午の一つ 人喰イマヨヰガ
妖怪は何処から来たのだろう?
——いや、妖怪とは何なのだろう?
現代に生きる人間にとって、それらは『無くてもいいもの』として淘汰されつつある。
科学という光を駆使して、妖怪という闇を『幻想』へと葬ったのだ。
それは、人間たちが“恐怖”を克服しつつある、という事を示しているに他ならない。
しかし、忘れてはならない。
いつだって、恐怖はすぐそばにある事を。そして、その恐怖が、新たな“怪”を創るのだと——
紅に咲き誇る月と〜菊の章〜
『黄昏時ノ探偵』
午の刻 人喰イマヨヰガ
猫殺し事件を解決した二日後。秋晴れの眩しい、昼下がりの事だった。
「ただいまー」
「おかえりー…って、ここ君の家じゃないよ?」
「いいだろ別に。ミオが泊まってるんだし、私が住んでてもいいだろ。あ、その場合私が先住民ね」
「…そういえば君の家ってどk」
「お菓子食っていい?」
「いや、うん…勝手にしなよ…」
学校から帰ってきて真っ先にキッチンへ向かうアルトに、夜長は呆れた顔でツッコミを入れる。が、途中でするだけ無駄だと思い直し、すぐに視線を手元の新聞紙に戻した。
その数分後、アルトがキッチンから戻ってきた。その手には牛乳の入ったカップが握られ、口ではクッキーを咥えている。
「…夜長が新聞読んでるとか珍しいな?」
「うーん…まあちょっと気になる記事見つけちゃったからね」
「……夜長ってテレビ見ないのか?そこにあるのに」
「……そのテレビ、ブラウン管だよ」
「………」
よく見たら、確かにそれは旧世代の箱のようなテレビで、長年使われていないのか埃が積もっている。なんか前に昼食にバナナ出てきたし、買い替える金が無いのだろう。
なんでこの商売やってんだろ…とアルトは少し夜長の事が心配になった。
彼女は夜長が何を読んでいるのか気になり、彼の後ろから新聞紙を覗き込む。
そこには『行方不明者、既に県内20人突破。未だ犯人は掴めず』と書かれていた。少し小さい記事だったが、夜長が此処を読んでいるのだと、アルトは直感で分かった。
「…失踪事件?どうして夜長がそれを気にするんだよ」
「いやぁ、流石に20人も年齢性別バラバラな人を同一犯が誘拐する訳がないでしょ?動機も不明だし…ちょっとひっかかるんだよねぇ…」
「ふーん、そうなのか」
興味無さそうに、アルトはクッキーと牛乳を頬張る。そしてすぐにまたキッチンへ走って行き、今度は袋ごとクッキーを持ってきて、応接間の机に置き、また頬張り始めた。
ハムスターみたいに頬張るアルトに、呆れつつ夜長は記事を深く読み込んでいく。
「……『どの人も山に行ったっきり帰ってこない』か。山が一つに絞られてないし、どう考えても同一犯じゃないでしょこれ…」
読み込んだ結果、特に何も面白くもなく終わったため、夜長は呆れてぽいっと後ろへ投げ捨てた。重なっていた新聞紙が全て空中でばらけ、そこら中に散らばった。
夜長は特に気にせず、新聞紙はそのまま放置し、立ち上がってクッキーをつまみに行った。
「ん、そういえば皐月くんは?」
「もが?ほふきはら、はんひょーばほはひゃんほょか」
「…一旦飲み込もうか」
「ん」
ハムスターのようになるまで頬張られたクッキーを、牛乳によって全て胃に流し込む。萎んでいく彼女の頬を見て、夜長は改めて「なんでそんなに詰め込めれたんだ…?」と疑問に思った。
「うん!うまい!」
「うんそっか。で、皐月くんがどうしたって?」
「ん、そうだな。皐月なら、残業があるとかなんとか言ってたぞ」
「残業かぁ…常勤なんだっけ?」
「知らん、なんだそれ」
「そっから??」
はぁ、とため息を吐いて夜長は常勤講師についてアルトに説明し始めた。
説明が終わったすぐ後。
——ぴんぽーーん。
事務所の呼び鈴が鳴った。
「私が出よう」
「あ、うん。任せた」
何かを察知したのか、少し警戒しながらアルトは扉の覗き穴を見つめる。
しかし彼女は少し見つめてすぐに顔を扉から離した。どうしたのかと、夜長が声をかけるより早く、彼女はぼそりと言葉を呟いた。その声色には、驚きが見え隠れしている。
「……この前の、優男…!」
