1章:無能探偵登場
予想通り、ゼミの空気は最悪だった。
僕はブラックの缶コーヒーを一口含み、ため息をつく。
無理もない。ゼミ生が一人、死んだのだ。
病気や事故ならまだ心の整理もつきやすいのかもしれない。あのメンバーで、彼女と特別親しかった者はいなかったはずだ。
ただ一方で、接点がない者もゼロだった。
蟹江輪は女性らしい外見をしていた。黒の長髪からは甘いリンスの香りが漂い、ふくよかな胸は男子学生の目をくぎ付けにした。見た目とは反対に気さくな性格で、笑い方も豪快だった。少なくとも他人から恨みを買うような人物ではない。
そんな彼女が、五日前に死体で発見された。
ニュースによると、現場は住宅街のど真ん中。犬の散歩をしていた近所の住人が、道端で倒れている蟹江を発見したという。首には紐状のもので絞められた痕があり、犯人はまだ捕まっていない。
それだけならありふれた事件かもしれないが、蟹江の死は「四人目の犠牲者」と報じられた。
そう、これは連続殺人なのだ。
被害者には共通点があった。
ひとつ。狙われるのは、若くて髪の綺麗な女性ということ。髪の長さはセミロングから腰までと様々だが、色は決まって黒。珍しいとまでは言わなくても、茶髪に比べれば黒髪の女子は決して多くはない。二人目の被害者が出たころから「黒髪女子がターゲットにされる」という噂がインターネット上に拡散し、一時はドラッグストアからヘアカラーが消えたという。
そしてもうひとつの共通点。被害者たちは、殺害された後に髪を無残に凌辱されていたということ。
ある者はアフロヘアにされ、ある者はバリカンで一部を刈り取られていた。そして蟹江は、粗悪な人工芝のようなギザギザの髪型になっていたそうだ。
動機は不明にせよ、犯人が髪に執着を持っているのは明白だった。警察もマスコミもこぞって犯人捜しに躍起になっているが、解決には程遠い。
僕はコーヒーの缶を自販機横のゴミ箱に捨て、授業棟を出た。
今日の授業はすべて終わったものの、帰る気にも寄り道する気にもなれず、すぐに中庭のベンチに腰を下ろす。
自問する。自分は彼女の死に凹んでいるのだろうか。
友達と呼べるほど親しくはなかったし、ましてや片想いをしていたわけでもない。だが目を閉じれば、蟹江の屈託のない笑顔や、論文を発表するときの真剣な顔が浮かんでくる。
きっと、今まではテレビの中の出来事だった、極端に言えば殺人というエンターテイメントが、突如本来の意味を振りかざして強襲してきたことに戸惑っているのだ。
「でも、僕にできることなんて何もないしな」
事件当日、蟹江には会っていない。同じ授業を受けるのは、週に一度、金曜日五限目のゼミだけだ。交友関係もバイト先も、詳しくは知らない。当然、あの日彼女が誰と会っていたのかも不明だ。そもそも黒髪の女性を狙った連続殺人なら、犯人は赤の他人で、被害者の顔見知りという可能性は低いかもしれない。
冥福を祈ろう。
そして一刻も早く、犯人が逮捕されることを切に願う。
僕にできることはせいぜい、それくらいだ。
探偵の真似事なんてするつもりはない。自分は凡庸な一般人である。その証拠に、ゼミで教授から毎回駄目出しを受けるのは僕くらいだ。
成績表だって「可」が目立つし、クイズやなぞなぞも苦手だ。滑り止めで入った大学ですら、このざまである。
僕の両親は、たいそう教育熱心だった。僕が幼いころから塾や習い事に通わせ、勉強でもスポーツでも才能を発掘しようとしていたが、芽が出ることはなかった。やがて期待の眼差しは弟に注がれるようになり、この春、彼は無事国立大学に入学した。それ以来、一人暮らしの僕は実家と距離をとっていた。
――仕方ないじゃないか。
心のもやもやを払おうと、心の内で言い訳をする。だが霧は濃くなる一方で、このままだと大事な何かが埋もれてしまいそうだった。心境が視力にまで影響を及ぼし始めたのか、視界まで暗くなったように感じる。
「お時間はありますか?」
