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不条理なんです、恋心

作者: 桔梗環者

桔梗環者と申します。三月三十一日までは高校生、つまりは卒業シーズンなのでギリギリシーズンには間に合ったと思います。

「色葉さ、友達としての好きと恋愛的な好きの違いって何処からだと思う?」


 なんでもない、いつかの昼休み。取り留めのない一瞬だったのに、この時の会話はいつまでも私の中に残っていた。


 教室の真ん中あたりの席でタコの形をしたウインナーを頬張った詩織が唐突に言った。いつも一緒にお昼ご飯を食べている他の数人は部活の集まりや休みで、机を突き合せた私と詩織と二人だけしかいなかった。こうやって二人で食べるのは久しぶりだったが、特に話題もなく黙々と米を口に運ぶ時間が続いていた。


「どうしたの急に」

 冷えた白米をゴクンと飲み込んで、玉子焼きに突き刺す。耳だけは詩織の方を向いていた。


「いんやね、弟……中学生なんだけど、友達だと思っていた女子に告白されて云々みたいな話が学校であったみたいでね」

「うーん、どうだろ」

 口いっぱいに頬張って考える。


「毎日、」

 どこかで読んだ少女漫画のヒロインのセリフを思い出して、そのまま口にする。


「毎日その人を考えているか、とかじゃない? 友達の事毎日思ったりはしないじゃん? 好きな人の事は毎分想っていたくなるものなんじゃない?」

「おお、それらしい」

「漫画の受け売りだけどね」

 隠すような事でもなく、素直に暴露した。


「そりゃそっか。色葉みたいなのがそんな立派な答え持ってるとは思えなかったもん」

 口の戸が軽い友人はそうやって軽口を言う。

「みたいってなーに、みたいって。私そんなに阿呆に見える?」


「じゃあ、瀬尾とはどうなのよ」

 詩織は目を細めて笑っていた。

「別に何ともないって。瀬尾君はただの友達……だと思う」

「毎日考えていたりしない?」

「しないってば!」

 もうおしまいと言って、私は乱暴に弁当を閉じた。


 詩織はいつまでもニヤニヤと笑って「ほんとにー?」とさらに揶揄ってきた。


「ホントだって」

 私の言葉に嘘偽りはなかった。そのことを察した詩織は、別の話題に切り替え始めた。















 十二月の第三日曜日、進学先の大学の課題に一区切りをつけて、部屋の時計を眺めたら十二時に差し掛かっていた。


 先月の終わり、指定校推薦を使って第一志望の学校に入学が決まった。その代わりに待ち受けていたのは山のような、という言葉がそのまま当てはまるくらい山のような課題だった。進学先が決まって気は楽だが、課題は重く、毎日日付が変わるくらいまで課題に追われる一週間だった。


 別に、特段健康志向があるわけでもないが、十二時を過ぎたと分かった時点で不思議とやる気が無くなって、そのままベッドへダイブする日々。グウッと伸びをすると背骨がポキポキと軽快な音を立てて、同時にため息が漏れた。

 「今日はもうおしまい。寝よ」


 その時、ヴヴっとベッドの上に放り投げていたスマホが震えた。

 「……瀬尾君だろうな」

 椅子から滑り落ちて膝立ちのまま背後のベッドに行きつく。

 「どこだスマホー。スマホ―……あ、あった」

 実際、瀬尾君からメッセージが来ていた。



 瀬尾君こと瀬尾宗哉君は私の数少ない異性の友達の一人で、二年の頃からの付き合いだ。クラスメイトで友達。移動教室はよく一緒に行って、偶にメッセージのやり取りをして、そういう時間では大抵お互いの好きなアイドルの曲の話や、日常のちょっとした話をしている。

 友人からは「いつも一緒にいるね」「付き合ってるの?」と訊かれることが時折あるが、「いいや、友達」とだけ返している。

 瀬尾君の方もそういう質問をされた時は「友達だけど?」と返していた。

 私と瀬尾君の関係はあくまでも友人なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。第一、瀬尾君を恋愛対象として考えたことなど一度だってないのだ。

 それに、この何とも丁度いい距離が形成されてしまっている以上、縮めるのも離れてしまうのも考えられなかった。




 その友達である瀬尾君からのメッセージはいつもと同じような感じだった。

 『ついさっきのウチの猫様。絶賛反省の色なしなんだよ』

 メッセージと共に「私は花瓶を割りました」と書かれたプラカードのようなものを首からぶら下げている茶トラの猫の写真が送られてきていた。ふてぶてしいまでにそっぽを向いているので確かに全く反省していないように見える。


 『なにしたの』

 口元を緩めて猫の写真を眺める。

 『壁で爪とぎしてた。予備校帰ってくるなり母さん発狂していてさ』

 納得の内容だった。我が家では猫は買っていないが、見るも悲惨な光景となるのは容易に想像できる。だが、こうして遊び心がある限りはそれほど激昂するほどではないと見える。


 『お疲れ様』と添えられたパンダのスタンプを送る。


 『まあ、母さん溺愛してるからこんなことしてるんだけどな』


 『笑。お母さん面白いね』


『今さっき帰ってきて、早々これ見せられて何とも言えないんだよな。反応に困ってさ』


 確かに、自分の母がこんなSNSでしか見ないようなことをしていたら微笑ましいとか面白いと感じるより、何おかしなことやってんのといった感想のほうが先に出てきそうだ。

 瀬尾君のお母さんにあったことないので何とも言えないが、もし我が家で猫を飼っていて、母が同じことをしたら、きっと私は白い目で見る。


 『と、言う事は今帰り?』


 途切れそうな話題を惰性で繋いだ。


 『そそ。もうセンターまで一か月切ってるし、残れるだけ残ってる』


 『うわぁ、お疲れ様。ゆっくり休んでください』


 瀬尾君は国公立大学を志望しているそうで、推薦でいち早く受験を終えてしまってしまった私は、その頑張りに尊敬するばかりだ。眠気と格闘しながら英単語帳とにらめっこをしている姿を毎日教室で見かける。半年くらい前の模試では確か第一志望がB判定と言っていたか。


 なんにせよ、今が追い込みの時期であるのには間違いない。明日の終業式が終われば冬休み。いよいよ忙しくなるのだろう。


 こうしてメッセージで会話するのも、これからどんどん減っていくのだろうなと思うと、仕方ないにしろ少し寂しいと感じてしまう。


 瀬尾君から『ありがとう』とのスタンプが送られて、会話が途切れた。


 スマホを枕元において、部屋の電気を橙色の常夜灯に変える。ベッドに潜り込んで、もぞもぞと足で掛布団を身体に合う位置に調整して、手探りで再びスマホをつかみ取る。

 SNSを一通り確認して目を閉じようとしたところで、瀬尾君からまたメッセージが来た。


 『そう言えば、平田にオススメしたい飲み物が』

 眉を上げて眠たい目をこすって見開いた。瀬尾君がお勧めしてくる物は大きく二つに分かれる。とてもセンスの良い物か、微妙に私のセンスと合わないものだ。後者は本当に微妙で、決して嫌いな訳ではないが、決して好きにはならないものばかりだった。一度試してみたらそれ以降はない。

 それでも、偶にお勧めしてくれるものを期待してる私がいた。


 『ぜひぜひ』


 仰向けになってスマホを掲げる。


 『甘いもの好き?』


 『大好きです』

 白いパッケージのやや小さめのペットボトルの写真が送られてきた。所々に苺の粒らしきものが見える。 

 『コンビニで売ってるイチゴミルク、ほんとに美味しい』


 どこのコンビニと訊くと、丁度高校の通学路の途中にもある名前だった。早速、頭に朝起きてからの予定を組み始める。

 『そんなに美味しかったの?』


 『マジのマジ。昨日見つけたんだけど世界変わるくらい美味しい。十段階で評価したら十五くらい』

 『十五って微妙じゃない?』


 そこは百というものではないか。

 『ちなみに七は二日目のカレー』

 ならばその二倍くらいの美味しさだと考えればいいのだろうか。イチゴの甘酸っぱさと砂糖の甘さが妄想の中で口いっぱいに広がる。

 同時にぐう、と鳴ってしまいそうな空腹感を覚えた。食べ物の話題をしたからだろう。最近は、夜更かしすることも多いから意識して夜食は控えるようにしているが、今無性にイチゴのお菓子が食べたくなってきてしまっている。台所にあっただろうか。