「!」
その抽象的な呟きで、夜長は訪ねてきたのが誰なのかすぐに分かった。
慎重な面持ちで、夜長は「中に通して」とアルトに指示し、アルトは言われた通り、彼を事務所の応接間へと通した。
「いやはや、良かった。もしかしたら断られるかもと危惧しておりましたが、とんだ杞憂だったようですね」
「……何の用だい?震警部。わざわざ会いに来たという事は、何かあったのだろう?まさか一昨日の彼らは犯人じゃなかったとか言わないだろうね?」
「いえ、そんな事はありません。彼らはちゃんと罪を認め、更には他にも殺した猫が居たと打ち明けてもくれました。そのような狂行に走る、という事はなんらかの精神疾患を抱えている可能性がある…という事で彼らは少年院ではなく、精神科医の元へ通わせました。…まあその後ちょっと不穏な事がありましたが…そんな事を貴方に話に来た訳ではありませんので」
彼の言う『不穏な事』には、なんとなく夜長には心当たりがあった。恐らくソティスたち“生きている猫たち”を牽制出来たとしても、殺された動物たちの純粋な『呪い』を止める事はできない、という事だろう。
だからきっと、彼らは今頃原因不明の病に侵されていたりするんだろう…夜長はそう予測して、少し頭が痛くなった。
「……で?それなら一体何の用だい?」
「いや、君が怪異探偵をしていると聞きましてね」
「君が依頼を?君ってオカルトに興味無さそうな顔してるのに、意外だね。…冷やかしなら帰ってくれないかな?」
「はっはっは。冷やかしではないですよ。…『松に鶴』」
「ッ!」
まさかルールを知っているとは。夜長は冷や汗をかきながら、震を睨みつけた。
横から見ているアルトは、なぜ夜長がそんな態度を取るのか全く分からず、ただただ二人の会話を眺めていた。
「『まさかルールを知っているなんて』という顔ですね。依頼するのなら、しっかりと色々調べるものなのですよ」
「…………わかった、承ろう。それで、どういったご用件なんだい?」
苦虫を噛み潰したような顔で、渋々と夜長は震の頼みを了承した。
「探偵さんは、最近行方不明者が増加しているという事を知っていますか?」
「…今日の新聞に書いてあったね。それがどうしたんだい?まさか、調査をしろと?」
「ええ、流石は旭くんの甥っ子ですね。そのとお」
「却下。それは警察の管轄だろう?僕——怪異探偵に依頼するのは筋違いだ」
「ふむ…では、探偵さんは『マヨイガ』というものをご存知でしょうか」
ぴくっと夜長の耳が動く。
何を言っているか分からないという顔で、彼は震に詰め寄った。
「『マヨイガ』は人を惑わせるが、人に幸福をもたらす事もある。それが、どうして行方不明と繋がるって言うんだい?!『マヨイガ』に閉ざされた人間、なんて僕が知っている限り居ないはずだけど?!」
「おやおや。一度落ち着いてください。もしかして、その様子ですとネット上で騒がれている『噂』について、存じていないのですかね?」
「へっ…?!ま、待ってくれ、それって…」
「やはり知らないのですね…」
ふう、と一つため息を吐いた後に、震は懐から携帯を取り出した。いくつか操作をした後、夜長に画面を見せた。
そこには、一つのネット掲示板が表示されていた。
「………やっぱり、そういう事かい?」
「まあ、そうですね。こういう方面は、我々警察は動けませんので、こちらへ依頼に来たという次第です。改めて、受けてもらえますか?」
「…やるよ。多分、叔父さんもこういう依頼を解決したかったんだろうし。ただし、お代はきっちりしっかり払ってもらうからね?!」
「ふふ。ええ、勿論です。では、頼みます」
ぺこりと一礼をして、震は探偵事務所から出て行く——と思ったら、何故か扉の前でピタリと止まった。
「…ああ、そうです、そうでした。良かった、帰る前に気づけて。そちらのお嬢さん、携帯はお持ちですか?」
くるりと震はアルトの方へ向き直った。
突然指名され、アルトは少し戸惑った後におずおずとスカートのポケットから携帯を取り出した。
「ええと…え?」
「おや。旧式ですか…こちら、ネットは使えますか?」
