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第十章



「マスターの命令は絶対……」

 僅かに怯えの滲む声。

 アラストルの喉元にナイフを突きつけた玻璃の手は震えていた。

 とても、凄腕の殺し屋の姿ではない。年相応の、いや、実年齢よりもかなり幼い少女に見えてしまった。

「早くしろよ。どうした?」

 真っ直ぐ玻璃を見つめる。

 お前にならこのまま命をくれてやってもいい。そう思っているというのに、玻璃の手は震え、その切っ先を突き刺すことができないでいる。

 投擲専門のくせに、投擲する気さえ最初からなかったようだ。

「……できないよ……」

 ことんと、床を跳ねたナイフの音が意外なほど大きく響く。

「……シルバとおんなじ顔で……おんなじ声で……」

 硝子玉の瞳からぽろぽろと大粒の真珠のような涙を流すその姿に戸惑ってしまう。

「玻璃?」

 最初から命を狙ってきたくせに、今更なにを……。

 お前にならくれてやると思ったのに、玻璃はそれを否定する。

「シルバ……できないよ……」

 ここに居ない男とアラストルを重ねて震えている彼女に思わず手が伸びる。

「……泣くな……」

 抱きしめて、涙を拭う。

 つい、あの子が成長した姿が玻璃なのではないかと期待してしまう。

「お前が泣くのを見たくない……」

 背を叩き落ち着かせようとする。その最中も、あの子はもっと小さかったなどと考えてしまう。

「……どうして……どうしてあなたはシルバじゃないの?」

 責めていると言うよりは、純粋な疑問。その方が何十倍も残酷だと言うことに気付かずに口に出してしまう玻璃はやはり子供だと感じる。

「どうやら……考えることは同じらしいな」

 自嘲的な笑みがこぼれる。

 アラストル自身、今になっても玻璃とあの子を重ねてしまっている。

「俺も、何度お前がリリアンなんじゃないかと思ったことか」

 あの出来事は悪い夢で、もしかしたらリリアンはどこかに誘拐されていて、成長して戻ってきたのではないかと何度もそんな幻想を抱いた。

 玻璃なんて仮の名で、本当は昔の記憶をなくしただけのリリアンであって欲しい。そんな罪深い思考が過る程、似すぎている。

「同じ髪に同じ瞳。声だって……たぶん似てる。服の趣味や癖までそっくりだ。なのに……お前はリリアンじゃない……」

 そっくりなんだ。

 その言葉はもう消え入りそうだった。呼吸するのが困難なほどに胸が痛む。それほどまでにあの子と玻璃は重なってしまう。

「最近は笑い方まで重なる……幻覚でも見てるんじゃねぇかと思うくらいに……」

 大の男が泣くものじゃない。泣くなんて女子供のすることだ。

 そんな考えが染み着いているはずのアラストルも視界が滲んでしまう。

「あの時の……シルバが間違えた子……」

 滲みながらも、玻璃の瞳が大きくなったように感じる。きっと驚き顔を見せているのだろう。

「ああ」

「シルバは……気付かなかったのかな……あの子が私じゃないって……私じゃなくて似た子でもよかったのかな……」

 また、大きく震えている。

 自分で口にした言葉にさえ、深く傷ついているようだ。

「違う。少し話せばわかったはずだ。あいつだって気付いてたはずだ……どんなに似てたってお前とリリアンは違うと」

 震える玻璃の背を撫でる。

 あの男を見たのはほんの一瞬だった。あの男が本当にそう感じていたかなんてわからないはずなのに、アラストルはなぜか確信していた。

「あいつは玻璃だって、玻璃に似た少女だって守りたかったはずだ。実際……あいつはリリアンを庇うように倒れていた」

 あの男は……たぶん、気付いていてわざと……。

 その考えを振り払う。

 今は玻璃を泣き止ませないと。

「……アラストルは……私がリリアンならよかったって思ってる?」

 震える声に訊ねられる。

 ああ、これじゃあ俺が泣かせちまったみたいじゃねぇか。

 溜息が出る。子供を泣かせる趣味なんてない。

「いや……そりゃあ最初はお前がリリアンなんじゃねぇかって期待はした。だけどな……お前を見てるとお前はお前だって思えるようになった」