『瀬尾君がそんな話するからおなかすいてきたんですけど!』 

 私は口角を緩めながら親指動かした。


 『ひどい言いがかりだな!?』


 『そう言う訳で私はもう寝ます! 明日……今日学校だし、早く学校行ってイチゴミルク買わないといけないし』


『明日感想聞かせてくださいな』


「了解、と」


 『おやすみ』と寝むそうなパンダのスタンプを送り、瀬尾君からも同じようなスタンプが返されて、この会話はお開きになった。


 さっきまでのチャットをなんとなくスクロールして、なんとなく余韻に浸る。猫の写真に思わずニヤけてしまう。


 大抵勉強の励まし合いばかりしていて、今日のようなたわいもないやりとりは久しぶりな気がした。何気なしにスクロールを繰り返して、瀬尾君とのやり取りを追想する。前回のやり取りは一週間前だった。その前は二週間前。この時は通話もした。深夜十一時くらいから一時間くらい。私はコーヒーのカフェインのせいで全く眠れず、瀬尾君も同様だった。瀬尾君の方から通話を始めてきたので無碍にもできず、お互い勉強の見張りという体裁を取って話し続けた。話し続けたと言っても、殆ど無言でペンを動かす音ばかりだったが。


「その前は……前は……」


 次第にスクロールする手が速くなる。不思議と変な高揚感が沸いてきていた。


「……うわぁ、三年生なってから最低週一は瀬尾君と話しているなぁ」


 数回のやり取りで終わる日もあれば、かなりの長さがあるものまであった。それ以前に遡ると、頻度はぐっと減っていた。


「二年はまだ学校で話していたからかな」


 そう納得して、腕を高く伸ばす。


 もう学校生活も終盤だからだろうか、ちょっとしたはずみで今までの高校生活が漠然と瞼の裏に浮かぶ。


「初めて話した時はビックリしたなぁ」


 私たちの出会いは、うちの学校ならではの数奇なモノだった。

 そうやって柄にもなく感慨に耽る。卒業まではあと三か月もあるのに、次々に学校での思い出が蘇ってきた。それは多分、一昨日担任の先生が、私たちが制服に腕を通すのはあと数回しかないといった事を伝えてきたからだろか。


「でも、半年くらいは殆ど喋らなくって……あれも驚いたよなぁ……」


 ──こうしてみると私、瀬尾君の事ばっか考え…………て……それ、で。


 スルッと手が滑って顔面に黒い物体が重力に従って私に引き寄せられる。


「いたぁ!」


 スマホに殴られた鼻が潰れた。てっぺんからツンと刺されるような痛みが走って目尻から涙が出る。同時に何故だろうか、急に喉の渇きを覚えた。今、涙が出たからだろうか。イチゴミルクの話をしていたからだろうか。

 ──そんなはずはない。


 スマホをそのままベッドに置いたままにして、体を持ち上げて部屋を出る。階段をタタタと小走り気味に下りて、リビングのドアを勢いよく開けた。


 バンッと予想以上の音が出て、心臓が跳ねるも、この異常な鼓動はそれだけじゃない。


 リビングには誰もおらず、もうお母さんもお父さんも寝ているようだった。しかし、証明は点けっぱなしだった。白く、明るい光がまぶしく、目を細める。

 台所の電気を点けて冷蔵庫を開けた。お茶のポットを取り出して、棚から自分のコップを引っ張り出して思いきり注ぐ。泡が立って幾らか零れる。

 運動後疲れ切った人のように一気に飲み干す。一杯だけじゃ物足りなくて、二杯三杯と注いで飲み干すも、全く喉が潤った感じがしない。


 足の裏が浮ついている。背中が濡れている。今は十二月なのに。

「……風邪ひいた?」

 すぐさま体温計を探して熱を測る。結果はバリバリの平熱。むしろ少し低いくらいだった。

「…………」

 手すりを掴みながら、階段を一段一段昇る。答えは浮かんでこなかった。


 胸にわだかまりを覚えたまま、部屋に戻ってベッドに潜る。心臓の音が布団の中でうるさい。


 自分が自分じゃないみたいになって、カーテンの隙間から漏れる冷気が不安を煽る。

 あれから瀬尾君からメッセージは来ていなかった。画面をスクロールさせてとのメッセージを見返す。さっきの疑似追体験をすれば、この不調の原因もわかりそうな気がした。分からないまま終わればよかったのに。


「こうやって、さっきは……」


 脳内で何を思っていた。自問自答を繰り返す。


「瀬尾君のことを―――ッ!」


 ドン、と壁に何かが当たる音がした。私の手元からスマホが消えていた。

 私がスマホを投げた音だった。そのことに気づいたのは、私がいつの間にか起き上がっていて、常夜灯の光の隅っこで光を乱反射しているひび割れた画面が目に入ってからだ。


「――──!!!」


 なりふり構わず布団を頭から被っていち早く夢の世界に行こうとするも、鼓動が布団の中で爆音のように反響していた。


 眠気は完全に消えてしまっていた。


「違う違う違う。だって!」


 目を閉じても開けても瀬尾君の気の抜けた声が、気のよさそうな顔がずっと離れない。

 この現象、この心情に名前を付けることはとても簡単なことだった。 



 だけど、それを認めることを心の底から拒否していた。



「だって、私と瀬尾君は友達で……下らない事で馬鹿みたいに盛り上がったり、推しを好きなだけ語り合ったり、課題見せ合ったりする、そういう関係で……詩織とかとかと同じ扱いだし……所詮その程度だし……だから、これは気の迷いというか、課題で疲れてるから変なこと考えちゃっているんだ、きっと。そうだ、きっと……うん」


 頭が悪い方向に回転している。常夜灯までも消して、目をギュッと閉じる。


 そうしたら、高校生活の憧憬がより鮮明に脳内を駆け巡り始めた。















 私たちの学校は少し特殊だった。

 公立高校でありながら、二年次から自分たちの時間割を自由に選択することができる制度を執っていた。

 大学の単位制とほとんど変わらない。


 受験で使う科目や、好きな科目だけを選択できるという点では非常に合理的で便利なシステムだ。

 卒業必要単位だけ最低限受講すれば空きコマも平気で作れたのがこの制度の最大の利点と言えた。

 その結果、同じクラスより他クラスの同じ講座を取っている人同士でのつながりが増えていくことの方が多かった。クラスなど関係なく講座毎に交友関係が築き上げられていくことが多く、ホームルームクラスはホームルームをするだけのクラスになり下がっていった。

 それでも修学旅行なんかホームルームクラスで活動するわけだから、クラス内での交友関係もある程度持っておかないといけないわけで。そういう所がこの学校ならではと言えた。


 私と瀬尾君は二年生から同じクラスになった。席も離れていたので、初めの頃はお互い認識すらしていなかった。


 年度初めの自己紹介も、自分の近い席の人や気になる人の紹介を聞くので精いっぱいで、その中に瀬尾君は入っていなかった。

 ただでさえこのホームルームクラスで動くことは数回しかないのだから、全員分熱心になって聞く必要も覚える必要もなかった。言ってしまっては何だが、私も瀬尾君も良い意味で印象に残るような容姿体型はしていない。かといって強烈な悪印象を与えるような容姿でもなかった。

 自分の名前を言って、好きな食べ物や無難な趣味を一つ挙げて二年間よろしくお願いしますと自己紹介。まばらな拍手の中で席に座ってすぐ次の人。そんな形式的な自己紹介が四十人分、流れ作業のように進むのだから、これほど退屈なことはなかった。私はあくびを噛み殺しながら、ずっと別の事を考えていた。




 そんな私が『瀬尾宗哉』というクラスメイトを知ったのは四月終わり、種々のオリエンテーリングもようやく終わって、最初の授業の時だった。

 自分たちで決めた時間割、それぞれの講座で教室が異なる。早い話が毎時間移動教室。

 出席番号が近く、早速仲良くなったクラスメイト数人はこぞって理系で、文系の私とはまるで違う時間割だった。英語は文理共通だったが、それも彼女たちとは違っていた。

「ごめんね~」と悪びれもなく苦笑いをした友人たちは「お昼は一緒に食べようね」と階段を上っていった。私は彼女たちを尻目に一人寂しく、俯きがちに初めての教室に向かって行った。

 一年の時に仲良くなった友達も理系だった上に全員クラスがバラバラになってしまっていた。


 不安とやり場のないイライラで茫漠とした焦慮に駆られていた。講座内で話せる人、課題だとか、授業内容だとかを訊きあえるような人を作らなければいざという時困る。それくらいの事、隣の人とうまくコミュニケーション取れれば大丈夫でしょ、と楽観視出来る性格だったらと思わずにはいられなかった。




「……んん?」

 私が異変に気付いたのは一日も終わる七限の世界史の授業の時だった。


 授業説明と春休みの課題を提出するだけの時間だったが、やけに疲れが溜まっていた。主に、移動教室の度に階段を上り下りする羽目になった足が。

 結局、六限の一度たりとも隣の人にさえ話しかけられないまま一日が終わろうとしていた。教室に入ると、先の六限と同じように黒板に張り出されてある座席表を確認して、フラフラとした足取りで席に座った。


「…………」

 改めて確認したい。この学校は自分で時間割を作成してその通りの教室で授業を受ける。講座が被っていたとしても、精々が一か二科目。少し多いと三科目くらい被ったりもするらしい。


