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雨が降ると草木が喜ぶ

 久しぶりにまとまった雨が降った。僕の住む愛媛県では十数年ぶりの大干ばつで水不足になるのではないかと、危惧されている。たしかにダム湖の水位は下がり、池などもかなり水量が減り緑色になっているところもある。大自然の前には人間の力など大したことではないと改めて思う。

 昨日、雨の振る中、車を走らせているといつもと違った風景が目に入ってきた。田んぼや緑の山々に静かに雨が降り注いでいる。なんとなく雪舟の絵を想起させられる情景である。空は灰色の雲に覆われ、雲と地面の間の空間さえ灰色がかっている。そういう世界もたまにはいいものである。

 そして僕は山々の木々を見て感じたのだ。あのたくさんの木々の久しぶりの雨に喜んでいると・・・・・・。

 僕は植物が好きだ。花や木の種類とか名前は詳しくないが、植物に囲まれた空間にいると落ち着く。(日本民族は元来、そんなものかもしれない)とりわけお気に入りなのは神社の周りに生えている(植えられた?)木々たちである。僕の家の近くに小さな神社が高台にあり、そこに大きな樫の木がある。この樫の木は大きな幹が三つくらい寄り合わさって生えているように見える。下から眺めるとその葉は空の大部分を覆っており、威圧感さえある。樹齢は何年かわからないが、長い年月を生き抜いてきたことは間違いない。

 僕はときどきこの木の横に座ってぼーっとする。風が吹くと頭上でさわさわと梢が鳴る。こんなときは何も考えなくていい。木は長生きするとご神木とか呼ばれるが、やはり霊性を獲得するのだろう。この樫の木と接していると、そういったことになんとなく納得する。樫の木はときどきやってくる僕の存在を知っているのではないかとも思う。いろいろややこしいことを考えて、思い悩んでいる僕を受け入れてくれているとさえ感じる。もちろんその樫の木は一言も喋るわけではないが、僕と彼(樫の木)の間には何らかの会話が成立しているように感じる。

 この樫の木のように長く生きていなくても、すべての植物が生存することは僕らにとって大きな意味があるように思えるのだ。ヒトが勝手に雑草と名付けた草たちにも、おそらく。国道沿いに伸びている雑草と呼ばれている草たちは、ヒトの手で刈られている。しかし彼らは何も言わない。時が巡れば、また同じように葉をつけ茎が伸び遠慮がちに花を開かせる。彼らは、そんなことわかりきっていると思っているのかもしれない。


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