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ナツとシノ  作者: ふあ
3/35

奴隷 3

 薄闇の中で、シノは裸の体を布団に転がしたまま、掠れた呼吸をひたすら繰り返していた。まだ幼い彼の体は、大の男である主人を受け止めるにはあまりに小さく、ようやく塞がったばかりの傷はじくじくと痛んでいた。

 握れば折れてしまいそうな細い首に巻きつく首輪を掴み、シノと同じく裸の男は拳を振り上げる。

「う、う……」

 力任せに殴られ、仰向けにひっくり返ったまま、シノは苦しい呻き声を漏らした。既に何時間も行われた行為の果てであり、疲れきったシノは返す手で頬を張られ、風の音のような、ひゅうひゅうとかすれた呼吸音だけを零す。

 主人には、弱い少年が、別の人間の影と重なって見えるようだった。重ねてしまえば、反撃など一切しない彼をいくら殴ろうが、痛めつけようが、誰も責めることなどしない。

「あぐ、う……」

「憎いだろう、坊主」

 唇の端に笑みを浮かべ、男は首輪の上からシノの首に両手をかける。ベルト式の首輪は、きっちりと金属の鍵で施錠され、奴隷たちが自力で外すことは不可能な作りにされている。それを握り締めながら、男は必死に口を開いて喘ぐシノを、優越感を湛えた表情で見下ろす。両手に少しずつ力を入れると、懸命に少年の喉がひくひくと動き、痩せた指が無意識に手に触れてくる。だが力ない彼の指は、頑強な男の手を引っ掻くだけだった。

「どうだ、一番憎い奴の手で殺される気分は」

「あ……があ、あ」

「つっても喋れないんだったな」

 笑い声を上げる男とは反対に、シノは首を締められる苦しさに膝を立て、背でシーツをこする。さらさらという音が虚しく響き、痩せた体を組み敷く男の力強さを訴える。

「辛いだろう、なあ」

「か、ぁ……」

 徐々に、シノの瞳が翳りを持ち、瞼が重く下がっていく。張られて腫れ上がった頬が引き攣り、へこんだ脇腹が痙攣し、絶望を色濃くする。

 途端、男が右腕を振り上げた。

「がはっ、はっ……げほっ、げっ、げほっ、はっ、はっ」

 頭を殴られると同時に首から手が離れ、シノは身体をくの字に折ってひどく咳込み、全身で呼吸をする。その首には、恐ろしい痣が浮かんでいた。

「気が変わった。家族のところに送ってやるのは、少しだけ延ばしてやる」

 肩で息をするシノの髪を掴み、無理矢理頭を持ち上げ、疲れ果てた真っ黒な瞳に男は語りかけた。息を切らせるシノは、一切の抵抗を見せず、大人しくされるがままに身を任せている。

 男はシノの頭を布団に投げつけ、立ち上がる。それがようやく訪れる終了の合図だった。ぐったりと重い体を布団に押し付けたまま、夜具を羽織り障子を開ける男の背を、シノは痛む頭を傾かせて目に映す。時を待たせずやって来た女中に短く指示を与え、男はちらりと彼の方をを向いた。

「坊主、お前、生意気に友達ごっこなんぞしているらしいな」

 そう語る男の瞳は、冷笑をたたえ、ほくそ笑んでいる。

「そいつから先に送ってやる。朝を待っているんだな」

 そうして、意味を理解できない女中を残し、男は笑い声とともに、廊下を歩いて去っていってしまった。

 雨戸の大きく開け放たれた縁側を通し、大きな満月が明るい光を暗い部屋に投げかけ、残された女中とシノの輪郭を闇の中に辿る。男の足音が消えてしまうと、大きく息をつき、女中は中年の気の短さを露にするように、畳を踏み鳴らして部屋に入ってくると、布団に転がっている彼を蹴りつけた。

「いつまでくたばってんだ。早くどきな! 邪魔だって言ってんだよ、奴隷ふぜいめ」

 睡眠時間を削られた女中は苛立ちを隠す様子もない。脇腹を踏みつけられ、彼はよろよろと敷布団を這い出る。

「旦那様に色目使いやがって、子どもだなんていっても、卑しい奴隷だよ、まったく。いいかい、お前たちは死ぬまで家畜なんだからね、布団で寝られる身分じゃないんだよ、分かってんだろうね! この畜生が!」

 隅に放られた自分のぼろ布を身体に巻きつけ、今日の後片付けを命じられた女中に、シノは抱えるように頭を下げる。彼が主人のお気に入りと化している事実を憎む者は少なくなく、彼らは、彼が自分たちが見下げる対象であるという現実を執拗に口にし、手を上げた。言葉を話せないという欠陥は苛立ちを刺激するひとつの材料となり、彼らは一層非道い文句を彼に浴びせた。