「そのはずなんだけどなぁ」


 被っていたとしても、丸一日、同じ人を見ることがあろうか

 見間違いかもしれない。自分の記憶に自信はなかった。思い返してみると、毎時間の座席表に『瀬尾宗哉』と言う名前があったような気がする。

 もしかしてすごい講座被っていたりするのだろうかという疑問と、それを確信に変えたい好奇心が沸々と湧いてきた。


 所詮、沸いただけだっただけだが。


「話しかけてみようかな」


 幸い『瀬尾宗哉』と思しき彼は私の一つ前の席に座っていた。


 肩の付近まで手を伸ばして、その手が宙を漂って五分が過ぎた。


 今話しかけたら迷惑にならないだろうか。大体名前も知らない女子から話しかけられたら嫌じゃないだろうか、なんて思っていたら話しかけようにもできなかった。


 また明日、再度確認を取ってから話しかけてからでも遅くはないだろうと思うくらいに、私は臆病だった。




「……ねえ」



 不意に、目の前から聞きなれない男子の声が聞こえた、ような気がした。いつの間にか、目の前の男子はこちらの方を向いていた。細い二重の眼、ワックスで上げた黒い短い髪の男の子が私をじっと見つめている。

「ねえ」

 もう一度聞こえた。聞き間違いではなかった。


「……はい!? ……私に言ってる?」


「それ以外に誰がいるの」

 彼は責めるわけでもない口ぶりで、淡々と言った。疚しいことなんてあるはずもないのに、追い詰められたような気がしてならなかった。


「さっきから視線が痛いっていうか……ええと、何か用?」


「あー、えっと……」その次の言葉を用意していなかった私は窓を見たり黒板に目を逸らしたりした。コミュ力に乏しい自分を恨んだ。


 ──今日の授業全部同じクラスだったみたいなんだけど、ちょっと確かめてみたいから時間割見せてくれないー?

 みたいなことを気さくに明るい調子で切り出せれば良かった。



「……時間割、ください」


 緊張のあまり出た言葉は、時間割そのものを欲しがるような口ぶりになってしまった。

「新手のカツアゲ?」

 耳の奥がキーンとつんざくように鳴って、さらに血の気が引いた。


「えっと……時間割はあげられないよ」


 『瀬尾宗哉』は乾いた苦笑いを浮かべた。私も同調して「そうだよね」とぎこちなく笑うしかなかった。


 それでも、私の伝えたかったことを何となく察してくれたのか、クリアファイルから時間割の書かれたプリントを取り出して、私の机に置いた。


「見せてもいいけど、理由訊いても、」

「私の?」


 彼の言った事なんか耳に入らず、思わずそうつぶやいてしまう程、私と瀬尾君の時間割は似ていた。違っていたところと言えば、時間割の上に『瀬尾宗哉』と記載されているところくらいなものだった。


「……ええっと、平田色葉さん、でいいんだよね? 『私の』ってどういう意味?」


 私は手を震わせて直ぐに、スマホの待ち受けにした自分の時間割を彼に見せた。

「……俺の?」


「だよね、そう思うよね!?」


 私は夢中で机に乗り上げて瀬尾君に近づく。それに連動するように彼が身を引いて「近い近い」と頬を少し赤らめた。

「あ、ごめん……」ストンと腰を落とす。夢中になると、途端に視野が狭くなる。私の嫌いな、私の癖だ。


 落ち着かせてからもう一度、時間割のプリントに目を落とす。


「瀬尾宗哉君、よく見て」


「はいはい」フルネームはやめてほしいけど、と付け加える。


「瀬尾君が倫理と政経入れているところ、私空きコマなの」


「そりゃ、見ればわかるよ」


 私は二枚のプリントを指でなぞる。

「よく見て、それ以外、全部被ってるの」

 瀬尾君は息を呑んだ。


「……だな。改めて見ると、すごいシンクロ率だな。全部だよ、全部。奇跡か、去年の時間割作成の時思考共有でもしていたかとしか思えん」

「テレパシーで通じ合っていたのかもしれないね」

「かもしれない」


 瀬尾君は目をぱちくりさせて、未だ信じられないといったような目で私を見ていた。私も多分おんなじような表情をしている。

 狙っていないで全部の科目被っているだなんて、宝くじの一等が当たるのといい勝負かもしれなかった。



「偶然ついでに一個提案いいかな」

 瀬尾君が机の端をコツコツと叩く。


「なんです?」


 瀬尾君はもったいぶったように咳ばらいをしてから言った。


「初対面で、こんな事言って迷惑じゃなければいいけどさ……RINE交換しない? 別に深い意味があるわけじゃなく、課題とか、そういう連絡取りあえる人いた方が便利かなって思って。だって、ここまで講座被りしてるんだよ? 有効活用しない手はないじゃん」


 やや遠慮気味に、それでも力強く瀬尾君は手を合わせた。


 願ってもいない提案だった。私はすぐさま頷いて応える。


「もちろん。こっちこそよろしくお願いします!」


 言い終えてクラスのグループから連絡先を交換したタイミングで丁度良く予鈴が鳴った。 

 世界史担当の白髪で腰の曲がった先生が入ってきて、瀬尾宗哉君は前に向き直った。


 一時間、私は口角が吊り上がりっぱなしで、全く先生の話が耳に入ってこなかった。


 今年一年ずっとまとわりつくかもしれなかった憂慮が、たった一日で、しかもたった一人のクラスメイトのおかげで全て払拭されることになったのだ。




 放課後、軽やかな足取りで帰った。




 瀬尾君とは、体育や私の空きコマ以外毎時間顔を合わせるという事もあり、同じ講座の移動教室は成り行きで大抵、毎回一緒に行った。

 だけど、連絡先を交換したはいいが、数か月くらいは『よろしくお願いします』と送ったきりトーク画面の下の方に埋もれていた。

 休日にまで特別連絡する用なんてなかったし、そこまでの仲だとでも思っていなかった。尋常じゃないくらい講座が被ったクラスメイト。そんな関係だった。

 それに、私も瀬尾君も概ね課題などはキチンとこなしてくるタイプだったし、一度も休まなかった。課題関係で連絡する用事もなかったのだ。



 学校内でも必要以上の会話はほとんどしていなかった。

「……平田さん、プリントのここ、先生なんて言ってた?」

「そこは、レパントの海戦。逆にここの空欄何入れるの?」

「ああ、そこはチューリップ時代」

「なるほど。ありがとう」

「こちらこそ」

 といった具合の淡白さだった。出会ってから夏休み含めて四、五か月間ずっとこんな調子だった。


 この味気ない関係が少々奇妙だという自覚はあった。友人曰く、仲がいいのか悪いのか分からないとのことで、実際私も良く分からなかった。


 でも、居心地自体は良かった。確実に信頼できる人が一人いるだけでも、毎時間教室移動をするこの高校では非常に安心感を得られた。依存しすぎるのも良くないので、少しずつ隣の人とかと係わりは持つようにしていったが。


 瀬尾君自体に興味はないわけではなかった。趣味はあるのか、どんなものが好きなのか。あくまでも、クラスメイトとしての好奇心だった。

 そこの間を踏み越えるには、何かしらきっかけが必要な気がしていた。


 ほんの些細なきっかけで良かったが、別に、来なくてもよかった。




 十月、私はとても晴れやかな気持ちで一週間の秋休みを迎えていた。バッグの中の通知表は二年に入って最初の成績が綴られていた。考査での出来が功を奏して、滑り出しとしては好調。いつも口酸っぱく突っ込んでくる母も、通知表さえ見せれば「後期も頑張りなさい」と一言だけ言って、しばらく不機嫌になることはなかった。


 そのおかげで私は秋休みの最終日、三年前から大好きなアイドルグループの全国ツアーに心置きなく、なに一つのしがらみもなく行くことができた。


 五人組の男子グループ。カッコよさもさることながら、主観ではあるが、歌唱力や踊りの技術が他のアイドルと比べても群を抜いている。

 初めて見た時は、まだ結成から一年かそこらだったはずだ。今はすっかり疎遠になってしまった中学の友達に布教されたのが始まりだ。

 その頃は何かにハマるだとか、好きになるだとかの趣味を増やすことに対してとても後ろ向きだった。今も大して変わらないが、当時はもっと酷かった。

 それでも、友達の誘いを無碍にすることも出来ず、仕方なしに彼らの出る音楽番組を観た。


 その後の顛末は簡単だ。


 翌日にCDショップにあったアルバムを中学生の財力の限り買った。

 何度かライブにも応募はしていたが、二桁に届くくらいの倍率は大きな壁だった。

 高校に入ったと同時にバイトを始め、そのお金でファンクラブに入ることは許可してもらえた。それでも流石の人気と倍率だった。


 このライブで初めて当選した時は悲鳴を上げて涙が出るかと思った。しばらく現実を受け入れられず、その日の晩御飯の味がしなかったのはよく覚えている。

 苦節三年、いくつもの『ご用意されませんでした』を越えて念願の初ライブだったのだ。

 ハコは一万弱。そこで誰が見知ったクラスメイトに声を掛けられるなんて予想できるだろうか。


「平田さん?」

 その一言にどれだけ肝を冷やされたことか。



 月の光は興の公演を終えて灰色の薄く広がった雲の幕によって覆われた夜。街灯の黄色く白く光る光だけが帰路に着く人の靴を照らしていた。

 目の裏で、ついさっきまでの彼らのダンスがずっとリプレイされていた。まだ聞こえにくい耳の奥で、ついさっきまでの彼らの歌が再生され続けていた。

 会場の入り口付近の生垣近くに立ち尽くして、私はライブの余韻に浸っていた、会場をぼんやりと眺めていた。会場のホールは万を越える人を収容できるだけあって、少し離れた程度では両手を広げてもまだ余りあるくらい大きかった。

