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ナツとシノ  作者: ふあ
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火事

 火事だ、と叫ぶのが聞こえる。

「早く起きろ!」

 動転している下男は、小屋の隅で身を寄せる二人になど目もくれず、大声を張り上げた。手伝え、火を消せという怒鳴り声に、ただ事ではない空気を感じ取り、ひとりひとりと起き上がる。

「なんだ……火事って……」

 息を呑むナツの耳にも、外で鳴らされる警鐘の鋭い音が飛び込んできた。大勢がそれぞれ叫び、悲鳴を上げて走り回る喧騒が、音だけではなく空気として小屋の壁を通り抜けてくる。

 小屋を飛び出して見えたのは、下人が寝起きする家屋が炎を上げ、暗い空を赤々と照らしているさまだった。まだ誰も火を止めるには至っておらず、母屋へ延焼するのも時間の問題であることは明らかだった。離れた小屋の前でも、轟々と炎の立てる音が聞こえてくる。下人たちが右往左往し、あちこち駆けずり回っている。

 消火を命じる声があちこちで上がり、身を寄せ合って立ち尽くす二人の周りを、奴隷や下人たちが行き来していく。

「あたしらも、行かないと……!」

 パニックに陥る牛や鶏たちが鳴きわめき、瞬く間に燃え広がる炎へ、ナツが一歩踏み出した。

 それを邪魔するように、シノは両腕で彼女にしがみついたままだった。

「何してんだ、シノ」

 引き剥がそうとするナツの腕に逆らい、シノは抱きついて離れない。腫れた頬をナツの身体に押し付け、まるで行かせるまいと訴えるかのように、草の上に足を踏ん張って動こうとしない。

「おい、何してんだって言ってんだろ。離せよ、おい!」

 声を荒らげ、ナツは力尽くでシノを引き剥がそうと彼の両肩を掴むが、シノも懸命にナツにしがみついて離れない。

「やめろってんだろ! 何なんだよ! この……!」

 思わずナツが手を上に上げると、シノはびくりと身を震わせた。だがナツが驚いたことに、それでも彼は離れようとせず、怯えながらもしがみつく。そんな様子を見てしまえば、元々シノを痛めつけるつもりなど微塵もないナツは、上げた手をゆっくりと下ろすしかなかった。

「……向こうにいったら、駄目なのか」

 まっすぐに見つめられる目を細め、シノが頷く。

「……あんたのことが理由じゃないみたいだな。……あたしか? あたしがあっちに行くのが嫌なのか?」

 沸き起こる興奮を無理矢理収め、ナツは懸命にシノの言いたいことを感じ取る。

 話せないシノはこくりと頷いて、ナツの瞳を見返した。漆黒の瞳に彼女だけを映し、言葉を持たない体で必死に訴える。

「なんだか、分かっちまったよ……きっとあたし、殺されるんだろ。旦那様が、そう言ったんだろ」

 それがシノの震える理由だった。ナツの言葉に小さく頷きながら、シノは彼女の胸に顔をうずめる。ナツがシノの死を嫌うように、シノもまた、ナツが死んでしまうのは嫌なのだ。

 そんな彼を、ナツは黙ってじっと見つめる。彼の黒髪をさらさらと指に流しながら、世界で唯一、自分の死を嫌う相手を優しく撫ぜる。

「なあ、シノ」

 顔を上げたシノに、ナツは静かに告げた。

「一緒に、逃げよう」

 業火に掻き消えてしまいそうな言葉は、二人の子どもの間に、確かに響いていた。



 二人が寝ていた小屋は敷地の隅にあったため、敷地の内外を隔てる木の柵までは遠い距離ではなかった。

 人々と炎の喧騒に紛れながら、二人は手をつなぎ合い、幼い裸足で闇夜を目指す。

 奴隷の逃亡は、想定などされていなかった。彼らは主人に自由を買われた存在であり、意思を持って逃げ出すという事態は誰にも意識されなかったのだ。身寄りを失くし、または身寄りに売られた彼らに帰る場所などなく、生涯外れぬ首輪はその立場を何よりも強く公言する。そして捕まった先に待ち受けているのは、逃れようのない死だ。逃げ出す気など起きるはずがなかった。