 女中はひとしきりの罵詈雑言を吐き、シノの薄い背を蹴り飛ばすと、顎で男の出て行った方をしゃくる。

「邪魔なんだよお前は! さっさと出て行きな!」

 ふらつく身体をなんとか立てながら、シノは言われた通りに部屋を出ると、縁側から外に下り、広い庭を横切り、敷地の隅にある小屋へ向かった。途中にある水撒き用の水道で口をゆすぎ、腫れた頬を冷やし、昼間は牛たちが喰む草を汚れた裸足でなぞった。



 ナツとシノが干渉し合うことは少なく、日があるうちはそれぞれ働き続け、日が沈むと、疲れ果てて泥のように眠ってしまうから、顔を合わせる時間もない。だが、シノが痛めつけられ、その片付けをナツが命じられる夜、彼らは短い言葉を交わす。言葉という返事がなくとも、ナツがそれに文句を垂らすことはなく、傷の手当てをし、姉弟であることを確かめ合う。

 今日の片付けは女中に任せられていたからナツが起きている道理はないのだが、小屋の戸をシノが静かに開けると、彼女は向こうで起き上がった。手招きされ、他の者を踏まないよう、シノがそろりそろりと近づくと、ナツは自分の傍らを軽く叩いて横になった。月の明るい夜、隙間だらけの壁から、互いの顔を確認できるほどの光が差し込んでいた。

「あんた、今日もやられてたんだな。また殴られたのか。まったく、治る暇がないぜ」

 呆れた笑みを浮かべるナツに促されるまま、シノはそっと腰を下ろす。藁が微かな音を立てるが、周りで眠り込んでいる者たちが起き出す気配はなく、ナツは、藁の擦れる音にもかき消されそうな小声を零す。

「いつもいつも、飽きないよな。そんなにこのがりがりの体がいいのか。なあ、あんたは……。どうした、シノ」

 ナツが訝しげに目を細め、シノへ手を伸ばし、腕を掴む。

「どうした、なんで震えてるんだ。熱でも出てるのか、そんなに怖かったのか」

 シノの小さな身体は、ぶるぶると震えていた。目を見開いて起き上がると、ナツはそっとシノの頬を両手で包み、その額へ自分の額を当てる。

「熱は、ないみたいだな」

 声を殺したままナツが頭を離し、シノの顔を覗き込みながら身を寄せると、彼の震える指先がナツの服に触れる。すると彼は、がたがたと震えながらナツに縋りつき、胸に顔をうずめてくる。

「痛いのか」

 こくりと頷く。

「怖いのか」

 大きく頷いた。

「……でも、死ぬような怪我じゃないぞ。何ビビってんだよ、大丈夫だ、あんたは死なないよ。もっと痛い日だってたくさんあっただろ、今まで我慢できたんだから、今更駄目だなんて言うんじゃねえよ」

 背を撫でるナツから離れる様子を見せないシノに、彼女の黒髪がさらりとかかる。

「……そんなに怖い目にあったのか」

 シノは、ナツから離れまいとするように、両手で彼女の服をぎゅっと握り締めていた。そんなことは今までに一度もなく、ナツは困った表情を浮かべ、優しく彼を抱きしめる。ふたつの影がひとつになり、奴隷同士では有り得ないはずの温もりが、小屋の隅に蹲る。

「そうだな……」

 まるで彼が本当の弟であると言わんばかりの優しい仕草で、彼女は彼を抱きしめて背を撫でてやる。

「いつもいつもひどい目に遭って、痛いことをされて、怖くないわけないよな。……前も言っただろ、シノは可愛い顔してんだしさ、頭もきっと悪くない、文字が書けるんだからな。ここを出られたら、きっと、拾ってくれるやつだっているのにさ……。あたしに期待すんなよ、あたしはこんなことしか出来ない。だけど、こんなんでよけりゃ、来ていいんだぜ。なあ」

 シノの震えは次第に収まっていき、そうして見上げる頼りない黒い瞳を見下ろし、ナツは笑いかけてやる。

「あーあ。何言ってんだろ、あたし。らしくねえよな。な、早く寝ちまえ。朝になりゃあ、忘れちまうよ。忘れちまえ。……あたしは、夜明けに呼び出されてるから、もう寝なきゃなんねえんだ」

 シノの瞳が、大きく見開かれる。

「なんなんだろ……あたし、直接旦那様に呼び出されるようなヘマしたのかな……。嫌な予感がするんだ。だけどあんたには関係ない、心配なんかいらねえからよ、そんな顔すんなよ、シノ」

 顔を歪め、いやいやをするように、シノは首を横に振る。それを見て苦笑しながらナツがシノの頭を撫でた。

 途端、小屋の戸が音を立てて開かれた。

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