 事後物販に並んでいる列も目に入るが、肩に下げたトートバックの中の満たされた中身と充足感に満ちた胸が、わざわざ物販に足を運ぶ必要がないことを物語っている。

 そんな多幸感に満ちた至福の全身につま先ほどの虚無が染みだしていることに気づいた。この数か月間をさっきまでの二時間足らずに全て注ぎ切った反動。これが燃え尽きるというやつなのだろう。初めて体験する、相反した感情が指先から体全体を渦巻いているこの状況に、聞くよりずっと泣きたくなるものだなと感じて幕の閉じた空を見上げた。


「あー、明日からまた学校か……」


 一気に現実に引き戻されそうになっている。家に帰るまでが遠足であるように、家に帰って会場限定のCDをパソコンから音楽プレイヤーに取り込んでベッドの中でそれを聞き、寝落ちるまでがライブなのだと友達は言っていた。それに倣うなら、まだ今は虚構夢想の最中なのだろう。



 トートバックを持ち直して、アリの軍隊のようにぞろぞろと駅に向かって行進をする人たちを目に入れる。進みも遅く、詰まりながら流れていた。あまり人が少なくなってから帰りたくはなかった。


 これくらいの人だかりに紛れて帰ろうと、家に着いてからの計画を夜空に描き、虚無感から目を逸らしながら歩きだしたところだった。




「あれ、平田さん?」



 その一言で、否が応無しに目を逸らしていた現実に引き戻される。


「瀬尾……君?」


 長い裾のスカートを翻して、聞きなれた声の方を向いた。私より頭一個分くらい高い身長の彼がそこにいた。私服姿で、それがいつもの制服での彼と乖離していたために一瞬誰かと疑ったが、紛れもなく瀬尾君であった。


「やっぱり平田さんだ。終業式ぶり」

 瀬尾君は手をひらひらと振った。思わぬ遭遇に驚きを感じていたのかもしれない。


 どうしてこんなところに瀬尾君が。私は背中が凍るような心地がした。


「こ、こんばんは」

 一歩後ずさりする。


 私がライブに行っているという事はクラスの友人にも伝えていない。周りに所謂ドルオタだということも公言していない。ちょっと気になっている程度しか話題にしたこともないはずだった。

 むしろ、その手の趣味は隠している方だ。

 私は意図して人と一定の距離を取っていた。趣味に関しても、滅多な事では自分から言わない。あとは大体周りに合わせて何となく答えて下手に軋轢を生まないようにいい感じの距離を自然に保つ。

 それはひとえに、私が人と距離を測るのが苦手だったからだ。

 中学時代、クラスメイトに物理的にも精神的にも距離が近いといった事を言われて白眼視されたトラウマが甦る。あの視線が怖かった。遠巻きに囁かれ、決して超えることの叶わない境界線を引かれて拒絶されたような、あの目が怖かった。

 無趣味と言われてでも拒絶されるよりはましだった。

 毎日顔を合わせる瀬尾君とも授業内容程度の会話しかしてこなかったのも、そう言う訳であった。


「奇遇だね。平田さんもライブ帰り? 誰かと一緒?」


「ううん、一人。一緒に行くような友達いないから」


 私は内心とても焦っていることを誤魔化すように言った。


「あ、なんか悪い」


「いや、友達はいるよ!? ただ、趣味とかそんなに人に話していないだけ」


「そういう」瀬尾君は納得したように頷いた。


「平田さん、こういうのが好きだったんだ。ちょっと意外」


 こんな所で瀬尾君に会ったのは想定外だった。自然に話せているか不安になる。

 ライブの高揚感がまだ残った身体でまた中学のような過ちを犯さないか心配で、奥歯をギュッと噛み締める。趣味のことが露見したのは最早不可抗力だったからせめて、喋り過ぎないように気を引きしめて、瀬尾君に向き直った。


「そんな意外だった?」


「アイドルとか好きなイメージなかったから」


「じゃあ逆にどんなのが好きだと思ってたの?」


 瀬尾君は顎を摘まんで考え込む。

「逆にって言われるとなぁ……なんだろ。流行りの曲をちょいちょい追って流行に後れないようにしながらも特にこれと言って強く推す人はいない感じ」


「やけに具体的だね!?」


 実際、かなり当たっているからぐうの音も出なかった。

「私の事、よく見ているんだね」率直な感想が意識せずに出た。


「いや、割と適当に言ったし。そんな平田さんの事ジロジロ見てるわけじゃないからな!」

 瀬尾君は何故か焦ったように言った。


「それより、私としては瀬尾君がいることの方が驚き」


「俺は妹と、その友達の保護者的な感じで来ただけだった」


「あぁ、妹さん」

 きょろきょろと瀬尾君の周囲を見渡すも、それらしき人はいなかった。

「で、肝心の妹さんとお友達は?」

 私は瀬尾君に訊いた。


 瀬尾君は恨みつらみが籠ったようなため息を溢して、パーカーのポケットからスマホを取り出すと、強く握りしめて私に見せた。【妹】と表示されたトーク画面だ。

『友達と話しながら帰るのでソウは適当に帰って』

『は?』 

『感想語り合うのに邪魔なんだもん』

 『はあ?』

 『帰りの電車くらいわかりますし。じゃ、そういうことなので』

 『はあ?』

 それ以降は既読も付いていない。


「と、言う訳です」


 瀬尾君の顔に影が落ちているのは、きっと街灯のせいではない。


「えっと……なんというか、ドンマイです」


「別にいいんだけどな。アレの子守りするのも疲れたし」

 瀬尾君は呆れ顔を浮かべて、吐き捨てるように呟いた。


「……っと、ほんとゴメン。ライブ終わりだっていうのにこんな愚痴聞かせて」


「別に平気。瀬尾君と話してたら、ライブの余韻全部吹き飛んだから」 


 それが、やけに突き放すような言い方になってしまったと気づく。

「悪い意味じゃないから」と、言い訳がましく付け加える。

「そ、そう言えば、妹さんの付き添いでライブ来たんでしょ? 分かんない曲ばっかりだったんじゃない? 面白かったの?」ぎこちなく、目線を逸らしながら話題を切り替える。

 すると、瀬尾君はスマホを取り出して、見せつけてきた。


「妹から持っているCD借りて、無い分は自分で買って、とりあえず全部揃えて取り込んで予習はしたんだよ」


「ちょっと見てもいい?」


 私は瀬尾君からスマホを受け取ると、アルバム一覧に画面を切り替えた。

「瀬尾君」

「何です?」

「全部って、」

「全部だよ。今まで出たアルバムとシングル買えるだけ全部。妹が意外と持ってなかったから、それなりの出費になった。そりゃあ、初回限定盤とかもう売っていないやつは無理だったけどな」

「ガチ勢過ぎません?」


 私は目を丸くして瀬尾君を見上げた。何がこんなに彼を突き動かしたのか。


「だって、知らない曲出てきたらその時盛り上がれないし。そしたら絶対つまらないのは分かり切っているし」


「気持ちは分からなくはないけど、そういうのを世間一般で馬鹿大真面目って言うんだよ?」


 まして、好きでもないような人の曲を付き添いの為だけに全部聞くだなんて。いや、好きではないとは一言も言っていなかったか。


「聴いているうちに一気にハマったんだよ。妹から借りた分全部聴き終わって気づいたらCDショップで会計済ませていた」


 照れくさそうに言う瀬尾君が、昔の私に少しだけ重なった気がして、それがなんだか、少しだけ嬉しいだなんて思ってしまった。

「平田さんもおんなじ経験ない?」


「えっと……あります。とっても」


「あるよね!?」


 グッと声量が上がって、思わずドキッとする。それに気づいた瀬尾君が周囲を見渡して、気恥ずかしそうにしていた。


「良かった。妹にドン引きされたし、友人連中にもねぇよって言われたばっかりでさ。良かったわ、ちゃんと同士いた」


 その時、スマホが震えた。母から『いまどこ』とメッセージが来ていた。


 もう既に帰りの人の列もまばらになっていて、一人でこの夜道を行くのは少し心細いまでになっていた。かと言って、目の前の瀬尾君を連れていくのも申し訳ない気がする。

 私は母に『まだ会場。今帰る』とだけ返した。


「そろそろ帰らなきゃ。瀬尾君、話せて楽しかった。またね」


 また明日と言って、私は肩にトートバックをかけなおして歩きだした。








「──待って」



「引き留めちゃったし、もう暗いからさ、良かったら駅まで一緒に行かない?」


「そんな、悪いよ」


「いや、こんな時間にまでなったのは完全に俺のせいだし」


「でも、付き合ったのは私だし」


 堂々と押し問答が続く。


「じゃあさ、歩きながらライブの感想語り合うっていうのは?」


 言葉に詰まった。感想の語り合い、甘美な響きだった。誰も見ていないSNSで、壁打ちのようにライブの感想を書くビジョンしかなかった私にとって、生身の人間と語り合うのは夢のようなことだった。