 人目を避けて小屋の裏に回り、二人は顔を見合わせる。シノの不安げな瞳にはナツが、ナツの気を張った瞳にはシノが、それぞれ映り込む。しっかりと繋いだ手を確かめ合い、二人は同時に草を蹴り上げた。

 赤々と燃え盛る炎に背を向け、闇を目指す二人を目ざとく見つけた人間も、それが逃亡であるとはすぐに気がつかなかった。奴隷が主人の家から逃げ出すなど、思いもしなかったのだ。

 だが、二人が敷地の内外を隔てる柵をくぐると、その誰かは声を上げた。

「おい、お前ら、どこに行く! おい!」

 だだっ広く均された土地である上に、今日の月は明るく二人を照らし、長い影を落とす。

「奴隷が逃げたぞ!」

 だが、炎に戸惑い走り回る人々に、二人の逃亡は容易に浸透しなかった。追いかけようと幾人かが目を凝らした時には、小さな影は遠く消えていた。炎が大きな満月を照らす、ある夜のことだった。



 二人は走り続けた。

 街道を辿り街へ向かうのは怖かった。街には主人の知り合いが大勢いるだろうし、この逃亡が人々の耳に入れば、あっという間に捕まる未来は見えていた。何しろ、外せないこの首輪をつけている限り、ふらふらと街を彷徨える身分ではないのだ。

 だからひたすら灯りから離れ、生い茂る木々の影を目指すうちに、山道へと足を踏み入れていた。光のない暗い暗い木々の合間を縫い、息が切れても二人は手をつないだまま駆け続けた。

 空が白み出す頃、深い山奥で二人はようやく足を止め、自分たちの仕出かした大事件をやっと振り返った。

「逃げちまった……」

 後悔のない声で、信じられない思いを込め、自分が辿った道を振り返りナツが呟く。はは、と乾いた笑い声をこぼし、不安そうに自分を見上げるシノを見下ろして、半笑いのような奇妙な表情を浮かべた。

「逃げちまったよ、あたしら。本当に、逃げたんだ」

 同じことを繰り返しながら、ナツは疲れた足で朝露に濡れる地面を踏み、森の奥へと歩を進める。手は固くつないだまま、ナツとシノは、やがて細く流れる小川へとたどり着いた。

 いつも飲む水は濁っていて、嫌な臭いがする温いものだった。時折、誰かが病気にかかって死んでいった。それを当たり前にしていた二人は、山奥から湧き出る水が冷たく、透明に澄み切っているのに目を丸くして顔を見合わせた。いくら馬車馬のように働いても、こんなに綺麗な水を貰う事など出来ないだろう。川のほとりに膝をつき、それぞれ水面に口を付け、喉を潤した。澄んだ水はふたりの顔を映し、穏やかに揺らいでいた。

 ナツは、傍の大きな木に広い虚が空いているのを見つけた。中に入ると腰を下ろし、立ち尽くしているシノを呼ぶ。

「……見つかったら、殺されるよな。絶対。あの人、厳しいしさ、見栄っ張りだから、何が何でもあたしらのこと、探し出すよ。多分、楽には殺してくれない」

 大人しく入ってきたシノを抱きしめ、子守唄のようにナツは語りかける。

「でも、あたし、あのままでも殺されてたんだよな。……あの人に、殺す理由なんていらないんだ。どうせ、お気に入りのあんたと仲良くしてるってのが、いけ好かねえんだろうな」

 見上げるシノの額に自分の額をくっつける。

「前のお気に入りだって、飽きたから殺したんだ。殺さなくたっていいのにさ。飽きたんなら、ほっとけばいいってのに、わざわざ、嬲り殺しだよ」

 ナツの声は微かに震えていた。それを誤魔化すかのように、シノをぎゅっと抱きしめる。冷たい二つの体が寄り添い、互いに温みを分け合う。

「……だけど、逃げちゃったんだよな」

 一晩中、死に物狂いで駆けていた幼いふたりは、疲れきっていた。時間をおかず、朝焼けに浸る静かな木々の中には、穏やかな寝息が溢れ始めた。

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