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ナツとシノ  作者: ふあ
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 幼い声がどこから聞こえるのかと、ナツは辺りを見回した。妙に足元がふわふわとし、景色はぼうっと白みがかり、まるで雲の中にいるような心持ちだ。ここは夢か現実か。それすらも定かではなく、意識が遠ざかったり近づいたりを繰り返している。

 それよりも、あの声だ。あれは、間違いなく、死んだあの子の声だ。感触のない足元を一歩ずつ踏み出す。


 おねえちゃん!


 腰にしがみつく感触と同時に、懐かしい声が聞こえた。小さな手が、手を握っている。はしゃいだ笑い声。何もかもが懐かしい。

 振り向いて見えたのは、間違いない、死んだ弟の姿だった。痛みも苦しみもない、溢れんばかりの笑顔で、弟は姉を見上げている。幼くしてこの世を去った悲しい子は、悲しみ一つない嬉しげな表情を輝かせ、あの頃と同じようにくっついている。大きく真っ黒な瞳で、仲の良かった彼女を見上げ、はしゃいだ笑い声を上げている。

 ナツは笑い返すこともできないまま、弟の名前を呟いた。記憶の底に沈んでいた姿を前にし、膝を折ってへたりこんでしまった。弟はにこにこと笑っている。震えそうな手を伸ばすと、彼も膝を折り、無邪気に抱きついてきた。

 懐かしい感触を、ナツは思い切り抱きしめた。

 柔らかさも、匂いも、ぬくもりも。全てが記憶のままだった。大きくなれない弟は、小さなまま、幼いままの姿で、腕の中にいる。

「ごめんな……」

 弟を胸に抱きしめ、ナツは声を絞り出した。

「ごめん……ごめんな……辛かったよな、寂しかったよな。ひとりで、死んじまって……あんまりだよな。なにも……なにもできなくて、本当に、ごめんな」

 ずっと胸に秘めていたナツの想いだった。

「あたし、姉ちゃんなのに……。たった一人の弟だったのに、何もできなかった……。ごめんな……」

 こみ上げてくる懺悔の言葉に、弟は首を横に振る。にっこりと、あの頃のように、太陽のような笑顔で笑いかけてくる。

 そんなことはないと、弟が言っている。優しい彼は、助けられなかった姉を憎むどころか、嫌う素振り一つなく、無邪気な透明さを湛えて大好きだと言う。

「あたしが……あたしが、代わりになれたらよかったのに……!」


 いやだよ!


 弟が腕の中で叫んだ。ナツが見下ろすと、彼は真剣な眼差しで顔を上げ、嫌だと言った。

「でも……」

 口ごもるナツに、大好きと、弟は優しく告げる。

「だけど、それでも」


 おねえちゃん、いっぱい遊んでくれたよ。病気になってからも、ずっとずっと、看病してくれたよ。嬉しかった。おねえちゃんがぼくのおねえちゃんで、本当によかった!


 弟の言葉に、ナツの胸は張り裂けてしまいそうだった。彼は、許してくれる。何もできず、助けられなかった姉を、眩しい笑顔で受け止めてくれる。

 喉元の熱い塊を飲み下し、涙を零しそうな心を抑え、ナツはかろうじて笑顔を見せた。さらさらと、弟の髪が、指の合間を滑っていく。

「あたしも、同じだよ。……ずっと、寂しかったよな。これからは、あたしも一緒にいるからな。もう一人にはしない」

 これで、いや、これがいいのだ。全てが綺麗に収まる最善の選択なのだと、ナツは腕の中の弟を見下ろした。

 弟は優しげな表情で、じっとナツを見つめている。真っ黒な瞳に、久しぶりに会えた姉を映し、やがて目を閉じると体をもたせかけた。

 そして、言った。


 まだ、だめだよ。


「どうして」

 想定外の台詞に驚きを隠せないナツに、弟は優しく笑いかけた。


 おねえちゃんには、まってる人が、いるから。


「そんな……。でも、もうどうしようもないんだ。そんなこと言ったら、あたしだって、ずっと待ってたんだ」

 ナツは縋るように弟を抱きしめて繰り返したが、弟は優しく姉を押し戻した。

 待ってるからと、弟は幾度も告げる。その儚い笑みを見つめていると、忘れられないひとつの顔を思い出す。そうして、胸の奥で叫ぶ声が聞こえる。

 ナツ、と声は呼んでいる。

 忘れたくない人を、ナツは思い出す。弟の姿と重なる。全てを諦めて捨てていっても、ただ一つ残る存在が、自分を求めて出せない声で懸命に呼んでいる。

 ナツ、ナツ、会いたい、大好き、一緒に生きたい。震えながら何度も何度も繰り返している。

 振り切らねばと幾度覚悟を決めても、思い切ろうとしても、その姿は瞼の裏から消えることはない。忘れられない小さな姿が、泣きそうな顔をして呼んでくる。

 おねえちゃんと、腕の中の弟が呼んだ。


 会えてよかった。ありがとう、ずっと言いたかったよ。大好きだよ。ずっとずっと、待ってるからね。傍にいるからね。


「ありがとうな……」

 そうして、ナツは、弟の名前を呟いた。もう夢の中でも会えなくなる弟を強く抱きしめ、存在しないはずの温もりを体に刻みつけ、目を閉じた。

 母の声が、何処か遠くから、向こうの世界から聞こえてくる。静かな場所はどこまでも白く、淡く、ゆったりと流れ続けている。

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