 だが、それを危険視する私がいる。また、嫌われるかもしれない。

 でも、今この誘いを断った方が余計に瀬尾君と気まずくなりそうなのも事実だった。電車の方向も多分同じだ。瀬尾君を拒絶してしまうことになるのではという危惧もあった。

 完全に八方ふさがり。ならば、

「じゃあ、うん。よろしく、お願い、します」


 悪癖のことは自覚している。ならば気を付ければいい話だ。


 数年前よりは成長しているはずだ。ヘマはしない、と高を括った。




















「─────でね!? 顔だけじゃないの! 顔だけならこんなに沼にハマっていない! 歌とダンスが他のアイドルと明らかに一線超えている存在なの! 完成度が違うの、完成度が! 神々しいよ! もちろん顔もいいんだけど、私特定の誰かを推しているわけじゃなくって。あのグループという一つの奇跡みたいな存在を推してるの! 要は箱推しなんです! 分かりますか!?」


 ──終わった。見事なまでのフラグ回収。


 帰りの電車、ライブ帰りの乗客でそれなりに密集している中、気づいたら私は瀬尾君に密着する勢いで迫っていた。物理的距離僅か十センチもない。もしこれが揺れる最中だったらと考えるとゾッとする。停車している時だったのがまだ幸いだった。無意識だった。全く成長なんてしていなかった。


 駅までの道から電車に至るまで、ライブの感想を語り合っていた。セットリストをネットも見ながら確認して、一曲目から順番に、だった。

 最初は話し過ぎてしまわないように、ほとんど聞きに回って、相槌を売ったり、会話を適度に拾って膨らませたりした。友達と話す時と同じ要領だった。そうしていけば意外と何とかなっていたのだ。聞いているばかりではいけないので、途中途中で自分からも話題を出していく。


 だが、ライブ後の高揚感、誰かと面向かって趣味の話ができる嬉しさで徐々に自制心が緩んでいったのは否定しようもない。

 その結果が、これだ。


「平田さん、近い……」


 私はすぐさま跳び退いて中刷りの広告に目を移し恐る恐る瀬尾君を見上げる。

 嫌われた、絶対。明日からの学校生活どうしていこうか考え始めた。気まずさは残るだろうが、会話しなくなるうちにそれも慣れるだろう。哀しいことだが、自業自得なのだから仕方がない。


 ほら、瀬尾君もウザがって……、


「瀬尾君……なんで笑ってるの?」


「……え、いやだって、平田さん面白いから」


 瀬尾君は肩を震わせていた。つり革を握ってる右手がぶらぶらと揺れている。


「面白い? 引かないの?」


 中学のクラスメイトと対応がまるで違う。不可解でしかなかった。


「急に近づいてくるの、最初の授業でもそうだったんだけど、すっごいビックリしたけど別に引くほどでもないし。それに、いつもの大人しいし周囲と壁作っているような感じとのギャップが凄くて、有り体に言えば……ちょっと」


「ちょっと?」


「いや、なんでもない」


「……キモイだとか?」

「そうじゃない」


 そう言って今度は瀬尾君が私から目を逸らした。「ごめん、今の忘れて」


「嫌われるかと思った」


「今の流れでどこにその要素が? むしろ、俺の方が嫌われていていると思っていたよ」


「瀬尾君を嫌う要素がなに一つも見当たらないんですけど?」


「半年関わって授業以外の話をしないって、正直避けられているか嫌われているかとしか思わないよ」


 半年間の自分の行動を顧みて押し黙るしかなかった。身から出た錆もいいところだった。


「それも、そうだね。意識して壁作ってたから」


「どうしてって、訊いてみても大丈夫?」


 平田さんが嫌じゃなければ、と加えながら瀬尾君は言う。それは、純粋な好奇心のようだった。


 ここまでの失態をさらした後だ。今更ひた隠しにできるはずもない。

 私は慎重に言葉を選んで口を開いた。電車が揺れ始めて、私は手すりに力を入れた。


 そして私は、私の嫌いな所を、友達にも話していないようなことを瀬尾君に語り始めた。吐き出すように、何度もつっつかえながら。

 自分の話をするというのはかなり恥ずかしいもので、大した話でもなく、長々と話すような内容でもなかったのに、随分長くしゃべったような気がした。

 言い終えた時には、心臓が破裂しそうだった。穴が無くても自ら掘って、その中に入りたかった。





「なるほど。そりゃ隠すな」

 全部聞き終わった瀬尾君は軽蔑するわけでもなく、揶揄するわけでもなく、窓の外の真っ暗な景色をじっと見つめていた。


「クラスの、平田さんとよく一緒にいる……」瀬尾君が口ごもる。


「詩織とか、蛍の事?」


「そう。その人たちには言っているの?」


 私は首を振る。

「こんな事で嫌うような人たちじゃないって言うのは分かっているんだけどね。中々そういうの切り出す機会もなくって。ほら、雰囲気って、あるでしょ?」

 そう言うと、どうしてか、瀬尾君の口元が緩んでいったような気がした。


「……さて、平田さん」

 瀬尾君が神妙な口調で口を開くから、私も「ハイ」と強張ってしまう。


「明日から学校で月曜日課だけど、確か空きコマない日だよね?」


「うん」


「……てことは、毎時間顔を合わせるわけです」


「そうだね」


「今までずっと話すに話せなかった話題とか色々あるんだけど」


「いや、あの、ホント、ごめんなさい」


「責めている訳じゃないよ!? ただ、ちょいちょい訪れる話題尽きた時の沈黙が気まずくて。今日みたいに色々話せたらいいなって」

「今日みたいに……」


 脳内で反芻する。

「あんまり面白い話とかできないよ?」

「それは多分俺もだから」

 それから、私の最寄り駅に着くまで、半年分の積もる話を消化しきった。

















「ああああああああああああ!!」



 拳を布団に何度も何度も叩きつける。深夜なのもお構いなしに枕に顔を埋めて絶叫を繰り返す。


「馬鹿ああああ!!」


 涙も出てきた。今すぐにでも暴れたい。暴れても物足りないだろうから、どこか遠くへ行ってしまいたい。


「馬鹿なの? はっず! 恥ずかしい! あああ!」



 ライブの一件があった後、授業毎の会話がぐっと増えた。アイドルの事だけでなく、好きな漫画とか、好きな音楽とか、気になったものを共有しあったり……。


 他の女子の友達並みに話す時が増えていったような気がした。


 私から話しかける場合と、瀬尾君から話しかける場合と半々なのが対等という感じで余計に気兼ねをしなくて済んでいた。


「ああぁ……無自覚? 嘘でしょ……そんなことある?」


 二年生のうちは毎時間の授業の度に肩をそろえて取り留めのない事まで話していたが、三年になると講座も変わって、会話の機会も減ってしまった。だがその分、RINEでのやりとりが増えた。


 その過程のどこかで、『さん』呼びはやめて呼び捨てでも平気だと言った気がする。

 そんな感じで、あくまでも高校に入って初めてできた男友達、友達のように思っていた。


「殺したい。今までの自分を斧でたたき割って殺したい」


 ──遠足、修学旅行、文化祭、体育祭……エトセトラエトセトラ……。思えばこの二年間の高校生活、友人といる時、そして一人でいる時以外は大体瀬尾君が────一緒にいた。隣にいたのだ。思い出されるこの二年間の記憶が私に暴力を振るう。その度に、二度と誰にも顔を見せられないと思ってしまうくらい、顔が赤く茹で上がっていく。「あぁ……」とうめき声が漏れて死んでしまいたくなる。


 私は涙目になって枕を投げた。思いっきり肩を回しての全力投球だ。直線に飛んだ枕は部屋の扉に当たった。深夜に出してはいけない音が出て、ひび割れたスマホの上に覆いかぶさる。

