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2章:殺してください

 この場所を訪れるのは二度目になる。前回より早い時間に、しかも徒歩で来たものだから、額や背中には汗がじっとりと浮かんでいる。制汗シートで肌をしっかり拭き、念押しでシャツの内側に清涼スプレーを噴射してから七・〇・七の順でボタンを押した。


「観崎です」

「こんばんは。すぐに開けますね」


 ガラスの自動ドアが左右に分かれ、エントランスに入る。エレベーターで最上階に到達後、一番右の部屋に移動し呼び鈴を鳴らした。


 室内からパタパタと、スリッパが床を叩く音が近づいてくる。


 扉が開き、中から白い腕が現れた。


「お暑いところをありがとうございます。冷たいウーロン茶を淹れてありますので、中にどうぞ」


 家でも外でも、キャミソールワンピース姿は変わらずだった。


「お邪魔します」


 向野さんの部屋は白を基調としたシンプルな内装だった。壁のクロスやカーテンには汚れひとつない。ふわふわのラグマットはユキウサギを連想させる。


 先日は不死身の力を目の当たりにした驚きから室内を見回す余裕がなかったが、こうして観察してみると普通の女子大生と変わらないということがうかがえる。同世代女子の家に上がったことなんて他にないけどさ。


 グラスのウーロン茶で喉を潤したところで、向野さんが早速本題に入る。


「小原さんから記事のことは聞きましたよね?」

「はい。斑目の娘・尾田美波が、林野の経営する違法な接客をするキャバクラで働いていたんですよね。美波は常連客の湊に殺された。そして湊は既に出所しており、次のターゲットにされる可能性が高い」

「相違ありません。小原さんはもう現地に到着したそうです。斑目さんが娘さんの命日にこだわっているのなら、今日のうちに事態が動くことはないでしょう」

「小原さんも言っていましたが、僕たちの出る幕はないそうです。この件からはもう手を引きましょう」


 念押ししたのは、僕も小原さんと同じ気持ちだったからだ。推理力の有無に関係なく、向野さんはこれ以上事件に深入りするべきではない。


「私も、残念ながら今回は一切お役に立てていないことを痛感しています。でも、何かが引っかかるんです」

「引っかかるって?」

「うまく言い表せないのですが、こんなあっさり、簡単に、解決するものでしょうか? だって斑目さんはわざわざ犯人であると名乗り出て、取材まで受けたんですよ? これじゃあ自分から捕まりに行っているのと同義ではないですか」


「自ら動機を語ることで、世間の同情を集めるのも狙いなんじゃないですか? あるいは林野や湊への憎しみと同じくらい、罪を犯していることへの罪悪感も抱いていて、実は自分の犯行を止めてほしいとか」

「これは直感なのですが、斑目さんが恨みの感情に支配されているとは思えないんです。何か別の狙いがあるんじゃないかと」

「別の狙いって?」

「それは……わかりません。あと一歩なんです。ですが、今の私では正解を導き出せそうにない」


「……まさか、走馬灯現象を使おうとしてるんですか?」

「……」


 テーブルを挟んで、向野さんが視線を落とす。


「僕は反対です。こないだも話しましたが、あなたが傷つく必要なんてない。いくら他人を助けることが目的だとしてもです。しかも救おうとしている湊は人殺しなんですよ?」

「私が救いたのは斑目さんです。娘さんを失って、その上復讐殺人なんて、あんまりじゃないですか」

「こんなことを言うのは残酷かもしれませんが、いちいち赤の他人を助けようとしていたら、命がいくつあっても足りませんよ。いくら不死身だって……」


 そこまで言ったところで、僕は言葉を呑んだ。


「それでも……」


 向野さんの瞳に、うっすらと涙が浮かんでいたのだ。


「それでも私は、やらなきゃいけないんです。だから……」


 今にも決壊しそうな目元の堤防。この人は何に追われているのだ。なぜこれだけの覚悟を背負っているのだ。




「だから束さん、私を殺してください」




 あなたの瞳には、一体何が映っているのですか。


 ☆ ☆ ☆


 心が追いつかない。


 今、何と言った?


 私を殺してくれ?


 僕が?


 感情的になってはいけない。感情に飲み込まれてはいけない。冷静になれ。


「……どうして僕が殺さないといけないんですか。自殺の準備を手伝ってくれならまだしも」

「東京女子大生・OL連続殺人事件の際、私は自宅の扉を開けるとボウガンの矢が発射されるという仕掛けを用いました。しかしそれは苦肉の策だったのです。走馬灯現象の効果がもっとも発揮されるのは、自殺ではなく他殺。これは実証をもとに申し上げています」


 向野さんは僕と出会うまでに、何回死を経験したのだろう。本来一度で済むはずの人生最大の恐怖を、どれだけ味わってきたのだろう。


「カギとなるのは突発性です。平常時からいきなり窮地に陥ることで、人は本能で死を回避しようとする。それが大量の記憶のフラッシュバックやアドレナリンの分泌につながります。つまり自殺より他殺の方が、推理力の活性化においては優れているのです」

「……だから僕に殺せと?」

「はい」


 弱弱しく、それでも芯の通った声だった。


 僕は向野さんのことを詳しくは知らない。可憐で警戒心が緩くて、酔うとふにゃふにゃになって可愛らしい。だが知り合い以上の想いは抱いていないし、無理に友達になろうとも思っていない。


 それでも、苦しませたくないのは人として当然じゃないか。


「……どうして自ら、不幸な道を選ぶんですか。どっちが危険でどっちが安全な道かなんて、明白なのに。幸せはつかめるのに」

「幸不幸も苦楽も、私自身が決めます。私は自分の信じる幸福のために一時の苦痛を選びます。私は斑目さんを救いたい。事件も止めたい。それが私の幸せです」


 迷いは一切感じられない。


 涙は瞳からすっかり消えている。


「だから協力してください。お願いします、束さん」


 僕の幸せとは何だろう。


 かつて道はたくさんあったはずなのに、気づけばずいぶんと数は減ってしまった。おまけにどれも一寸先は闇だ。踏み出した瞬間、奈落の底に落っこちてしまうかもしれない。


 だがそれは僕に限ったことじゃなくて、きっと向野さんも同じだ。未来が見えないのも、踏み出すのが怖いのも一緒。それでも前に進もうとしている。


 もし彼女が選択を誤ったと後悔したら、その時は慰めてあげればいい。僕がそばにいればいい。二人一緒なら、ともに悔やんでまた新たな道を探せばいい。




 きっと一番の間違いは、間違えることじゃなく、立ち止まったままでいることだ。


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