病気
「ナツ、どうしたの、それ……」
絶句する母に抱きしめられながら、ナツはこれが一番なのだと、何度も自分に言い聞かせた。もう、目を開けているのも辛く感じた。
言われるままに寝具に潜り込む。すると、ほんの半日前のぬくもりを思い出してしまう。頭を振って布団にしがみつく。息を吐く。
自分が死んでしまうことに対して、ナツに大きな恐怖はなかった。遠い昔に死んでしまったあの子も、この恐怖を超えていったのだと考えると、恐れてなどいられない。今までこの家にもいなかったのだ。数日帰ってきたところで、両親や姉も悲しみさえすれど、今後も変わらぬ生活を送っていくだろう。だから、ナツの心残りは、ただ一つだった。シノは、うまくやっていくだろうか。また、人々の心を動かす唄を唄えるようになるのだろうか。できれば、その一幕を見て、この世を去りたかった。
あと幾日、この身体はもってくれるのか。だいぶ熱の上がった頭で、ナツはぼんやりと考えた。あの子は、最後に血を吐いて死んだ。やせ細った腕は、斑点が浮かぶどころではなく、皮膚全てが変色していた。その様子はよく覚えている。それを思えば、あと数日はもつだろうが、長くはない。父や一番上の姉には会えないだろうが、売られた時に、既に彼らと永遠に決別する覚悟はしていたのだ。今更寂しさを覚えることもないと、ナツは重い瞼を閉じた。
食事は、二番目の姉か、母が食べさせてくれた。決して満ち足りたものではないが、二人が自分の分を削っていることを、ナツは察することができた。
身体の節々の痛みに、眠れない虚ろな意識の中、母と姉の言葉が聞こえた。
「奴隷」「長くない」「もう少し」「首輪は」そんな台詞が途切れ途切れに聞こえてくる。やはり二人は、奴隷として売られたナツが、何故逃げてこられたのか疑問に思っているらしい。それはそうだと、ナツはぺしゃんこの枕に頭を押し付ける。一度売って金を得たのだから、これは立派な契約違反だ。本来なら、母たちは末娘を主人の元に突き出さなければならない。だが、首輪を外し、遠い距離を明日をも知れぬ身で渡ってきた娘を、非人道的な世界に送り返す非道さは、彼らはまだ持ち得ないようだった。一度は売ったくせにとナツは可笑しささえ覚えてしまう反面、彼らの中途半端な優しさが迫るように身に染みる。どうやら、病気に殺されるまでは、目を瞑って許してくれるようだ。
もう何も与えられないのなら、一日でも早く、母や姉を楽にしてあげたい。貧乏な家で、遠くないうちに死を迎える体で、働くこともできず一日中寝床にこもり、食べ物だけを貰って生き延びる生活。奴隷として生きたナツは、それに耐えられなかった。
姉がスプーンで運んでくれる薄い粥もうまく胃に落ちず、こみ上げてくる。弱々しく咳をし、食事すら摂れなくなり始めたナツを、姉は思いつめた表情で見つめた。
「ごめん、姉さん……」
歪むナツの視界に、目を濡らした姉の姿がある。乾いた唇を動かし、ナツは掠れた声を零した。
「もう、いいから……。あたしは、もう……」
「……ナツ」
姉は目元を拭い、涙に濡れた手で、優しくナツの頬に触れる。その冷たい心地よさに目を細めるナツは、今や動くことも、喋ることにすらひどく体力を奪われてしまう。
目を閉じると、あの子の姿が蘇る。瞼の裏で、幼い弟は笑っている。まだ元気だった頃、一緒に山の中を駆け回り、食料を探しながら遊んでいたことを思い出す。明るい笑い声が、鼓膜の奥で響く。もう二度と、触れることのできない記憶。
静かな寝床で、ナツは大きく息を吐いた。この布団は、幼いナツと弟が共に潜り込んで眠っていたものだった。息を吸えば、あの子のかけらを感じられる気がする。
あたしも、もうすぐ、いくからな。
胸の奥で弟に呟く。すると、ちくりとそこが痛む。あの子に似たもう一つの顔が、泣きそうな表情をしている。ナツ、ナツと出せない声で精一杯叫び、一緒に生きてと震えている。シノは、ナツが大好きだ。二人は、相手の名前さえ知らない奴隷同士だったはずが、一人の思いつきの台詞から血の繋がらない姉弟となり、相手を想うようになった。互いが傷つくことを嫌い、生きるために手を握り合って逃げ出した。そうして、いくつもの夜を超え、太陽を迎え、時に悪いこともしながら、必死になって生き延びてきたのだ。ナツの隣にはシノが、シノの傍らにはナツが常に寄り添い、優しい言葉を掛け合って、相手の幸せをただ願って歩いてきた。
だから、別れは必要だった。ナツはもうじき息絶えてしまい、シノは居場所のないこの世界に、唄うこともできないまま、たった一人で取り残されてしまう。その未来を知っているからこそ、彼を少しでも大事にされる場所に送り出し、唄うたいとしての可能性を抱かせることは、ナツに行える最後の思いやりだった。
次に目を閉じれば、もう覚めることはないのかもしれない。これでよかったのだと自身に言い聞かせ、夜も昼もわからない一日を、ナツは静かに終える。今までのことがゆっくりと蘇り、頭の奥で囁いて、触れられない場所に消えていく。