第十二章
玻璃に与えられた期日は今日が最終日となった。
昨夜は少し落ち着いて居るように見えたが、先程から何度か震える手でナイフを掴んでは落としてしまい、また握っては落とすを繰り返し、結局実行には移せないようだった。
「意外と諦め悪いな」
思わず笑ってしまう。
玻璃は悲観的な発言はあっても自ら命を絶とうなんてことはしない。
「……怖い……道具ですらなくなるの?」
泣き出しそうになる姿に、アラストルは溜息を吐く。
昨夜辺りは仕掛けてくるのではないかと思い寝たふりをしていたが、そんな気配はなかった。ただ、じっとアラストルの寝顔をしばらく見つめて、髪を軽く撫でただけだった。
「寝てるふりしてもお前は全然仕掛けてこねぇし……諦めろ」
命令に従うのは。
相当組織では優秀な駒だったようだがもう駒として生きられないだろう。だったら他の生き延びる方法を探すべきだ。
「……やっぱり起きてたんだ。おかしいと思った」
玻璃はなにを考えているのかわからない表情で言う。
思わず溜息が出る。しかし泣き出さずに済んだことには安堵する。
「とりあえず、お前は忠実に任務をこなそうとしているふりをしてればいい。それで俺の首を取れれば儲けものだとでも思ってろ」
玻璃にならくれてやっても構わない。その思いは変わらない。
いつかルシファーの駒として散るつもりだったが、妹のためならいつでも死ねる。たとえ少しばかり姿形が似た他人だったとしても、もう玻璃は人生の一部だ。見捨てられない。
「……できない……」
玻璃は俯く。
「なぜだ? 俺を狙ってきたんだろ?」
「だって……毎日、夢に出てくるの……シルバがだめだって言う。それに、アラストル、すごくよくしてくれるから……」
玻璃がまだ迷っていることくらいわかっていた。
けれども、彼はそれ以上追求しない。ただ、玻璃が生きていてくれればそれでいい。
かつて救えなかったリリアンの代わりに……リリアンの分まで生きていて欲しいと。
「なぁ、お前さ」
思わず、訊ねたくなった。
「なに?」
硝子玉の瞳が見つめてくる。相変わらず、考えは全く読めない。
「生きたい、とか思わねぇのか?」
殺されたくないとは消極的に考えている様だし、自分から命を絶とうとはしない。けれども、積極的に生きようともしていないように見える。
案の定、玻璃は固まった。
「私は……」
「一旦、マスターだとかシルバだとか、無理だとかそういうことは全部忘れてお前自身はどう思ってるのか言ってみろ。言うだけなら自由だ」
金も掛からねぇと告げれば玻璃は考えるような仕種をする。
「……私? そもそも私ってなんなんだろう……」
相当、質問の意味に悩んだらしい。随分の唸って考え込んでしまう。
その様子を見れば、玻璃がずっと道具として生きることを強要されてきたのではないかなどと考えてしまう。可哀想な子供だと。
「ずっと、道具として生きてきた。他にどうしていいか……誰も教えてくれなかったから……でも……今は……アラストルと居たいって思う」
少しだけ、玻璃らしくない遠慮がちな雰囲気でそう告げられ、困惑してしまう。
「俺と?」
硝子玉の瞳は相変わらず考えが読めない。
「アラストルは嫌なことをしろって言わないし、殺せって命令もしないから。それに……手、繋いでくれたりとか、結構嬉しかった」
頭撫でられるのも好きだよと言う玻璃の口角が僅かに上がる。
「凄く温かいって……マスターがくれないものたくさんくれた」
ふわりと、そんな表現くらいしか思い浮かばない。
今まで見たことのないほどの柔らかな笑み。こいつはこんな風に笑えたのかと驚くくらい自然な笑みだった。
「そうか。だったらずっとここに居るか?」
そう告げれば、玻璃は驚いた様子を見せる。
「え?」
「別にお前ひとり増えたところで困ることはねぇよ」
どっちみち最初からこのまま保護するつもりだった。家は少し狭いが、この数日一緒に住んでいたのだ。それがこのままもうしばらく延長されたところでなにも困らない。
望むならここに居てもいいぜと告げれば、玻璃は嬉しそうに笑う。
「そう、できたらいいのにね」
できたら。そんな言葉が飛び出すと言うことは、既に諦めているのだろう。
「できる。お前が望めば」
その言葉は、アラストル自身の願望も含まれていた。
玻璃には幸せになって欲しい。それはかつて守れなかったリリアンに重ねてのことなのか、玻璃自身に思ったことなのかはわからない。けれども確かに玻璃の幸せを願っている。
「アラストル」
「なんだ?」
呼ばれて玻璃の方を向けば、硝子玉の瞳がかつてないほど力強い決意に満ちているように見えた。
「私、マスターと戦う」
そう口にした、瞬間、玻璃の影が奇妙に見えた気がしたが、たぶん目の錯覚だろうと思う。
たぶん、玻璃の言葉に驚きすぎたのだ。
「マスターはきっとどんな手段を使ってもアラストルを殺そうとする。でも、それは嫌だから……私、戦う」
