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1章:特別な

 あれから十日が過ぎた。


 警察の取り調べも一段落し、明日からはようやく元の生活に戻れる。バタバタして授業をいくつか休んでしまったが、僕が選択した授業はレポート提出で単位がもらえるものばかりだから、なんとか取り返しはきくだろう。少なくとも事情を知っているゼミの先生からは「俺の講義は無条件で優にしてやる」とのお墨付きをいただいた。


 時刻はもうすぐ夜六時になる。僕は大学最寄りの駅前で、とある人物を待っていた。


 電車が来たのか、ホームからわらわらと人がなだれ込んでくる。待ち合わせ時間から逆算して、彼女はこの電車に乗っているはずだ。


 改札口を注視していると、背後から背中を叩かれる。


「お久しぶりです、束さん」


 なんだ、もう到着していたのか。


 振り返り、僕は目を剥いた。


 目の前にいたのは、カフェオレヘアの小柄な女性だった。


 しかし、その髪は短く切り揃えられている。しかも両側はパーマが当てられており、チューリップの花のようにふんわりしていた。


「思い切ってみました。どうでしょう?」

「これはまた……ずいぶんと」


 肩甲骨のあたりまで長さのあった後ろ髪は、今や首にかかる程度だ。二十センチくらいは短くなっている。


「ほら、もうすぐ夏になりますし」


 言い訳のように言葉を並べているが、つまり欲しているのは肯定の一言だ。


「とても似合ってますよ」

「どうも♪」


 紛れもない僕の本心だった。


 やはり髪型は、本人の好きなようにするのが一番なのだ。


☆ ☆ ☆


「では改めて、このたびはありがとうございました。乾杯!」

「乾杯」


 向野さんが掲げたウーロン茶のジョッキに、僕はやや下の位置からウーロンハイのジョッキを合わせた。


 場所は前回と同じ居酒屋。


 今日は事件の打ち上げだ。


 店を指定したのは向野さんだ。実際のところ、また葱チャーシューが食べたくなっただけだろう。会話もそこそこに、一人で平らげんとばかりにパクついている。僕はウーロンハイを片手にその様子を微笑ましく観察していた。ほころんだ顔は幸せそうで、やはり年上には見えない。


「最初に声を掛けたのが束さんで良かったです。他の人だったらここまで早く解決はできなかったでしょう」

「それは言い過ぎですよ。僕はあくまで凡人で、生田にも自分の意見をそのまま述べただけですから」


 あの日、僕の「めちゃくちゃダサい」発言は、弾丸となって生田の自尊心を打ち抜いてしまったらしい。彼は言葉を失い、警察が来るまで茫然としていた。


「生田の主張には一貫性がありませんでした。おそらく自分の犯行を語っているうちに、一種の興奮状態になっていたのでしょうね」


 留置所にいる生田はすっかり意気消沈しているそうだ。やがて犯した罪の重さを自覚することだろう。


「あなたは自分を普通とか凡才とか重ねておっしゃっていますが、一般的な物差しで測れば、優秀と呼ばれる部類に入るはずですよ。頭の回転も速いですし、私より先に、事件に関するいくつもの事実を指摘していました」


「それは通常状態の向野さんがアレだから……」とはさすがに答えなかった。


 返答に窮していると、向野さんがウーロン茶を飲みながら言う。




「やはり、自分にとって特別な女性が殺められたからですか?」




「……どうして、そう思うんですか」


 声はつっけんどんになっていないか。ジョッキを握る手は震えていないか。自身の言動を顧みる。


「このお店で、被害者に取り付けられたヘアピンの話をしていた時のことです。蟹江さんの後頭部の写真を見たあなたはこう即答しました。『蟹江が宝石のヘアピンを使っているのなんて、見たことない』って。男性は、興味のない異性のヘアアクセサリーなんてそもそも覚えていませんよ」


「モテる男は女性の小さな変化も見逃さないらしいですよ」

「それに東山大学のキャンパス内で、あなたはこうもおっしゃっていました。『僕と蟹江は友達でも恋人でもないが、適切な表現がないだけで、赤の他人ってわけでもない』と。知り合いとか同級生とかゼミ仲間とか、言い方なんていくらでもあるじゃないですか。それらにカテゴライズしなかったのは、少なくとも知人以上の存在だったからでは?」

「……」


 僕はタッチパネルでカシスウーロンを注文し、浅く息を吐いた。




「……ちょっと前に、蟹江に告白されたんです」




 彼女は誰とでもフレンドリーに接するから、まさか自分が特別視されているなんて考えてもみなかった。二人で行動するといっても、せいぜい買い物に付き合ったり、駅前のコーヒーショップで雑談したりするくらいだったから。


「断ったんですか?」

「いえ、男らしくないとは思いますが、保留にさせてもらいました。そんなに長く待たせるつもりはなかったんですけど、まさかこんなことになるとは」


 自嘲とともに笑おうとしたが、喉がかすれてうまく声が出なかった。


「蟹江さんは、あなたから答えを聞く前に……」

「返事は決まっていました。覚悟が追いつかなかったんですよ」


 きっと僕は、誰かと付き合うということを大げさに捉えすぎていたのだと思う。


 もっとシンプルに、もっと率直に、もっと素直になれれば良かった。


 蟹江と一緒にいるのは楽しかったか。心は安らいだか。


 今となっては、うまく思い出せない。


 僕が俯いている間、向野さんの追撃はなかった。飲み物を持ってきた女店員も空気を察したのか、無言でそっとカシスウーロンを置いていった。


「僕の気持ちも、走馬灯現象の時に気づいたんですか?」


 だとしたらだいぶ気を遣わせたことになるし、それに恥ずかしい。


「人が人を想うのに、推理なんて要りません。恋愛が絡んでいれば、女はみな探偵ですよ」


 上目遣いで笑みを浮かべる向野さんは、僕の心を見透かしているように見えた。



 見透かしついでに導いてほしいと委ねたくなるのは、ただの甘えだろうか。



「……甘えだろうな」

「ええ、このウーロン茶、なんだか甘いでしゅね」

「……ん?」


 向野さんが握るジョッキの中身は半分ほど減っていた。そして、ストローが差してあるノンアルコールのウーロン茶は、テーブルの隅でぽつねんとしている。つまり彼女が口にしているのは、僕がさっき頼んだカシスウーロンだ。


 向野さんの顔がみるみるうちに紅潮していく。





 僕はすぐに財布を開いて、帰りのタクシー代が足りるかを確かめた。

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