森の小屋 1
ナツはゆっくりと瞼を開いた。ぼやける視界には、見慣れない天井。柱と梁が組み合わさるそれを瞳に映していると、次第に記憶が呼び起こされる。
ぱたぱたと音が聞こえたと思った途端、温かな誰かに抱きつかれ、ナツは緩慢に首を動かした。名前を呼ぶと、シノは自分を抱きしめたまま、心配そうに顔を覗き込んでくる。
飛び起きようとしたナツを、全身の激しい痛みが襲った。
「目が覚めたのか」
息をつまらせ、再び仰向けに倒れたナツに、低く野太い声が被さった。理解できない状況に、ナツは痛みをこらえながら首を振って辺りを見回した。
天井の高い、古い木造家屋。床に敷かれた布団に、彼女は寝かされていた。少し離れた囲炉裏の傍で、見知らぬ初老の老爺と老婆が湯呑を手にしてこちらを見ている。
「まあまあ。無理しなくていいのよ」
「お前さん、丸二日も目が覚めなかったんだからな。気が付いて良かった」
ふつか、とナツは乾いた声を漏らした。
「心配するな、お前さんたちに悪いことはしない。……ほれ、これが飲めるか」
向こうの三和土に降りた老爺が湯呑を持ってくる。
老婆に背を支えられ、ナツはなんとか体を起こすと、傾けられたそれに口をつけた。
「……あまい」
思わず呟くと、老爺が声を上げて笑う。
「甘酒だ。気がしっかりしたか」
持ってこられる水と甘酒を交互に口にし、ナツはようやく一息ついた。枕元では、不安げなシノがくっついてじっと様子を見ている。その頭に巻かれた包帯を目にし、ナツは自分の体を確かめた。ひどく痛む脇腹と肩には布が巻かれており、腕にできた切り傷からは嗅ぎなれない薬の匂いがする。
「なに、どうして、これ……」
理解できないナツの様子を、傍に座り微笑ましそうに見ていた老人は、シノの頭に軽く手をやって言った。
「この子が、お前さんを担いで、雨ん中歩いてたんだ。血だらけの、ぼろぼろになってよ」
「……そうだ、シノ、あんた声が」
頭を撫でられ目を細めるシノは、視線を向けられるとすまなさそうに顔を伏せた。それを見て、ナツは察する。あれは死に物狂いの、死別寸前の思いの中、最後に振り絞った全力だったのだ。その危機を脱したのなら、再び彼が声を失ってしまったのは、不自然なことだとは思わなかった。
「この子は、弟なのかい」
老婆の言葉に、ナツは頷く。
「血は、つながってないけど……。あたしの大事な弟……」
呟いて顔を上げ、ナツは二人の老人を見つめた。
「どうして、あたしらにこんな……あたしらは、だって……」
思わず自分の首輪に手をやるナツを、老人はどこか憂いを込めた目に映し、口元を緩めた。
「誰だって構いやしねえ。死にかけてる子どもを見殺しにすりゃあ、神様のばちがあたるってもんだ」
信じられないと表情で訴えるナツを見る目は、あくまで優しく、まるで我が子を見ているかのようだ。
「でも、あたしらは追われてて……。旦那様は、どうしても、あたしたちを殺さないと、気がすまないから……こんな」
あまりに自分の常識とかけ離れた事態に困惑するナツに、老爺はどこか悲しげに首を横に振った。
「遠くには、奴隷なんてもんがあるとは聞いたが、こんな年端も行かぬ子どもをな……。お前さんたちは、殺されるようなことをしたのか」
「あたしたちは、逃げたんだ……。そんなの、許されないのに……このままだと、殺されるからって、勝手に、逃げたんだ」
「死から逃げるのは、当然のことだ。安心せえ。わしらは、お前さんたちを引き渡したりせん。殺されるなら、なおさらだ」
純粋な優しさを受け入れられる機会など、今までナツに与えられたことはなかった。それ故に混乱は仕方が無かったが、隣にいるシノの様子から、彼らの言葉が嘘ではないのだと感じる。同じ立場に居る彼は、怯えてなどいない。主人の追っ手という恐怖に震える素振りはない。
「あ……ありがとう……」
慣れない言葉をなぞるナツに、老人たちは微笑む。
「礼なら、まずこの子に言うんだな。お前さんを背負って、家の前まで歩いてきてから、一時も離れなかったんだ。よっぽど大事な姉らしいな」
そう言ってシノの背を軽くたたく。ナツが目をやると、シノは肩に頬を摺り寄せ、猫の子のように腕に取りすがってくる。名前を呼ぶと、まるで尾を振る子犬のように嬉しそうな顔を見せる。その姿に、ナツは身体の力を抜いた。
彼女が再び眠気に襲われているのを見て、老人たちはしっかり休むように言う。大人しく布団にもぐると、あっという間にナツの意識は深みに落ちていった。