんが僕の手を引っ掻いている。肉が赤くなり、跡が線を作っている。「が、ぼ、が、あっ、あ」頼む。早く死んでくれ。罪悪感でこっちが死にそうだ。そんなわけがあるか。まさに死にそうなのは向野さんの方だ。必死に戦っているのだ。僕は加害者のくせに被害者面をしているだけじゃないか。頑張れ、頑張れ、向野さん、頑張ってくれ。頑張って死んでくれ。
バケツ一面に僕の血が広がり始めたころ、向野さんは完全に動かなくなった。そのままゆうに一分は両腕を沈めていたと思う。浴室は冷えているのに全身の毛穴から汗が吹きだしていた。
ようやく呼吸が落ち着いてきた。このままでは蘇生した向野さんが顔を上げられないことに気づき、慌てて飛び退いて壁に背中をぶつけた。
十秒経っても、二十秒経っても、目の前の死体が動く気配はない。
まさか僕が水に漬けすぎたせいで、よみがえりに失敗したのだろうか。
暗雲が垂れ込んだ時だった。
「ぷはあっ!」
潜水から戻ってきたダイバーのように、向野さんの頭が勢いよく上がった。
「は……はは……」
良かった。生きてた。すっかり腰が抜けてしまっているらしく、立ち上がることができない。
振り返った向野さんが僕の両手を見て、目を剥いた。瞬時に僕の手を取って蛇口をひねり、流水で傷口を洗ってくれる。
「ごめんなさい、無意識で……」
「気にしないでください。僕も必死で、頭を強く押さえちゃって」
水の勢いが強く、手の甲がヒリヒリする。
血を落とした後に浴室を出て、ガーゼを巻いてもらった。
僕が二杯目のウーロン茶を飲んでいる間、向野さんはドライヤーで髪を乾かしていた。
「お待たせしました」
着替えも済ませ、Tシャツにスラックスというラフな格好になっていた。カフェオレ色の髪からは、甘いにおいがする。
「おかげさまで、色々なことに気づけました。やはり私の不安は杞憂じゃなかったみたいです」
「……と言いますと」
「取材が終わって、建物を出る際の斑目さんの言葉を覚えていますか?」
「えーと、確か……」
『ボクにはまだまだやるべきことがある。ここで立ち止まるわけにはいかない』
「彼の計画が湊の殺害で完結するとしたら、『まだまだ』なんて副詞を重ねたりしないはずなんです」
「……つまり、第三の計画がある?」
「そう考えるのが適切でしょう。ただ明日は、尾田美波さんの命日です。第三の事件を別日に起こすとは考えにくい」
「とはいえ、地方から移動する時間なんてあるんでしょうか? それとも三番目のターゲットも、湊の近くに住んでいるのか……」
「小原さんが向かったのは青森の下北半島です。新青森駅から電車やタクシーで移動したとしても、さらに数時間はかかる場所ですから、一日に二件も事件を起こす時間的な余裕はないはずですが……まさか」
会話を中断し、向野さんはテーブルの隅にあったノートパソコンを引き寄せ、起動する。すぐさまキーボードに何かを打ち込んだかと思えば、水晶玉のような双眸をぎらりと見開く。僕も隣に移動し、画面を覗いた。
「何を調べたんですか?」
「……ビンゴです」
表示されているのは、地元新聞のWEB版だった。細かい文字で埋め尽くされた液晶の左下に、湊文六の名前を発見する。
「お悔み欄……」
「ええ。湊は四か月前に病死しています。彼は建設会社の元・代表取締役社長ですから、死亡しているのであれば載っているとは思いましたが、本当に見つかってしまうとは」
「斑目は知っているのでしょうか」
「こんな記事もありました。下北半島にある霊園で今朝、墓荒らしがあったそうです。墓石は原型も留めないほどに破壊され、遺骨が盗まれたとか」
「つまり、昨日の取材が終わってから斑目はそのまま青森に移動して、湊の墓を壊したってことですか」
取材後のタイミングを狙ったのは、万が一でも小原さんの耳に墓荒らしの情報が届かないようにするためか。
「でも、林野と湊に匹敵する憎しみの対象なんて、僕らに特定するのは無理ですよ。キャバクラ店の元締めか、他の従業員か、あるいは誰かの親族か……」
「それについても見当はついています」
僕が疑問に思った時点で、その数歩先を歩いている。本当に取材の時と同一人物なのだろうかと今さら疑いたくなる。
「小原さんから聞いているかもしれませんが、尾田美波の母親は事件の三か月後に自殺しています。娘の死がショックだったのはもちろんでしょうけれど、私はマスコミの報道も一因ではないかと考えます」
タン、とエンターキーを叩く音と同時に、週刊誌のバックナンバーが一斉に表示される。
『織北区キャバ嬢殺害事件・シングルマザーの悲痛』
『事件が起きたキャバクラ店は、脱法風俗だった?』
『尾田さんは違法キャバクラのランカー女優だった!』
『違法風俗店で起きた事件に「殺されて当たり前」の声も』
『脱法風俗嬢・被害者の母親に突撃インタビュー!』
読者の好奇心を無理やりかき立てるようなフレーズの数々に、辟易とする。これでは、誰が犯罪者かわかったものじゃない。
「きっと母親は、週刊誌の情報を鵜呑みにした読者から、罵詈雑言を浴びせられたことだってあるでしょう。一度や二度ならまだしも、それが娘の死後に絶え間なく続けば、心を病んでしまってもおかしくありません」
完全な二次災害だ。数も正体もわからない敵に石を投げ続けられる生活に耐えられなくなり、自ら死を選んだ。
「つまり第三のターゲットは、無責任な世間、とでも言いたいんですか」
「さすがにそれでは、斑目さんも事を起こしにくいでしょう。もっと明確な敵がいますよ、ひとりだけ」
向野さんが指差したのは、記事の末尾にある署名だった。




