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ナツとシノ  作者: ふあ
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逃亡

 しんと静まり返る森の中、薄汚れた群青の布の背を赤く染めながら、シノは緑の上に転がるナツの身体を揺さぶっていた。岩場で切ってしまった彼の頭には血が滲み、少し離れた岩の上には、打ち所が悪く、二度と動かなくなった猟犬が伏せっている。生き物の気配のない息絶えたような森の中には、やがて細い雨が降り始めた。ぽたぽたと葉を打つ音だけがこだまする。

 呻きながらうっすらと目を開くナツを、シノは強く強く抱きしめた。

 意識を取り戻したナツの視界に入るのは、狭い空とそれを包む枝葉の緑。そしてその景色を、泥と血で汚れたシノの顔が遮った。掠れた声で呼ぶと、彼は頼りない表情を歪ませ、頬に頬を押し当てて抱きついてくる。

「あたし……生きてるのか」

 息を吸い、激痛にナツは身を捩った。彼女の右足首は腫れ上がり、シノを庇って獣に噛みつかれたわき腹は、服の裾を血で固め、下草をも赤く染めている。崖を転げ落ちる直前に噛まれた肩は、ぱっくりとざくろのように傷口を開き、どくどくと血を流していた。

 次第に強くなる雨は、シノとナツの傷だらけの身体を容赦なく打ち続ける。シノは仰向けのナツにすがりついて離れない。彼女が重たい腕を持ち上げて頭をそっと撫でると、彼はナツの血がこびりついた顔を上げる。それを見て、ナツはふっと声を漏らした。

「あたし、弟がいたんだ……」

 細い指先でシノの髪をさらさらと流しながら、ナツは弱々しい声をゆっくりとこぼす。

「随分前に、病気で死んだよ……。かわいい、優しい子だった……いっつも、あたしについてきたんだ」

 そう言ってナツは、思い出に頬を緩める。反対にシノは、今にも泣き出しそうな顔で彼女を見つめている。

「医者に、診せられなかったんだ……。珍しい病気で、うちに、金がなくて……かわいそうだった……くやしかったよ……」

 ナツの声は次第に小さく、風のように掠れていく。流れる血は、彼女の命を削っているようだった。

「逃げろよ、シノ……」

 ナツの手が止まり、力なく、シノの横にぱたりと落ちる。

「あんたは、生きてくれ」

 そう言って苦しげに弱い咳をする。そんなナツを見るシノは、おもむろに彼女の腕を握った。

 その腕を自分の肩にかけ、前のめりに身体を引っ張る。

「……なにしてんだよ」

 ぬかるみだす地面によろけながら、小さなシノは自分よりも成長しているナツの身体を懸命に背に乗せた。四つん這いになると、爪が剥がれて血のにじむ両手足で地面をつかみ、非力さ故に震えながら、傷だらけのナツをようやっと背負う。肩にかけたナツの両腕を自分の手で掴み、足を震わせながらもなんとか立ち上がった。

 ずるりと滑りそうな足で、一歩踏み出す。その背で、力なくナツが言葉をなぞる。

「あたしは、もういいから……。あんたのこと、どっかで、弟と、重ねてたんだ……あたしの勝手なんだ……!」

 咳をするナツの口から血の塊が吐き出され、足元の緑を赤黒く染め上げた。傷だらけのナツの身体から、生きる力が零れ落ちてしまうようだった。

 そんな彼女を背負ったまま、シノは手を動かしてナツの腰紐を引くと、緩く解けるそれを自分の前に回して再び結わえた。ナツと自分をしっかりと結んで離れないようにすると、あまりに小さな歩幅で歩き始める。

 シノの顎から、地面に垂れるナツの指先から、汗と血の混じる雨粒が垂れていく。ふたりの存在を流してしまおうというかのように、雨脚は次第にざあざあと激しさを増していく。

「もう、いいんだよ……」

 乾いた唇を震わせ、今はもう身体を動かせないナツが、雨音に消えてしまいそうな声を零した。

「あたしは、死んだって、いいから……。なに、してんだよ。もう、いいって、言ってるだろ……」

 シノは振り向かず、歩き続ける。水たまりを踏みしめ、ナツの命を背負ったまま、血を流す体で這うように進む。

「……たのむ、から……。シノ、逃げてくれよ……あたしは、もう、いいんだよ。たのむよ……いうこと、聞いてくれよ……」

 それでも、しっかりと結んだ紐は解けず、二人にしか届かない声は雨に消えていく。

「シノ……あたしは……」

「……や、だ」

 振り絞るような、今にも消えてしまいそうな微かな声に、ナツは目を見開いた。声が聞こえるとともに、自分を背負っているシノの身体が、確かに震えたのだ。

「今の、こえ……」

 初めてナツが耳にした、シノの声。それは風のように儚く、今にも雨音に掻き消えてしまうようなか細い声だったが、確かにシノの体が発したものだった。

「シノ……」

 言葉を失っていた彼が発した声に、ナツは何も言えなかった。

「ナツ……いっしょ……。いき、て」

 苦しそうに言うシノは、ナツを背負ったままよろめきながらも、前を向いて足を引きずる。

 シノはどうしても、ナツと生きたいのだ。どれだけ傷ついても、離れたくないのだ。その想いの強さの現れが、振り絞る声だった。

 ナツはそれを知り、小さく笑った。自分をここまで愛する存在が、愛おしくてたまらなかった。

「もっと、早く……声、ききたかったな……」

 それだけを呟き、ナツは重い瞼を閉じた。

 もう言葉を紡いでくれないナツを背負ったまま、シノは歩き続けた。血で線を引きながら、彼は足を引きずった。

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