 枕ごとスマホが震えた。恐らく母からの苦情だ。だが、そんなことは知ったことではない。そんなのに構っているほど今の私に余裕はない。

 壁に頭を擦り付けて、口を開けると言葉が、蛇口の壊れた水道のように漏れ出した。


「私多分」


「ずっと前から」


「瀬尾君の事」


「好きだったのかも、しれない」


 脳みそが沸騰する心地がする。バタバタと足をもがき回して、恥ずかしさを誤魔化したかった。誤魔化せなかった。



「はぁ……はぁ……」


 心と体の堰が決壊して、のたうち回ったら幾分楽になった気がした。

 同時に、とても苦しい。

 苦しくて胸がざわついて、落ち着かない。世界の端っこでうずくまってふて寝したい。

 真っ暗な部屋では、時間の進みがはっきりしない。今、何時だろう。スマホは無い上に、この暗闇では壁掛けの時計も見えない。

 いつから好きだったんだろう。死にたくなりそうになりながらも再び記憶を詳らかに掘り返す。

 文化祭で、体育祭で、修学旅行で関わっていくうちに好きになっていたのかもしれない。

 普段のやり取りを重ねてくうちに好きになったのかもしれない。

 あのライブの帰り、一緒に帰ったあの時から好きだったのかもしれない。

 もしかすると、初めの授業の時点で気になっていたのかもしれない。今となっては分からない。


「無自覚……違うか」


 最早、男子との交際経験がなかったとか、人に嫌われたくないがために一歩引きながら接してきたとか、そういうので誤魔化せるレベルの話ではない。


 秘めたる恋心、そんな綺麗で甘酸っぱいモノだったらどんなに良かったことだろう。そんなに瑞々しいものではない。

 むしろ、違和感が凄まじくて気持ち悪い。


「コクハク……したい、かなぁ?」


 恋心に気づいて、次にする事と言うとそれが思い浮かぶ。

 だが、二つ大きな問題がのしかかる。

 一つ、瀬尾君に既に恋人がいるかもしれないという事。それによって拒絶されるかもしれない事。

 そしてもう一つ、私にとっては数日前に無関係になったもの。でも、瀬尾君にとっては一か月を切りいよいよ大詰めを迎えているもの。


「瀬尾君……みんな受験だから」


 まさかこの時期に勉強の妨げになるような浮ついた事を持ち込むなんて非道に似た真似を出来るはずもない。


「こんだけやりとりして、今更って感じもあるけど」


 日付変わるくらいの時間まで予備校に籠りきりなくらいだ。その苦労は計り知れない。


「絶対、迷惑になるようなことはしたくない」


 だから、せめて瀬尾君の受験が終わるまでは隠し通さなくてはいけない。

「……寝よう」

 この気持ちは誰にも、何処にも出すことがないようにしなくては。


 初めてのことだらけで、何一つ自信がない。


 私は理性的で、考えなしで、臆病だ。

















 八時十五分、いつもならそろそろ瀬尾君が教室に入ってくる時間だ。重い荷物で若干猫背気味になって、大股に歩いてくる彼が。

 結局、あの後一睡もできなかった。情けないくらい大きなあくびが出る。内心は全く穏やかではない。


 教室内は、終業式だと言うのに空気は張りつめている。一般受験が多いらしい私のホームルームクラスでは、数学の問題を解いている人、単語帳を開いている人、一問一答を解いている人などがいて誰もが真剣な面持ちだ。私の隣の席の男子も、イヤホンをして物理の映像授業を観ていた。


 教室の窓際の席で恋に現を抜かして窓の外の無駄に晴れた青い空を眺めているような空気の読めない人間は、日本中探しても私くらいなものだ。

 全くもって不条理な恋だ。

 大丈夫だと言い聞かせる。これまでも趣味を隠し通したではないか。あの時瀬尾君に露見したのは、露見するような機会があって、打ち明けた方が良かったからだ。


「大丈夫。打ち明ける機会、つまりは告白……するはずないし、私ができるはずがない」


 手を組んで、ぐっと伸びをして上体を前に倒す。視界が焦げ茶色になって、次第に黒になる。机に突っ伏して考えるのをやめた。


 意識しないようにしていても、耳は聡い。建付けの悪い教室の前の扉がガラガラと歪な音を立てて開いた。


 トントン、大股で教壇を通る音。ギギッ、と机に体をぶつけて床と擦れる音。「っと、ごめん」謝る瀬尾君の声。徐々に足音が近づいてきている。

 足音が止まった。もう目の前にいるのだろう。瀬尾君のホームルームでの席は私の三席斜め後ろだ。

 顔を上げられない。このまま狸寝入りと決め込もうか。

 ──イチゴミルク、買うの忘れたし。

 寝不足で全く頭が働かなかった今朝は、虚ろに身体の記憶している習慣に従って学校まで着いた。その瞬間に、イチゴミルクを買いにコンビニまで寄るという行動はインプットされていない。


 瀬尾君が通り過ぎるのを待つが、中々通り過ぎる気配が無い。

 コン、と机の上に何かが置かれた。ペットボトルのような音だった。


「おはよう」


 私は顔を動かして、その物を見た。白いピンク色のパッケージの飲み物だった。


「コレ、昨日話していたやつ。もう飲んだ?」いつもと変わらない調子で瀬尾君が言った。


「……買うの忘れた」


 声が震えた。


「マジか。じゃあ一本あげる」


「別に、今いらない」


「ずっと見てるくせに?」


 私はずっとイチゴミルクの原材料名にばかり焦点を合わせていた。内容は一文字たりとも入ってきていない。


「……やっぱいる」


「どっちだよ」


「ちょうだい。折角だし」


 本心を隠そうとして、ぶっきらぼうな口調になっている。自己嫌悪は募るばかりだ。それでも瀬尾君の方を見れない。いつものように話せない。身体は蝋のように固まって直座不動を貫く。ボトルの中の液体はぬらりと揺らめいている。





「いーーーろはーー」

 不意に、誰かに呼ばれた気がして「なに」と不用意にも首を回してしまった。

 不幸にも瀬尾君と、目が合ってしまった。


 短く整えられた髪。二重まぶたなのに細い目。少し歪な形をして緩く結ばれたネクタイ。若干肩の余ったブレザー。


 マジマジと観察をしてしまう。

 頬が苺よりずっと紅く、熱くなる。


「ごめん! やっぱなんでもなかった!」

 タイミングの悪いクラスメイト。友人の名前が脳裡で列挙されているが、彼女たちの間の悪さを呪う暇もない。


「……………」


 何か言わなければ。無難に挨拶だろう。それと、飲料のお礼。自然に。普通に。友達らしく。だが、今までどうやって挨拶をしていただろう。

 おはよう?

 ハロー?

 グッドモーニング?

 仕草はどうだった?

 片手は挙げていた?

 両手で小さく手を振っていた?

 ……いやいや、そんなあざとい事、私はしていなかったはずだ。ただ顔だけ向けて「おはよう」と短く言っただけだったか。


 霞がかかったように思い出せないというより、真っ白で、思考回路が全くシャットダウンしている。

 つい先週まで一年以上ずっと毎日続けてきた挨拶の仕方すら思い出せないでいる。正常に処理すらできない。


「──お、おはよう」


 片手をあげて、わざとらしくひらひらと振る。たどたどしくなった不自然な挨拶を誤魔化すように二へっと笑う。どうにか瀬尾君の顔を見ようとするも、つい目が泳いでブレザーの胸の校章やネクタイ、彼の顔の先の天井に目が行く。


「ん、おはよう」


「イチゴミルク、ありがとね。いくらだった?」


 少しずつ、声の震えが引いていく。慣れだろうか。

 瀬尾君は「お金はいい」と手を振った。

「バッグの中にあと二、三本入ってるから。それに勧めた手前飲んでほしいじゃん」


「親切心溢れすぎでは」

 そういう所が……、いけない。そうではない。


「まあ、明日から冬休みだし、年の暮れ親切の大特価セール、みたいな感じ」


「今のは笑うところ?」

「別に笑う所でもないかなー」


 じゃあ、と言うと瀬尾君は思い出したようにバッグから私の手に持っているのと同じペットボトルを取り出して、私の隣のイヤホンしている彼の机に置いた。

 訝しげな顔をしたクラスメイトと何やら言い合い、結局押し付けることに成功した瀬尾君は鼻歌を歌って自席に向かって行った。

 私は訳もなく膨れた。またイヤホンを付けて映像授業に取り組み始めたクラスメイトを蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。


 それが何故なのかは分からない。


 虫の居所が悪いまま、瀬尾君から渡されたイチゴミルクを乱雑に開けて喉に流し込む。


「あっまぁ……」

 世界が変わると言うのは決して大仰な表現ではないと思い知らされた。

 それまでの混濁とした気持ちを全て攫っていってしまいそうだった。

 多少、スッキリした。


「帰りに、二本くらい買おうかな」


 一気に飲むのは勿体なかったので、一日かけてゆっくり飲んだ。

 飲み終わった後、瀬尾君に『美味しかったです』とメッセージを送った。


 既読はすぐに付いた。






















 冬休みに入ると、メッセージのやり取りすらめっきり無くなっていった。いよいよセンター試験まで大詰めだという事で、瀬尾君も切羽詰まっているのだろう。全くと言っていい程音沙汰がない。

