旅の終わりに
十五歳、高校一年の夏、僕は手持ち無沙汰だった。
大学の受験勉強を始めるにはまだ早かったし、部活動もしていなかった。(傲慢な僕が気に入るような部がなかった)そして付き合っている女の子もいなかった。
息苦しい中学校生活から解放されて、比較的自由な校風のこの高校に入ったことで僕は少し安心していた。けれども、やりたいことが見つからないまま高校生最初の夏休みを迎えることは、なぜか惨めな気がした。
そこで僕はあまり深く考えもせず、自転車で誰かと山口県内一周をすることを思いついた。同じクラスの友人にいっしょに旅行に行かないかと誘った。すると彼は面白そうだと同意してくれた。早速二人で旅行の計画を立てた。そして五日間で帰って来る計画が出来上がった。それぞれの自転車を改良し、サイクリング用の本を買って、長距離に対応した自転車のこぎ方とか、その他必要な知識を仕入れた。
七月の終わり、真夏の太陽が無慈悲に照りつける中、僕らは出発した。日焼け止めクリームを塗り、適度に水分補給をし、キャンプ道具一式を自転車に括り付け、国道二号線を東に移動した。途中、僕らと同じように自転車旅行をしている人たちと、かなりの回数出会うこととなる。そのたびに右手を上げて軽くあいさつするのだけれど、僕はこんなことをする人がなんて多いのだろうと不思議に思った。僕は彼らに対し同じ行為をしている仲間意識を持てず、変な違和感を覚えるのだった。僕の友人は彼らと出会うたびに嬉しそうにしていたけども。
強烈な日差しは、僕の太腿を腕を首筋を容赦なく焼いた。焼かれた肌は赤紫色からあっというまに焦茶色に変色していく。そして真夏の太陽光線は体力を極度に消耗させる。出発から二日目、僕はすでに疲れきっていた。周りの景色を見る余裕もなく、前を行く友人の自転車に必死に着いていくだけだった。僕はただ自分の中に残っているエネルギーを、自転車のペダルを踏むことだけに消費していた。そこには人間的な思考は存在せず、無意識の領域でその作業は継続されていた。
二日目の夜のキャンプ地ではキャンプファイアーが行われていた。世間知らずの僕たちは、このような場面では女の子と仲良くなるチャンスだと信じ込んでいた。しかし、どうやったらこのキャンプファイアーの輪の中に入れるのだろうか思案し、二十分くらいその辺りをうろうろする始末だった。友人が思い切って、キャンプ慣れしていそうな逞しい青年に「ここ、入れてもらっていいですか?」と訊くと、日焼けした青年は「いいよ」と快諾した。こんな僕らだから、他の人に積極的に話しかけることなどできるわけもなく、(当然女の子と仲良くなれるわけもなく)燃え盛る火をぼんやりと眺めるだけだった。巨大な炎の光に吸い寄せられるように、夏の虫が飛んで来る。炎に近づき過ぎて熱さにやられ、地面に叩きつけられ、足をバタバタさせている虫もいた。時折アブラ蝉が炎の明るさに幻惑されて、「ジジジジッ」と鳴いたりしていた。キャンプファイアーは盛り上がることもなく九時頃に終わり、僕たちは寝心地の悪いテントに帰って行った。
翌日は日本海を目指し、響灘を左に見ながら北上して行く。良質なカレンダーの写真に載るような、見事な夏の風景が現れた。蒼い海に真っ青な空に白い入道雲・・・それらは、やはり人の心を揺さぶる。何かしら望みを持って生きようとする人間の琴線に触れるのだ。ほとんど周囲の風景に関心のなかった僕でさえ、左手に広がる海と空に見とれていた。
「やっぱり、旅に出てよかったなあ」友人が振り返りながら、声をかけてきた。僕は「ああ」と愛想なく頷く。しかし、いくら素晴らしい風景でも一時間二時間と続けて見ているとさすがに飽きてしまう。当時十五歳の僕は詩人でもなく、矢継ぎ早な刺激を求める不完全な少年だった。
僕たちは小さな漁船がたくさん係留してある港で休憩をとった。それぞれの船には色鮮やかな大漁旗が飾られてあった。明るい青を基調とした大漁旗や幟が立てられているが、その港は無人だった。僕ら二人のほかには誰もいなかった。僕はその場に座っていると、強烈な孤独感を味わった。漁のシーズンオフなのか、それとも漁が終わった直後なのかわからない。しかし大漁旗や幟が華やかであればあるほど、淋しさは募った。タフな友人も居心地が悪かったようで「行こうか」と僕を促した。僕らは足早にその不可思議な空間を後にした。
青海島に着いたのは三日目だったか四日目だったか、定かではない。この旅は今から三十年以上も前のことで記憶は断片的だ。
