2章:陶酔
「『織北区キャバ嬢殺害事件・シングルマザーの悲痛』……」
電話口から肯定の言葉は返ってこなかったが、僕の認識が間違っていたのではなく、そのまま該当の記事を読めということだろう。
織北区キャバ嬢殺害事件。
八年前、東京都織北区のキャバクラ店・クラプラティオで、一人の女性が殺害された。
被害者は尾田美波(二十)。『クラプラティオ』で働くキャバ嬢だ。酔った客に執拗に絡まれ、拒絶したところ相手が激昂。顔を何度も殴られたり、頭をテーブルに打ち付けられたりして、やがて意識不明に。病院に搬送されたものの、死亡が確認された。
逮捕されたのは常連客の男・湊文六(六十一)。建設会社の代表取締役社長を務めていた。尾田のことを気に入っており、頻繁に店を訪れては指名していたという。
「この殺された女性が、斑目と何か関係があるんですか?」
「尾田美波は、斑目の娘よ」
数分前の、母さんの言葉を思い出す。
「斑目は未婚だったけれど、認知はしていたみたい。ちなみに母親は尾田美波の死から三か月後、自ら命を絶っているわ」
「……斑目からしたらやりきれない思いでしょうね」
「この事件が原因で『クラプラティオ』は閉店することになるわ。そして数年後、経営者の男は場所を変え、『ユーフォリア』をオープンした」
「林野ですね」
だが腑に落ちないこともある。確かに経営者である彼には従業員を守るという責任は少なからず存在する。水商売で大事な娘を失ったのだから、斑目が父親として店側を責めたくなる気持ちはもっともだ。しかし、犯人を恨むならまだしも、なぜ林野に怒りの矛先を向けたのか。
「どうやらこのお店、女の子に性的なサービスをさせていたみたいなの。常連客に店内でこっそり、ね」
「記事にある『執拗に絡まれた』っていうのは……」
「エッチなことを強いたんじゃないかしら? 林野がそれを推進していたのか、黙認だったのかはわからないけどね。なかなかヤラせてくれない尾田美波に、湊が酒の勢いもあって暴走した、っていうのが真相みたい」
つまり『クラプラティオ』は実質、違法風俗店だったということになる。おそらく尾田美波は実態を知らないまま入店してしまったのだろう。
斑目は何らかのきっかけでそれを知り、林野への復讐を決心した。
よく一日でここまで調べたものだ。きっと徹夜で調査にあたっていたに違いない。
「ちなみに湊はもう出所したんですか」
「ええ、今年の頭に。もともと東京に住んでいたけれど、今は地方でひっそり暮らしているみたい。ちなみに明日は何の日か知ってる?」
「小原さんの誕生日なら、ケーキ買ってあげますけど」
「残念、逆よ。尾田美波の命日」
「……決まりですね」
斑目の次のターゲットは湊だ。林野の事件はいわば前哨戦。
「湊のところに行くんですか?」
「もちろん。このあとすぐ新幹線に乗るわ。挑戦を受けたからには、わたしたちには斑目を止める権利がある」
「だったら僕たちも」
「さすがにこれ以上は巻き込めないわ。もともとキミには事後報告のつもりだったのよ。ただ、さっき麗央に電話した時、キミにも伝えてほしいって言われてね。あの子に頼まれたら無下にはできないから。万が一、学生であるキミに何かあったら親御さんに合わせる顔がないもの」
彼らに観崎束という息子はいない、と教えてあげたら困惑するだろうか。
「だから気持ちだけ受け取っておくわ。わたしだってできることなら、麗央には平穏な人生を歩んでほしいから」
まただ。
昨日の「傷跡」発言といい、この人の向野さんへの労わり方は、いとこのそれじゃない。
小原さんは僕に真実を知ってほしいと密かに願っているからこそ、失言を繰り返してしまうのではないか。
それをストレートに伝えたところ、電話の向こう側からため息が聞こえてきた。
「ごめんなさい。わたしの口から言えることじゃないわ」
「つまり本人に訊け、と」
「できればキミには、何も知らないでいてほしい。キミは他人に感化されやすいから。不必要な感情移入が過ぎると、いつか心を壊すわよ」
向野さんの秘密を守るために正当化しているのではなく、本心から僕を心配しているようだった。ならばこれ以上追及するのは小原さんにも申し訳ない。
「わかりました。向野さんには尋ねませんし、小原さんの取材にもついていきません。今日は家で大人しくしていますよ」
「……ありがとう。やっぱりわたし、キミのこと好きよ」
「僕は年上も大歓迎ですよ」
その後、二、三やり取りをしてから電話を切った。
さて、電話が続いたおかげで腹はすっかり臨戦態勢だ。もうランチどころかおやつの時間に差し掛かろうとしている。インスタントラーメンか冷凍の肉まんにでもありつきたいところだが、小原さんとの通話中にメッセージが届いていた。
つくづく今日は女性からの連絡が絶えない。
アプリを起動すると、おなじみの一文が表示される。
『今夜、お時間はありますか?』