 かく言う私も、指定校推薦の条件としてセンター試験を受けなくてはいけなかった。その為、課題と並行してセンターの勉強にも細々と取り組んだ。私は文系な上に私立受験だったので、一日目の三科目しか受験しない。気楽なものだったが、ふざけて臨むような気は更々なかった。

 そう言う訳で、通知の一切届かない冬休みだった。

 いや、一度だけ、明けましておめでとうとだけ送りあった。でも、それだけだった。



 冬休み明けてからの一週間の登校日は、風邪を拗らせに拗らせてしまった。一日も登校出来ず、センター試験の自己採点で集まるまで一か月弱、瀬尾君はおろか、他の友達たちとも全く会わなかった。

 その自己採点の時も、私のような推薦組と二次試験まで続くクラスメイトとの間には見えないが、厳然たる線引きが施されているようだった。

 クラス内でも取り分け仲の良い友達もみんな国立か一般入試だった。

 友達たちとは「おはよう」と交わして、私の体調の心配。それから少しの積もるような、積もらないようなたわいのない話を一、二分してそれぞれの席に戻って終わりだった。

 受験期とはそういうものだ。きっと、そういうものなのだろう。

 だが、瀬尾君のことは意識して避けた。挨拶すらしなかった。

 感じ悪いと思われたかもしれないが、面と向かって話すことを意識しただけで、すぐさま顔に出て紅潮して、とてもじゃないけど隠し通せる気がしなかったのだ。


 そして、その後は自宅学習期間に入る。めっきり、瀬尾君とは係わらなくなっていった。




 センター試験も終わり、大学からの課題も終わり、いよいよ暇を持て余すようになる一月の半ばの事である。

 もう五分くらい経っただろうか。私は自室ベッドの上で膝を丸めて座って、ぼうっと、スマホの画面を眺めていた。目の焦点は合ってなく、かなり瞼が重くなっていた。カーテンは閉め切られて外の景色は全く分からないでいるが、スマホが示す今は五時を過ぎた頃だ。


 画面に映るのは、ライブツアーのチケット落選のメール。何度も見た、いつも通りと言えばいつも通りの画面だった。落ちるのが当たり前の世界で昔は一喜一憂していたが、今は「あ、またか」と落ち込みはするものの崩れ落ちるほどの落胆はなかった。熱意も昔に比べればかなり落ち着いてはいるので、そのためかもしれない。


 ピロリ、と通知が来た。瀬尾君からだった。新年に一度やり取りして以来で、一気に眠気は吹き飛んだ。


「瀬尾君も外れたのかな」


 アプリの起動準備中、そんなことを考えていた。しかし、目に飛び込んできたのは真逆の内容だった。



 『当選していた』



 当選メールのスクリーンショットと共にそんなメッセージが送られてきた。天を仰いで手放しで喜んでいる瀬尾君の姿が浮かんでくる。

 『良かったじゃん。私は外れたよ』

 当てつけのような連絡を瀬尾君がするだろうか。そんな事をわざわざ行ってくるという事は、

 『平田の分もあるんですよ』


 大方、予想した通りだった。だが、私の分もある、その意味が分からなかった。

 『なんで?』反射的に送っていた。


 冬休みが始まる前、私がまだ瀬尾君への気持ちに気付く前、それぞれライブへ申し込んでいた。二人で話し合った結果、各自で一枚だけだ。その方が当選の確率自体は上がるのだ。

 だから私の分があるという事態が全く理解できなかった。


 『妹の分と二枚申し込んでいたんだよ、最初は。でも、ライブの日、三月二十日だろ? アイツ部活の合宿入っていたんだよ』


 『それで、一枚余ったと』


 『そういう事。まあ、平田も当たっていたら完全に無駄になっていたけど。行きます?』


 スマホをフリックする手が止まる。本来なら、願ってもない事だったが、『行きたい』と打つ手が全く動かない。

 瀬尾君はきっと、私の事は友人として誘ってくれているのだろう。純粋に。

 だが、それを受ける私はどうか。不純ではないのか。それを否定できない。


 でも行きたい。ライブ自体には行きたい。


 ライブの頃には瀬尾君も受験は終わっているし、この気持ちを隠す必要も無くなっているから、好きなだけ好意を伝えてもいいのではないか。

 そんな自分を想像できないのは何故だろう。


 一度、スマホから目を離して辺りを見回す。本棚から漫画が落ちていた。


「いつの間に」

 よいしょ、とベッドから起き上がり元の位置に戻す。同時に縮こまっていた身体をぐっと伸ばしてから、またベッドに戻った。思考が少しクリアになる。


 スマホを持って、メッセージを打ち込んだ。



 『ごめん、行けない』




 送ってからほんの少しの後悔と、良く分からないドロドロした感情が沸いてきて、瀬尾君の返事も待たないままスマホの電源を切った。











 それから、さらに何週間か経った。


 瀬尾君からの返信はあったかもしれないが、確認したくなかった。ついでに通知を切っていたせいで、連絡通じないと親には怒られた。だけど、あの日以来RINEは開いていない。


 会えない、話もしない。でも好きだ。二年間無自覚に積み上げた恋心は、たった数か月で消えるはずもない。消えるはずもないのに、それを表に出す方法がない。


 瀬尾君は今も毎日勉強しているのだろう。私立大学の受験はもう終わったのだろうか。国立はもうすぐのはずだ。現を抜かしている私が出来ることは何もない。


 自分が抱いている感情が正しく彼に向いているのかも分からない。


 それを相談する相手がいない。友達はみんなまだ入試も終わっていない。二月の末まで続いているのだという。


 恋心をひた隠しにして、何もしないでいると、漠然と不安になってくる。趣味を人に隠してきたのと同じような感覚だが、何かが違う。


 そんな形容もできない混沌とした心を誤魔化すようにバイトを始めた。受験で一度辞めていたし、いい機会だった。


 無理やり笑顔を作って多忙を極めていれば、少なくとも彼の事を考えずに済んだ。









 二月も下旬に差し掛かるバイト帰りのある日だった。


 夕日も完全に沈んで、街灯が真っ黒な影を伸ばして、灰色の薄い雲が空を覆う。北風がコート越しの私の肌を刺した。

 くたびれた体を引っ張って、駅に向かっていた。私のバイト先は自宅から数駅先だ。帰宅ラッシュからはズレてはいるものの、駅前のロータリー近くにはスーツ姿の人たちや大学生と思しき団体が大勢いた。


「今日も疲れたな……」


 駅の構内に入るとより一層、人の密集度が上がる。


 丁度電車が来たみたいで大量に帰宅者が流れてきている。


「あ、ごめんなさい」


何度か肩がぶつかり、よろめきながらもどうにか近くの柱まで着いて寄りかかる。タイミングが悪かった。この波と喧騒が一度落ち着くまで休息だ。


 ふぅ、とため息をついて、乳白色の柱に全体重をかける。

 気を緩めたら寝てしまいそうになるので、天井を見上げて一息つく。疲れた頭が勝手に回転し始めた。

 まず思い浮かんだのはバイトの事。それなりに充実している。やることは多いし、まだ出来ていない事だらけだが、この調子なら大学へ行ってもやっていけそうと茫漠とした前途への希望が湧いている。


「大学、かぁ」


 それを頭に浮かべたのがいけなかった。そこから、思考が悪い方向に巡って──瀬尾君が頭に浮かんでしまった。

 途端に疲労感が増した。相変わらず通知は切ったままで、日に日に少しずつ罪悪感が募っている。


 瀬尾君の事はまだ好きなんだと思う。ふとした時に彼の事を思うと、まだ少し胸が苦しくなる。でも、もう沸騰するような思いはしていない。


 だから多分、会ったとしてもみだりに硬直したり、赤面しているような気持に襲われるような事はないはずだ。


「……そろそろ行こうかな」


 人の流れに穴が空き始め、頃合いといったところだった。ホームは風が絶え間なく吹き付けるので、出来ればもう少しここにいたかった。


「あれ、定期……落とした?」


 ポケットの中にはスマホとカイロの感触しかない。さっきぶつかった時に落としたのだろうか。肩に掛けた鞄の中も探ってみるがやっぱり見当たらない。バイトの更衣室から出る時にはあった筈だ。もう一度ポケットに手を突っ込んで、辺りを見回す。それでもなくて気持ちは逸り、来た道を戻ろうとした。





「これ、平田のだよね?」



 だが、右足を踏み出すその前に、私の定期が返ってきた。



「あ、ありがとうござ……い!?」


「久しぶり」



 片手を挙げて屈託のない笑顔を浮かべる瀬尾君がいた。久しぶりに顔を見たが、流石に一か月程度では何も変わっていなかった。


「えっと、ありがとう」


 彼から定期券を受け取った。間違いなく、私のだった。


 前に瀬尾君と顔を合わせた時の心臓が跳ねるような、恋をしていると自覚するような思いが再燃する。だがそれよりも、ポケットの中の、通知を切ったスマホがカイロまで冷やしているような、そんな気がいていた。