「うんまあ、使えるけど…えーと、何を?」
「いえ、先程のサイト、もう少しご覧になりたいでしょう?…と思いましてね。旭くんと同じでしたらきっとそちらの…月飛くん?も携帯をお持ちでないはずですので、貴女に共有しようかなと」
「は、はあ…」
戸惑うアルトをよそに、震はちゃちゃっとサイトのリンクをアルトの携帯へと送った。ついでにアルトは震のメアドと電話番号をゲットした。
「さて。では用はすみましたので、改めて帰りますね。では、お邪魔しました」
一瞬で終わった出来事に、アルトは頭が追いつかず、呆然と彼が出て行く様子を眺めていた。
嵐が去った後のような安堵感が二人を襲い、二人はその場でへたり込んでしまった。
しかし、それも束の間。すぐに扉が勢いよく開かれた。
「たっだいまでーーーーす!!…ってあれ?なんで2人して床に座ってるんです?何かの儀式??」
緑色の髪を元気に揺らす、女の子のような男の子——気更来美桜が帰ってきたのだった。
「お、おかえり…あれ?部活は?」
「今日は休みです!」
「あそう…」
「そういえば先程、この前の刑事さんとすれ違いましたけど、何かあったんですか?」
「ああ、うん。ええと…依頼が来たんだよ」
「へぇ!刑事さんも探偵に依頼するんですね!なんだか漫画の世界みたいです!あ、いえ、探偵って存在自体、御伽噺かなんかだと思ってましたけども!」
「う、うん…そうか…」
「それで、どんな依頼だったんですか?私に手伝える事があれば言ってください!」
「うん、えっとね……」
「あ、待ってください!私、分かってしまったかもしれません…!」
「…え?」
夜長は美桜に説明しようとしたが、何かを察したのか美桜が声を上げた。ヘッドホンは着けているので、心を読んだというわけではないようだ。
そして次に羽織っている赤いパーカーのポケットから、何かを取り出した。携帯だ。
そして、それを素早く操作し、とある画面を映し、夜長に見せる。
「絶対、これ関係ですよね?」
画面には、震と同じサイトが表示されていた。
「…これ、そんなに有名なのかい?」
「ええ、それはもう。オカルトに興味のない、クラスの女子も男子も先生も、剣道部の主将だって知ってます。むしろ知らない方がおかしい、というくらい。そしてみんなは口々にこう言うのです。『最近の行方不明者の増加はコレが原因なんじゃないか』って」
「————。」
夜長は言葉を失った。
そんなに有名な噂となっているとは。
これまでにネットにより広まった怪異はたくさんあった。過去にもそういった依頼を受けた事があるし、そもそも『ネット』という土壌自体が、そういったモノを生み出しやすいのだ。
しかし、これは。
——これには、明確な『悪意』がある。
既存の妖怪を取り込んで、新たな怪に仕立て上げようとするなんて、同類である夜長から見れば「生命の冒涜」に等しい。
この掲示板には、きっと、“誰かの不幸を望む願い”たる『呪い』、好奇心や更に面白いものを望む創造性と期待、傍観者たる故の余裕…そういったものが渦巻いている。誰かを誘い込み、新たな恐怖を増幅していく…これは放置していたら、どこまで大きな噂になるかも分からない。既にオカルトに興味の無い警察官が知っているのを見れば、かなり噂の広がる速度は速いと見ていいだろう。
それほどの『悪意』。
「…早く、なんとかしよう。でないと、どうなってしまうかわからない」
「そうですか?私に言わせれば、他の都市伝説と同じで、別に放置してても大丈夫だと思いますが。そのうちこの騒動も収まると思いますよ」
「……気更来くん、それがマズイんだ」
「というと?」
「『いつか収まる』『自分には関係ない』——そんな事、みんな考えているんだ。傍観者だから、噂がどんどん膨らんでいく。広がっていく。被害は確かに出ているのに。このままでは、人が死ぬのも時間の問題だろうね」
「…なるほど。そうですか。……もしかして、夜長さんって掲示板ちゃんと読んでないんですか?」
「———へ?」
ぽかんとした顔の夜長に、美桜は「はぁ」と呆れた顔でため息を吐く。
そして、すぐ先程の携帯の画面を見せた。