 嘘だ。今だって少しは期待している。

 けれども、玻璃は玻璃でいい。そう思う気持ちも共存している。

 玻璃の中には玻璃の人格がある。アラストルはもう、その玻璃という人格を嫌っていない。嫌っていないどころか愛おしくさえ思える。

「お前は……なんつーか……もう一人妹が増えたみたいでよ。お前と過ごす時間も悪くねぇって思うようになった」

 このまま、本当に家族になれたらいい。そんなことを考えてしまう程度には。

 けれども、それが叶わないことも知っている。

 玻璃はアラストルの命を狙ってきた殺し屋なのだから。

 彼女には組織という家族が居る。仕事さえ失敗しなければ、彼女にとってはかけがえのない存在だろう。そう思えば、家族の元へ戻してやりたいと考えてしまう。

 玻璃という女は、永遠の子供だ。心の部分の成長をどこかに忘れてきてしまったようだ。

「お前を妹みたいだって思い始めたらお前に殺されるのも悪くねぇ気がしてきた。玻璃、さっさと俺を殺して姉貴の場所に帰れ」 

 それがきっと玻璃の幸せだ。

 恨んだりしねぇよと笑みを見せれば玻璃はさらにわんわんと泣き出してしまう。

「……できないよ……だって……だって……アラストルは……私のこと、殺さないでくれた……ご飯だってくれたし……捕虜にされたときみたいに酷いこともしなかった……アラストル、すごくよくしてくれたのに……シルバみたいにすっごく優しいのに……シルバと違って乱暴な言葉だし……シルバとおんなじ目でみるし……できないよ……アラストルを殺すなんて……」

 自分の言葉もちゃんと理解できていないのではないかと言うほど、玻璃は激しくなく。

 困り果てて抱きしめながら背を叩けば完全にしがみつかれてしまった。

「おいおい、ちゃんと泣き止め。もう殺せなんて違和ねぇ……もう、誰も殺さなくていい……ちゃんとお前のことも守ってやる。だから……なにも心配しなくていい」

 背を叩きながら、できるだけ優しい声を意識したつもりだ。

 こういうとき、あのシルバという男はどうしたのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら玻璃の背をぽんぽんと叩いていると、いつの間にか静かな寝息が聞こえてくる。

「……餓鬼かよ……」

 しょうがねぇなと玻璃がすっかりと自分の所有権を主張するようになった長椅子に運び、そこらにあった上着を掛けてやる。

 泣き疲れて眠る玻璃を見ているとやっぱり、リリアンと重なってしまう。

「……未婚の娘が無防備過ぎるだろ……」

 小言が飛び出てしまうのは、玻璃の中にあの子を重ねてしまうからなのか、それとも……。

 そう考え、世界は思っているよりも狭いのかもしれないと感じる。

 世界には似た人間が三人は居るらしい。ひょっとしたら、アラストル自身もう一人遭遇するのは思っているよりもずっと早いのかもしれない。

 下らない。思考を振り払いながらも笑いが零れてしまう。

「……さて、これで完全にディアーナを敵にまわしたな。どうする? まさかルシファーに手を貸せなんて言ったらディアーナをぶっ潰す前にルシファーに殺されそうだしな……」

 意外と子供好きのボスさんは、世界で一番小児性愛者を憎んでいる。玻璃は成人女性とは言え、完全に子供扱いしていた。万が一、ヘンな方向で誤解されればアラストルの命はない。

 レライエあたりなら手を貸してくれるかもしれないと考え、別の顔が浮かぶ。

「ルシファーの手を借りるなら先にリリムを説得するのが得策か……」

 世界一嫁には甘い男だ。ちょっとリリムがだったらいいのに程度に口にすればなんでも叶えようとする。お願いしてもらう必要すらない。少し同情を買えばいいだけだ。

 だが、問題はそのリリムに接近すること自体が困難だということだ。機嫌が悪いときは視線を合わせただけで半殺しにされる。

 さて、どうしたものか。

 頭をひねって考えていると予想以上に疲労が溜まっていたらしい。いつの間にか床の上で気を失っていた。





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