ふと、声が降り注いできた。
顔を上げると、ベンチの後ろから少女が見下ろしていた。
くりっとした瞳が水晶玉のように煌めいている。辺りの明度が落ちたのは、この子の影のせいらしい。
「え、えーと……」
僕はこの少女に心当たりがなかった。今朝のニュース番組の星占いコーナーで、「おうし座のあなたは新たな出会いがあるかも!」と女性アナウンサーが言っていたことを思い出す。
身長からして中学生か、高校に入ったばかりくらいの年齢だろうか。少なくともこの、東山大学の学生ではないと思われる。
オープンキャンパスにはまだ早い。春休みはひと月以上前で、季節はもうすぐ梅雨入りを迎えようとしている。別に関係者以外構内立ち入り禁止というわけではないが。
「失礼。背後から頼みごとをするなんてマナー違反ですね」
少女はくるりと回り込んで、僕の前に移動する。
「お初にお目にかかります。私、向野麗央と申します」
キャミソールワンピースの裾をつまみ、舞踏会の挨拶のように一礼する。
向野と名乗った少女の、デニム地のワンピース姿はやや不格好というのが率直な印象だった。こういった服装は、高身長の女性の方が似合う気がする。肩から零れるセミロングの髪はカフェオレ色に染まっているが、校則違反にはならないのだろうか。
「観崎束さん。あなた、蟹江輪さんと同じゼミの学生ですよね?」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「……どうして?」
「推理と呼ぶほどのロジックではありません。たまたまあなたがゼミ室から出てくるところを目撃したものですから。お名前は、リュックの脇に差してある学生証で確認しました」
発言とは反対に、向野さんは得意げに胸を反らした。曲線はなだらかだ。
「そうじゃなくて、どうして僕に声を掛けたんですか? 蟹江と仲いいやつならもっと他にいると思いますけど」
どうせ野次馬の一人だろうと、僕は高をくくっていた。残念ながらテレビやインターネット以上の情報は提供できそうにない。
「あいにく私が東山大学に到着した時点で、学生さんはほとんど帰ってしまっているようでしたから。ゼミ室はもう無人でしたし。私も講義が終わってからの調査になるので、どうしてもこの時間帯になってしまうのです」
「……え? もしかして、大学生?」
「はい。法明大学の学生で、この春三年生になりました」
このナリで、まさか大学生だったとは。法明大学といえば偏差値のかなり高い、スポーツ強豪校としても有名な学校だ。Fランの東山大学とは大違いである。しかも三年生となれば、二年生の僕より年上だ。一応敬語を使っておいて良かった。
「第一声に戻りますが、この後少しお時間をいただけませんか? 駅前で軽くお茶でも飲みながら、あなたとお話がしたいんです」
僕は改めて、目の前にいる年上の少女もとい女性を観察する。
くりっとした瞳は透き通っていて、真実を映し出す水晶玉のようだ。
顔立ちはかなり整っている。丸っこい鼻は愛嬌があって、桜色の唇もきめ細やかだ。無邪気さと女らしさを兼ね備えた声や仕草も、引きつけられるものがある。
とはいえ、だ。
「正直、蟹江の死を面白おかしく扱われるのは、気分がいいとは言えないんですよ。僕と彼女は友達でも恋人でもないですけど、適切な表現がないだけで、決して赤の他人ってわけでもないですから。向野さんって法大の新聞部とか、あるいは出版社のアルバイトとかですか?」
もしマスコミもどきだとしたら、適当にお茶を濁して切り上げよう。
質問の意図を察したのか、向野さんは考え込むように目を閉じ、顎に手を当てた。自分の素性を明かして良いものか悩んでいるといった風だ。
だが正体を隠したままでは正確な情報が得られないと踏んだのだろう、再び大仰に胸を反らし、自信ありげに宣言した。
「こう見えて私、探偵なんです」
どうやら僕は、やっかいな女に引っかかってしまったらしい。