「しっかり、読んでください。夜長さんの言っている事が本当であれば、この件———相当、マズイかもです」
「……………」
夜長は、美桜から携帯を受け取り、掲示板の内容を読み始めた。
そのスレッドは、オカルト板の一番上に上がっていた。スレッドのタイトルは『友達が帰ってこないのだが【情報求む】』という物だ。
夜長は「本当にネット掲示板で情報集める人って居るんだぁ…」と心の中で呆れた声を上げた。
どうやら、スレ主は祖母のいるS県A区の山へ紅葉狩りへ行った時に、不可思議な現象に見舞われたらしい。
ちなみにS県とはこの国のシンボルのような山、佐久夜山がY県との県境に存在している、お茶の有名な県だ。A区はその山とはまた別の、知流岩山脈が連なっている区であり、その辺で起きた事件なのではないか?という予想がスレ内でも立っている。スレ主はその事に関して何かを発言した訳では無いが、誰も追及せず話は進んでいる為、誰もがその付近で起こった事と認識しているようだった。
スレ主の話では、紅葉狩りは順調に終わり、夕方の帰り道に異変が起きたようだ。
「…来た道間違えるってある?携帯があるんだからマップ検索って奴ができるはずだろう?」
「途中までは道に迷った事に気づけなかったんでしょう。携帯の電波も圏外になったそうですし、変な磁場でも出てたのでは?」
「うーん…そうか…?」
スレッドには「道に迷い、電波も通じず、彷徨っていたら立派なお屋敷に遭遇した」と書かれていた。
どうやら夜長はこのスレッドを猜疑的な目で見ているらしい。
その後スレ主とその友達は、その屋敷に道を聞くために近づき、呼びかけた。しかし、誰も出なかった。
扉には鍵はかかっていなかったので、思い切って中へ入り、再度大きい声で呼びかけた。しかし、やはり誰も出ない。
屋敷の中は何故か『妙な生活感』があったようで、その発言に対し「マヨイガでは?」とのレスが付いているため、夜長は(これが震警部の言っていたマヨイガの由来か)と納得した。
そして、スレ主の友達は「ここで一夜を過ごそう」と提案し、スレ主はこんな得体の知れない家で過ごすのは怖いと思いつつ、すぐに出るつもりで頷いた。
そうして家を探索すると『やかんがかけっぱなしだった』と言われるくらい生活感が感じられる場所のようだ。やはりマヨイガのような描写が多く感じられる。
——そして。
「コイツ、馬鹿なのか?得体の知れない家の物食うとか!」
夜長と同じ部分を読んでいたアルトが声を上げた。
その声に夜長は静かに頷き、美桜も「ホントですよねー」と言いながらうんうんと相槌を打つ。
スレッドには、『友達は勝手にキッチンに入って棚を物色したり、冷蔵庫の中を覗いて見つけた食べ物を勝手に食した』と書かれており、この『友達』は心臓に毛が生えているんじゃないか?と思わせられる。
「…でも、マヨイガで食べた物って何か怪異に繋がるっけ…?」
「たぶん、そこが違うんじゃないですか?そこが、“マヨイガのようでマヨイガでない”所以で、鍵…とか」
「ありそうだね…それに、この後『寝ようとして異変が起きた』って書いてあるし」
画面をスクロールし、その異変の詳細を見に行く。
しかしその異変とは、摩訶不思議でありながら、かなり拍子抜けする内容だった。
「『一度目を瞑ってもう一度目を開けたら草の上』?!」
「はぁ?!こんなオチ?!漫画でも無いぞ、こんな展開!!」
「いや落ち着いてくださいよ二人とも。主さんは現在進行形でぼっちなんですよ?」
「もしかしたら全部嘘の可能性だってあるだろ!?」
「だから、「そうかもしれない」と、「嘘だろ?」と半信半疑ながらも「あったら面白そう」と、みんな食いついてくるんですって!それに、こういうオチの方がなんとなく現実味ありますし」
「…たしかに、そうだね。真偽はどうあれ、こういった話に尾鰭がついて、噂は拡大していく。そうして、人知れず怪奇は生まれていく…」
言いながら、画面をスクロールしていく。