 どうしてこんなところに、と疑問は尽きなかったが、そんなことより一刻も早く立ち去りたかった。


「じゃあね」


 言い終わると同時に私は背を向けて走り出していた。正確には小走りだが、気分的には全力疾走だった。


「いや待った!」


 雑多な喧噪が後ろに流れていく中で、瀬尾君の叫び声が私に届く。やがて声に追い付くように瀬尾君の手が私をがっしり掴んだ。


「なんで逃げたのさ」


「……電車、来るから」


「そういう走り方には見えなかったけど?」


 閉口したと同時に瀬尾君の手が外れる。逃げ出してもいいが、そうしなかった。

 私は瀬尾君に向き直った。緊張はしなかった。


「それより、どうしてこんなところに瀬尾君がいるの?」


「予備校が駅の向こうにあるんだよ」


 怒っているような声色ではなかったが、ひたすら背筋が凍る。


「……で、なんで逃げたのさ」


「だって、気まずい、から」


 ホームから電車の出発のアナウンスが流れてきて、それが終わると、瀬尾君はまた口を開いた。


「少し時間ある? 俺も時間あるからちょっとだけ話さない?」


「……うん、わかった」


 この会話を逃したら二度と瀬尾君と話さなくなってしまう予感がしていた。


 私たちは駅構内のコーヒーチェーンに入った。二人してカフェオレを頼んで、小さな丸机に向かい合って座った。

 親には少し遅れるとだけ電話をした。遅すぎないうちに帰れとだけ言われたが、それ以上帰宅を急がされるようなことはなかった。


 問題は瀬尾君だった。さっきの口振り的に、予備校に向かう途中なのはすぐに分かった。こんなところでたむろしていていいのだろうか。


 「さてと、色々言いたい事訊きたい事あるんだけど」


「瀬尾君、試験いつ?」

 私は早速話の腰を折る。


「明々後日だけど」


「じゃあ、早く予備校行かなきゃだよ」


「たかだか数十分くらいで合否が分かれるような勉強はしてないから」

 カフェオレを口に運んで、強い口調で言った。


「なんで俺の事、積極的に避けていたの?」


 彼はじっと私の眼を見ている。その眼差しからは背けられなかった。


「瀬尾君の時間を取りたくなかった」


「冬休み前まで、ほぼ毎日連絡取りあっていたくせに?」


「……」


「それに、自己採の時も声掛けたのに無視するし、RINEもアレきり無視られるし」


「怒ってる?」


「少しだけ。でもそれ以上に、嫌われるような事したかなって内心すっごい怖いんだよ」


「嫌ってなんか!」

 反射的に机に乗り上げる。


「あ、いや、その……嫌いだから避けていたとか、そんなんじゃないです……」


 すると瀬尾君は大きく息を吐いて、溶けそうなくらいほっとしたように「良かったぁ」と呟いた。


「そんなに、ほっとする?」


「そりゃそうだよ。友人に訳もなく避けられたり無視されたり離れられたりしたら怖くなるし、こっちが何かしたのかってめっちゃ悩む。絶対嫌われたって思って中々こっちからは切り出せないし」


 それに、と言って瀬尾君はカップの湯気に目を落として沈黙した。店内で流れるジャズ風の音楽が、ツンと鳴る耳の奥で鈍く聞こえている。

 瀬尾君は、真剣な面持ちで顔を上げて、すぅっと吸い込んで言った。



「平田の事、ずっと好きだったから余計に」



「……………はい?」


 彼は正面、つまり私をずっと見ている。


 瀬尾君の言っている意味が良く分からない。私の事が好きと言ったのか。確かにそう聞こえた。それ以外には聞こえなかった。

 火傷するのもお構いなく一気にカフェオレを飲み干して咳き込む。過剰な糖分は熱のせいで麻痺してしまっている。


「大丈夫?」


 私の事が好きらしい彼は自然に紙の手拭きを差し出してきた。それを手に取った時、軽く指が触れて、ひったくるように奪い取った。


 口元を覆って、ついでに泣きそうな目元を覆った。


「……どうして」


 覆いきれない。薄い紙でも、私の数か月の自制心でも抑えきれないものが堰を切って出てきた。


「今なの。受験生じゃないの?」


「そうだけど」


「現抜かしている、場合じゃないんじゃないの?」


「浮ついているって思うよな。まあ、実際傍から見たらそうなんだけど、今日逃したら二度と言えないような気がしたから」


「卒業式とか、登校日とか、受験、終わってからでも、遅く、なかったんじゃない」


「正論だけど、今言っておきたかったんだ」


 意味が分からなかった。だって、明々後日試験本番で、そこで彼の人生が大きく左右されるのだ。果たしてその瞬間の前に、恋愛なんかに逃避している場合ではないだろう。




 少なくとも、私はそう思っている。だから二年間ずっと無自覚に抱いてきた、この不条理な恋の行方をひた隠しにしてきたのだ。それが枷になると信じて疑わなかったから。それが障害になると決めつけて動かなかったから。

「じゃあ……だよ。もし仮に、仮に、私が瀬尾君の事好きで、センターの前に告白とかしていたら、それは、その……今言っておきたかったで通用する?」


 火傷で傷ついた、震える喉から精一杯絞り出して言った。


「通用する」


 どんな答えを期待していたのかは私だって知らない。でも、瀬尾君のその一言で、私の数か月の行為を愚かだと罵る自分がいて、徒労だったと嘲笑う自分がいて、同時に、阿呆だと笑ってくれる自分がいた。


「瀬尾君」


 何かに、踏ん切りがついた。あるいは、場に流された。どっちでもいい。






「私も、ずっと好きです」










 瀬尾君の手元のカップは既に冷めてしまっているようで、湯気は消えていた。

 電車の到着のアナウンスが流れて、出発するくらいの短い時間しか過ぎていなかったが、私が最後に口を開いてからずいぶん時間がたったような気がした。



「……それで、瀬尾君は私と、どうしたいの?」


 先に口火を切ったのは私だった。我ながら意地悪な質問だなと思った。自分は何も考えていないのに。


「どうって……どうだろう。一瞬考えさせて」


「私は……」


 考えるまでもなかった。今までの瀬尾君との係わりを思い返せば、私のしたい事なんて決まっていた。  


 何でもない事で笑い合う事が出来る彼が好きだ。


 高校に入って初めて趣味を共有できた彼が好きだ。


 偶に些細な口論になるけど、すぐに非を認め合うこの関係が好きだ。


 かけがえの無い、友達の瀬尾君が好きなのだ。


 だから。






「「このまま、友達でいたい」」


 言葉が重なった。

 見つめあって、それからまた同時に吹き出して笑いあった。


 瀬尾君が冷めたカフェオレを一気に飲み干して、足元に置いていたショルダーバッグから財布を取り出すと、一枚の短冊のような紙を机の上に置いた。


「さてここに、平田が断った筈のライブチケットがありますが、どうしますか」


 私は迷わず言った。


「いくらだった?」




















「いーろはーこっちで写真撮ろ!」


「はいはーい」


 卒業式も終わって、最後のブレザーもあと数時間したら制服ではなくなってしまう。

 華やかに飾りつけされた教室は私たちの門出を祝っていて、それが余計に終わりというものを色濃く表していた。

 私たちはその最後の瞬間を刻むため、強がるように思いきり笑って友達と写真を撮った。時間割の関係で、あまりクラス全体での関わり合いはなかったが、それでも二年間、修学旅行や文化祭などで強く結ばれた仲だ。ホームルームクラスの雰囲気は互いに分かっている。


 すなわち、泣くくらいなら笑って終わろうというものだった。


 私の友達は概ね第一志望に決まった。その中には、


「瀬尾君、写真撮ろうよ」

 瀬尾君もいた。


 瀬尾君の合格した国立は、どうやら家からは通えないので下宿するそうだ。つまり、一週間後のライブが終わったらもう瀬尾君と会う機会も無くなる。「友達でいよう」というのも、一つはそういう理由があったからだ。他にもいくつか理由があるらしいが、それは教えてくれなかった。


 瀬尾君はしゃがんで私にグッと近づく。うち画面のカメラ越しに目が合うが、顔が熱くなる感覚もないし、鼓動も平常のままだ。


「瀬尾君、卒業おめでとう」


「平田も卒業おめでとう」


 私たちは互いに祝福し合って、下手に笑いあった。それから何をすることもなく、最後の時間を惜しむように中身のない話を続けた。


 春風が窓から差し込んで、緩やかにブレザーの裾と髪が揺蕩う。


「色葉と瀬尾ってさ、」


 一通り写真を撮り終えただろう一人が、私たちの間に首を突き出してきた。私を見て、瀬尾君を見て、したり顔で目を細めて言った。


「仲良いけど付き合ってんの?」



 私と瀬尾君は顔を見合わせて、今日初めて、心から笑った。



「「友達だよ」」


誤字脱字、感想等いただけるといかなる場合でも五体投地してお礼参りをしていきます。

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