そう言う玻璃はまだ少し震えているが、しっかりとナイフを握っているということは、迷いはないようだ。
不思議と、彼女の手がナイフを放さない様に別の手がそれを手助けしているように見えてしまう。
「お前は、本当にそれでいいのか?」
「うん。それに、マスターは殺しても死なないから大丈夫」
それは一体どんな化け物だと言いたくなったが、恐怖の代名詞とまで言われる死神ならありえそうだと妙に納得できてしまう。
「玻璃、全ては明日だ」
「うん」
「本当に大丈夫か?」
そう訊ねたのは、アラストルの方が怯みそうになっていたからかもしれない。けれども、玻璃は笑う。
「平気。アラストルが居れば怖くないよ」
まるで兄を信頼する妹のような絶対的な信頼を含むその言葉に、アラストルは少しばかり後ろめたくなってしまう。
「ああ、俺も、お前が味方なら怖いものなんてねぇな」
嘘を吐いた。今だってあの死神を恐れている。クレッシェンテに生まれたんだ。あの伝説を恐ろしいと思わないはずがない。
けれども、そんな自分に気付かないふりをして玻璃の期待になんとか応えようとする。
折角信じてくれているこの純粋な子供を裏切れるか。大人という物はいつだって子供の手本であるべきだ。
古くさい考えなのはわかっている。自分自身に少しばかり呆れ、おそらくは大きな戦いになるだろう明日を思う。
「一般人は巻き込みたくねぇな」
敵は徹底的に壊滅させるが一般人は巻き込まない。これがハデスの鉄則だ。だが、相手が相手なだけにそれは難しいだろう。
「この国の人ならみんな平気だよ。自分の身くらい守れるはずだから」
確かに乱闘や爆発は日常茶飯事だ。毎日至る所で喧嘩から暗殺未遂まで様々な負傷をする人間が居るから医療技術は世界的に見てもかなり高い。他の国なら死ぬような怪我でもこの国なら直せる。しかし、最初から負傷しない方がいいに決まっている。
「そりゃあそうだが……ディアーナだぞ?」
「大丈夫。みんな自分の美学にのっとって行動してるから」
玻璃の口から【美学】なんて言葉が出たこと自体に驚く。この性格、日頃の教養からしてそんな難しい単語をちゃんと理解しているのかと疑いたくもなる。
「ためしに訊くが、お前の美学はなんだ?」
どうせ周囲の真似をして難しい言葉を使いたかっただけなんだろうと訊ねれば、玻璃は真面目な顔で答える。
「一瞬の美。瞬殺が専門だった」
殺し方の流儀的なものだろうか。
「ナイフでか?」
「毒殺も得意だよ」
その言葉に頭痛がする。
とりあえずこいつが敵じゃなくなって本当によかったとすら思う。
ある程度訓練は受けているとは言え、毒なんて食らいたくはない。
「それより、今気をつけるべきなのはリヴォルタだよ」
「お前……知ってるのか?」
玻璃の口にした言葉に驚く。
数年前にようやく辿り着いたその組織はリリアンを殺した連中だ。驚かないはずがない。
「リヴォルタ、よくわからないけど国を混乱させたい組織だってマスターが言ってた。よく任務の邪魔をしてくる嫌な人たちだと思ってたけど、みんな右手の中指におんなじ指輪をしてる」
「そうか……」
もしかすると、玻璃はアラストル以上に情報を握っているのかもしれない。思わず、期待してしまう。
リリアンを殺した奴を見つけられるかもしれない。
「リヴォルタについて他に知っていることは?」
「マスターが嫌いな人たち。あと、なんだっけ……凄い魔術師が味方だとか聞いたことがあるけど、それは本当かはわからないわ」
魔術師はクレッシェンテでは嫌われる職業だ。玻璃も今、【魔術師】と口にする瞬間、少しばかり嫌そうな表情を見せた。
「魔術師は嫌いか?」
「ううん、リヴォルタに味方してるっていう魔術師は好きじゃない」
と言うことは、玻璃はその魔術師と接触したことがあるのだろう。
「お前、その魔術師に会ったことがあるのか?」
「……マスターのお客さん……だと思う。何回か、あの指輪、見たことある」
子供の観察力とでも言うのだろうか。玻璃はそう言った細部を強く覚えているのだろう。
「玻璃、リリムの前でその魔術師が嫌いと言うなよ?」
「え?」
「リリムの師匠は魔術師だ。リリムの機嫌を損ねればルシファーの力は借りられねぇからな」
そう。リリムの師匠はたぶん、その噂の魔術師だ。なにせ、魔術師自体が少ない。凄腕が何人も噂になるはずがない。
「必要ないよ。足手まとい」
本心はわからないが、いつもの感情の読み取れない表情でそう言って玻璃は長椅子に腰掛ける。
「マスターの弱点はわかってるから」
そう告げる玻璃の足下で、なにかが蠢いた気がしたが、すぐに消える。たぶん気のせいだろう。
「だったらなんで今まで戦わなかったんだよ」
思わず呆れる。アラストルは全身の力が抜ける気がした。
一気に士気が落ちた気がする……。
しかし、玻璃は少しだけ苦しそうに見える。
「……私にとっても弱点だから……」
そう口にした玻璃は、言葉に出すのも辛いといった様子に見えた。