スレ主が体験した怪奇現象はここで終わり、その後は掲示板の住民たちとスレ主の情報のやりとりが行われていた。その中には「そこにある物を食べたら帰れなくなったって事で地獄思い出したな」という発言や、「写真はあるのか?」「山についての伝承」という質問、更には「大丈夫?友達死んでたりしない?」「スレ主と似たような経験をした」という発言が投稿されていた。
『山の伝承』とは、スレ主の行った山に伝わる神様の話で、スレ主は「山には怖い神様がいるから怒らせてはいけないよ」という祖母に小さな頃に教えられた、曖昧な警告文句だけは覚えていたらしい。今回の件で祖母にちゃんと話を聞いたところ、「山の神様は女神で、滅多な事では怒らないが、とある事をすると怒ってしまう」という。とある事がなんなのか、そして怒ったらどうなるか…は分からないそうだ。上手く濁されたらしく、「もしかしたら今回『友達』がやってしまった事が怒らせる事だったのかもしれない」という予想がスレッドに投稿されていた。ちなみに、家の中の写真は撮ってないそうな。
「…この辺の発言が怪しいね」
「『地獄』や『山の伝承』、『友達死んでる疑惑』に『似たような現象』…この辺が、マヨイガを変質させた原因、って事ですね?」
「そうだね。これ以降も『似た現象にあった』という報告が多く投稿されてるし…」
「この後は特に事件の進展は無いのか。つまらん」
「う、うーん……ア、アルトちゃん?これ別に推理小説とかじゃないよ?」
「いや分かってはいるが…どうもこう、オチがしっくり来なくて…」
「話にオチを求めないで…?」
「そうですよ!これはこれから私たちが解決するんですよ?!私たちがオチを作るんです!!」
ドヤ顔で胸を張る美桜と、それを見て「おぉ…!たしかに…!」と目を輝かせるアルト。それを見て、夜長は「単純だなぁ」と漠然と思った。
——と、そんな時だった。
コンコン、と事務所のドアが突然叩かれたのだ。
敵襲か?!と一瞬で武装するアルトと、それを横目に夜長はチラッと時計を確認する。時計は意外と進んでいるようで、震が此処に来た時は大体15時であったのに、もう16時を過ぎている。そんなに読み耽っていたのか、と思うと同時に、いつもならこの時間帯にアルトが帰ってくる事を思い出した。
「…もしかして」
夜長には誰が来たのか予想がついた。そして、その誰かは、おずおずと遠慮がちに中に入ってきた。
緑がかった黒髪に、赤い瞳。——夜長の予想した人物は、まさに彼だった。
「ええと、依頼しても…ってなんでアルトさん構えてるんですか?!」
「…ああなんだ、末原か。つまらん」
「つまらん?!何を期待してたんですか?!」
「いや、敵かなーって」
「物騒ですね!!残念でしたね、依頼ですよ!!」
「チッ」
騒いでる二人を横目に、末原の事を知らない美桜は、夜長に彼の事を尋ねていた。夜長は「宇賀時高校の生徒で、なんかよく依頼しにくる子」と雑に説明し、美桜は「なるほど、なら依頼人として先輩なんですね!」とよくわからない納得の仕方をしていた。
「夜長さん、依頼いいですか?あ、『松に鶴』で」
「君は本当に律儀だね……でも、本当にすまないんだけど…今日はちょっと先客があってね」
「え、えぇ?!そんな…僕結構困ってるんですよ…」
「…まあ、一応話くらいは聞いておこうか。何があったんだい?」
「……あの。変な女の人…着物を着てて、一本ツノが生えてる、女の人…なんですけど。えと、夜長さんは見た事ありますか?」
また新たな都市伝説が生まれそうな風貌だな、と夜長は少し辟易した。そんな奇抜な格好であるのなら、きっと記憶に残るだろう。
しかし、覚えなどない。ネットはあまり見ないが、美桜やアルトがそういう事を口にした事は無いため、恐らく噂などにもなっていないのだろう。
「…見た事は無いね。でも、それがどうしたんだい?あ、もしかして、何か言っていたのかい?」
「いえ!!!そういうのに関わっちゃいけないと思いまして!!!一言一句聞いてないし覚えてもないです!!!」
「あぁ……うん。まあ、対処法としては…合ってる…のかな?…毎回思うんだけど、末原くんって吸血鬼だよね?」