瀬戸内海の薄汚れて穏やかな海に慣れていた僕らは、日本海の青白く澄んだ荒波に驚いた。砂浜ではなく丸くて滑らかな小石で敷き詰められた浜辺で、僕らは激しく白い泡を立て打ち寄せる波を呆然と見ていた。ふと気がつくと、僕らと同じ年頃の女の子が立ったまま海を見ていた。肩まである黒い髪、短めのスカート、白っぽいTシャツ、踵が高めのサンダル。可愛い女の子だったと思う。自転車旅行で日焼けして疲れ果てて座り込んでいる僕らより、その女の子と日本海のほうがずっと絵になる風景だ。僕も友人も当然のように彼女を意識し、ちらっちらっと彼女の方に視線を向ける。その後僕たち二人と彼女に新たな展開があったかといえば、もちろん何もなかった。その女の子がいなくなった後、「彼女は俺の方を意識していた」と二人で不毛の論議をしたくらいだ。
その浜辺はテントを張るのに足場が悪く寝心地も最悪だったので、僕は民宿で寝ようと言い張った。友人はここでも眠れると反論したが、精神的にも肉体的にもひ弱な僕は譲らなかった。友人は僕の頑なさに折れてしぶしぶ民宿に泊まることを受け入れた。おそらく彼は寝心地の悪いところでも、それほど苦しいとは感じなかったのだろう。それとも少しくらい辛くても、自分の寝る場所は自分の手で用意するのが、彼にとって意味のあることだったのかもしれない。僕もこの旅のイメージとしては、当初そのようなものだった。そしていろいろな意味で彼の言い分の方が正しいのだろう。しかし、僕にとっては正しいかそうではないかということ自体あまり意味はなく、自分にとってゆっくり眠ることができることが一番意味のあることだった。そのようなことが少しずつ重なり、僕と彼との会話はスムーズでなくなっていった。
次の日は最悪だった。僕らは道に迷ってしまい、夕食もとることもできず、テントの張ることのできる場所を必死に探していた。腕時計が午後九時をさしても、事態は絶望的だった。友人は「もうこうなったら、どこかの民家に泊めてもらうしかない!」と言った。僕はその言葉に半信半疑だったが、確かにそれ以外に方法はなかった。彼は大きい農家らしい家に狙いを定め哀願? した。その家の人は僕らの疲れ果てた惨めな状況に同情してくれたのか、あっさりOKした。あまりにうまく事が運んだので、僕らは逆にびっくりしてしまったくらいだ。
その家で夕食、お風呂、宿泊、朝食とお世話になったのだと思う。(もちろん無料で)しかし僕がはっきり覚えていることは、トマトを続けて四個か五個食べたということだけだった。その家はやはり農家で自家製トマトをたくさん出してくれた。僕はそれほどトマトが好きでもないし嫌いでもない。けれどもこの時のこの家で食べたトマトは、美味かった。トマト自体がおいしかったこともあるのだろうけど、空腹や安堵感、それからこの家の人の好意に応えてたくさん食べねばならないという変な義務感みたいなものもあったと思う。この日以来三十数年経つが、トマトを続けて二個以上食べたことはない。
翌日の朝、僕らは出発するとき、その家の人からトマトを数個もらった。友人は大変感動していた。僕も嬉しかったけれども、彼のように素直に感情表現できなかったし、そこまで嬉しがる彼に何か胡散臭いものを感じた。(なんと傲慢な少年だろう、僕は!)
この日僕は彼にコースの変更を一方的に告げた。予定したコースよりも早く南下して今日中に家に帰るつもりだと言った。彼も反論せず、それでいいだろうと言った。
僕たちはアスファルトできれいに舗装されてある山の道を進んだ。午後からは遠くで雷鳴が聞こえてきた。空は曇り雨も時折降ってきたが、幸い大雨にはならなかった。
僕たちはまったく言葉を交わさず、自転車のペダルをこぎ続けていた。あと少しで友人の住んでいる街に入るところで彼は「じゃあな」と言って、僕の視界から消えた。僕は薄暗くなりつつある空の下、湿っぽい風を受けながら大急ぎで家に帰って行った。
僕と友人はこの旅以降、少しずつ疎遠になっていった。関係が悪化したわけではなかったが、お互いが少しずつ一定の距離をとって親密な関係になることはなかった。僕にとっても彼にとってもそれは仕方のないことだし、それでよかったと思う。
十五歳の旅は僕にとって何かをやり遂げたわけでもなく、自分の限界に挑戦したわけでもなかった。むしろ自分の弱さを確認し、精神的な問題が露骨に現れたようなものだった。けれども僕は暑い夏が来るたびに、自転車で走ったときの生暖かい風を感じることができる。響灘の嘘のような青い海とくっきりとした空と白い雲を見ることができる。友人の不機嫌そうな表情を思い出すこともできる。なぜだろう? 僕は記憶の図書室でこの旅の本を見つけた。その本の様々な写真は驚くほど鮮明だったし、文章は語り続けていた。十五歳の暑い夏が、この旅を僕の身体に刻み付けたのだろう。そして旅を終えたことで、おそらく僕は新しい自分に出会ったのだ。
僕が夏を好きなわけは、いつも新たな物語の始まりを予感できるからなのだ。