2章:人殺しの理由
目覚まし時計を確認すると、時刻は昼の十二時を回っていた。こんな時間まで眠りこけるなんて何年振りだろう。少なくとも高校に入ってからの土日は朝から勉強漬けだったからなぁ。
今日は金曜日。普段なら五限にゼミが入っているが、休講になったので実質休みである。
たまにはこういう日も悪くない。寝起きでも頭はすっきりしており、程よい空腹感には心地よささえ抱いてしまう。
昨日リアリィ編集部を出た後、僕たちはいつもの居酒屋に移動した。夕食がてら、取材の内容を整理するためだ。今回は二人ともノンアルコールだったので、ある程度建設的な話ができると思っていた。
しかし結果的に、何ひとつ実りはなかった。斑目の話だけで次のターゲットを特定できるはずもなく、そもそも彼の発言がすべて本当とは限らないのだ。供述は筋が通っているように聞こえるものの、核心的な部分には一切触れられていないし、物的証拠もない。
言うまでもなく、向野さんは早々にギブアップした。推理よりもシャカシャカポテトのフレーバーを何にするか悩んでいる時間の方が長かったくらいだ。
帰宅時にまたボウガントラップが発動するのかさり気なく訊いてみたところ、「今日は何も仕込んでいません。どのみち情報が少ないので、この状態で走馬灯現象を発現しても解決につながる筋立てはできないでしょう」とのことだ。
その言葉を聞いて、僕は心から安堵した。いくら傷がふさがるとはいえ、年ごろの女性が自らの心臓を矢で貫くなど看過できるわけがない。もし自死行為に走ろうものなら、夜通し推理に付き合っていたところだ。
それに今回の事件、小原さんが自分でなんとかすれば、今後は向野さんを頼ることもなくなるかもしれない。なにせ、生の向野麗央の無能っぷりを目の当たりにしたのだ。ただの仲睦まじいいとこの関係に戻るのなら喜ばしいじゃないか。
気合を入れ、熱めのシャワーを浴びる。
僕が頑張らなきゃいけない。小原さんの役に立つことで、向野さんを探偵業から遠ざけるのだ。
バスルームを出てシャツとジーンズに着替えていると、部屋からスマホの着信音がした。向こうから連絡をくれたのなら手間が省けた。
そう思ってスマホの画面を覗くと、自分のしかめっ面が反射していた。
観崎柴里。
液晶に表示されていたのは、母さんの名だった。
三コール待っても、五コール鳴り響いても、着信が切れることはなかった。
「……はい」
「出られるならもっと早く出なさいよ」
名乗るでも挨拶をするでもなく、第一声は文句だった。
「シャワー浴びてたんだ」
「ふうん」
疑念で彩られた声色。もっとも、どんな理由を述べたところで信じてはくれないだろう。
「何かあった?」
「あなたの部屋のもの、今度まとめて捨てるから」
一人暮らしを始める前、あらかた処分するなり押入れに収納するなりしたはずだが、片付け忘れたものがあっただろうか。
「あそこ物置になってるんだけど、学習机とかベッドとかがいい加減邪魔なのよ。今さらウチで勉強なんかしないし、布団だってお客さん用のを使えばいいでしょう?」
「……そうだね。うん」
理にかなっている。断る理由は思い浮かばない。
「用件はそれだけだから、じゃあね」
「あ、待って」
「なに?」
「えっと……」
どうして僕は引き留めてしまったのだろう。母親の声が懐かしかったから? 弟の近況を探りたかったから? 父さんはまだ僕に失望しているか訊きたかったから?
違う。
「……母さんは、どういう理由だったら人を殺せる?」
「は?」
これが親子の会話か。我ながらどうかしている。
「いや、深い意味はないよ。純粋な質問っていうか」
「……そうね」
母さんの好きなところは、僕のどんな問いにも真剣に答えてくれるという点だ。これは彼女が生真面目な性格だからというわけではなく、「子どもの質問には嫌な顔をせずに答えてあげることが勉強への意欲と探究心の向上につながる」と愛読書に書いてあるからだ。実家にいたころ、この人は子どもたちの前でいつも教育関連の啓発本を読み漁っていた。
「息子が傷つけられたら、かしら」
間髪をいれずに答えが返ってくる。
「……そっか。ありがとう」
「切るわよ。じゃあね」
一年ぶりの肉声での会話は、四十九秒で終了した。
スマホを持った腕をだらんと下げ、静かに目を閉じる。
胸に残っているのは感謝でも愛おしさでもなく、空しさだ。
「自慢の一人息子が傷つけられたら、そりゃ憎むよな」
観崎家は、僕の大学受験失敗と、弟の国立大学合格というふたつの条件を満たすことによって三人家族となった。僕の先ほどのお礼は、質問に答えてくれたことへの定型句に過ぎない。
次にあの家に行った時、いよいよ居場所はどこにもないのだろうな。
気持ちが沈んでいく。泥を潜り、地に溶け、形を失っていく。こうなることはわかっていた。だから電話は嫌いなんだ。
握りしめたスマホが、再びメロディを奏で始める。甲高い音が耳障りだ。
「……はい」
「観崎くん? 良かった、すぐに出てくれて」
今度こそ小原さんだった。何か進展があったのだろうか。
「今、自宅?」
「ええ、これから遅めの朝食を作ろうとしていたところです」
「学生はいいわねぇ。時間が有り余ってて」
「仕事に忙殺されているどこかのライターさんに、分けてあげたいくらいですよ」
「そしたらもっと働けるわね」
雑誌記者という生き物は、働き続けないと死んでしまうのか?
「パソコン点けられる?」
「もうメーラーを起動しました」
「話が早くて助かっちゃう、好き」
「女性に告白されるのは二度目です」
「あら、意外と少ないのね。キミ案外モテそうなのに」
案外、という一言が引っかかったがそこはスルーして、送られてきたメールのファイルを保存する。
「展開しました。リアリィのバックナンバーですね」
表紙を見ただけで、小原さんが何を伝えたいのかが理解できた。