「怖いもんは怖いんです!!…というか、一番怖いのはですね!…本当に、僕以外の人には見えてないっぽい事なんです…!周りにたくさんの人が居たのに…みんなその人に気づいてないみたいで…!でも霊体っぽくなかったんですよ…!!」
「!」
なるほど、それは確かに奇妙だ。
霊であるのなら、末原以外の人に見えないのは納得できる。誰も噂していないのも分かるし、ただのよくある心霊現象として片付く。
しかし、実体が存在するなら話は別だ。それに、そんな特徴があってなお、噂になっていない…という事もおかしいな話になってくる。着物を着た、ツノの生えた女…なんて、何をして何を喋っていたとしても、噂好きなネットの住人が騒がないのは、少しおかしい。
「…そうか、それは不思議だね」
「ですよね?!これ、調査って…」
末原が身を乗り出し、改めて調査依頼をしようとしたその時、ドアが勢いよく開いた。「たっだいまー!」と元気よく言いながら入ってくるその誰かは、学校で数学を教えているはずの25歳の男——そう、皐月裕だ。その子供のような無邪気さに、アルトがすかさず「年相応の対応で入ってきて?」とつっこんだ。
「…あれ?今日皐月くん残業なんじゃ」
「え?教師に残業ってあるんですか?」
「いや、皐月は確かに残業だと」
思ったより早い帰宅に驚いて夜長は質問する。それに皐月は少し額に汗を滲ませて「あ、ああ!残業だよ。でも少し早めに終わったんだ」と答えた。
なーんか隠してる気がしてならなかったが、美桜は特にヘッドホンは外さなかった。
「で、調査はどうするんです?」
「あー…でも僕もそのツノの女性は——」
「いえ、そっちではなく。マヨイガの方ですよ。どうするんですか?」
「あ、そっち?うーんそうだなぁ…」
美桜によって自分の依頼が流され、末原は落ち込み、部屋の隅でいじけはじめた。そんな彼の頭をとりあえずアルトは撫でてやった。
そして状況の掴めない皐月は美桜に質問するが、「…ちょっと待っててください」と拒否されてしまい、コイツもまた部屋の隅でいじけはじめた。アルトは「めんどくさい男どもだな」とため息を吐きながら、二人分の頭を撫でてやった。
——人喰いマヨイガ。
『人の魂を狙ってる』『人を食べて力にしている』『勢力を上げるために人を喰らい始めた』……そんな、根も歯もない噂の末に、掲示板のとある発言により定着してしまった、この怪異の“名前”。
誰かの声が声を呼び、想像力を掻き立て、膨れ上がった結果、コレは最早、元の姿を失ってしまった。新たなナニカに変生してしまった。
——いとも容易く、幻想は冒涜されてしまったのだ。
(…同じ種族として、これは見過ごすわけにはいかないな)
夜長は、心を決めて美桜に向き直った。
「……僕は、妖怪だ。だからこそ、今回の事件は見過ごせない。これは誘拐事件でも殺人事件でもない。——これは、生命の冒涜だ。だから、僕は人を救うためではなく、妖怪を——マヨイガを救うために解決する」
その宣言に、美桜は少し面食らった。
そして真面目な顔つきで、美桜も夜長に向き直る。
「どういう意味ですか?生命?妖怪に、それもマヨイガに…生命、ですか?たかが人から生まれた想像力の怪物が?あと、人を救うためではない、という事は、人の生死は問わない…という事ですか?」
「そうとは言ってない。人を救うのはついでだ。それと、君は「妖怪に生命があるなんて」みたいな事を言っていたけど、それは僕や末原くんに対しても同じ事が言えるのかい?僕も末原くんも、同じく妖怪なんだけど」
「……そうじゃないです。マヨイガって家ですよね?」
「マヨイガにだって意思があるよ。幸運を授けたり、逆に授けなかったり。だから、そんな意思を噂——『呪い』で塗り潰されてしまったマヨイガを救いたい。きっと苦しんでいるだろうから」
その真剣な眼差しに、美桜は気圧され「…理解は、できませんね」とだけ吐き捨て、その後は何も言わなかった。
アルトは何をそんなにムキになっていたのか、わからなかった。負けず嫌いなのかな、とだけなんとなく思った。
「それで、対処の方だけど……今回は、皐月くんの能力を頼ろうと思うんだ」
その発言に、何も理解していない皐月は「ふぇ?」とだけ声を上げるしかなかった。