サーカス 2
翌日から、シノは練習を始めた。紙に連なる文字を幾度も読み返し、物語を噛み締め、澄んだ唄声に変えていった。ナツが抱くような迷いなどなく、いつもの通り真っ直ぐな思いが込められた、幼く無邪気な唄だった。
だが、その唄声をナツは聞くことができなかった。言いようのない恐怖に襲われ、体が震え、足が立たなくなり、吐いてしまいそうになるのだ。だからシノが練習を始めると、彼女はその場を離れ、終わるのを待つことしかできない。
「なんでだよ。あんたは、辛くないのか」
幾度もナツは問いかけたが、シノは笑って首を振るばかりだった。確かに、彼に怯える風はなく、体の震えも瞳の曇りもない。これまで唄ってきた時と同じ様子で、背筋を伸ばし、毎日の練習を終えた。長い唄を覚えるため、休憩もほとんど取らず、来る日も来る日も一日中彼は唄い続けた。
そして、遂に幕開けの日はやってきた。大勢の観客がサーカスのテントに詰めかけ、これから始まる数々の演技に胸を弾ませる。
満員の客の前で、派手な化粧を施したピエロが玉に乗り、空中ブランコ乗りが美しく宙を舞った。女が自身を切断するマジックを見せ、その場を緊張で満たすと、男が業火を噴いてテント中を熱気で包む。一つの演目が終わるごとに割れるような拍手が波打ち、老若男女問わない人々の興奮が渦を巻いた。
いよいよ出番が近づくと、ナツは舞台裏で待機するシノの手を強く握った。彼の衣装は、静かな彼の性質を示すように、派手すぎない質素なもので、良く似合っていた。ゆったりとした青い生地が、きゅっと腰紐で結ばれている。さらりとした髪に巻かれている赤い紐をナツが丁寧に整えてやると、シノは嬉しそうに笑った。反対に、ナツはシノの分も緊張を背負うかのように深呼吸をし、向かい合って細い肩を両手で包む。屈んで、シノの奥深い瞳をじっと見据える。
「もし何かあったら……少しでも苦しくなったら、すぐに戻って来いよ。あたしはずっとここにいるから、シノのこと待ってるからな。心配してやってんだからな」
真剣なナツの表情に、シノは微笑む。大丈夫と彼が言うのを聞くが、ナツの緊張が解けることはない。
直前の演目が終わり、津波のように拍手が溢れてくる。照明が一時的に消え、あたりが薄闇に包まれる。
初めの日だけ、舞台に立つシノを、ナツが送り届けることが許されていた。テント内で最も幼いシノに対する配慮だった。ナツとシノは、手を繋ぎ合い、舞台の中央に向かった。椀の底のような舞台では、前後左右にひしめき合っている観客たちの息遣いや、高まって仕方のない期待が、山のようにそびえている。
「あたしはもう、何も言えないけど……。シノ、頑張れよ」
こっくりと大きく頷くシノの手を、ナツは強く握り、離した。
ナツが舞台から姿を消すと、照明に照らされ、シノは大きく息を吸い、唄いだした。
悲しい物語が幕を開ける。
唄うたいの少年は、透き通った唄声をテント中に届けていく。鮮やかな景色を人々の前に浮かべ、憂いを含んだ素直さで、ある男の物語を語る。耳で聞いていた人々は、次第にそれを心で受け止めていく。心と心が結びつく。少年は、結んでいく。言葉を持たない彼には、それができる。
財を成す雅やかな風景を弾んだ声で語ったと思えば、多くの奴隷を鞭打ち、残忍に殺していく様を憂い、炎が夜空を染める光景を唐突に浮かべた。人々の目の前には一人の少年しかいないはずなのに、そこには夜を照らす業火があった。下人が騒ぎたて、悲鳴が上がり、鳥や牛が嘶き、爆ぜる炎の音が、今まさに、鼓膜を打っているようだった。
幼いふたりの奴隷が逃亡し、怒りから下人を殺し、やがて男は全てを失い、床に伏せる。病に打ちのめされたのか、心を病んだからこその身の病なのか、それは誰にもわからない。そこには、数人の下人が残るばかり。僅かな時で得た地位は、僅かな時で失われていった。
決して人に驕ってはならない。自分の価値を誇張してはならない。相応を知り、人を軽んじるでない。幼い少年の唄は、そう語り告げ、消えていった。
彼が口を閉じると、テント内には静寂が満ちた。余韻が去ると、起こり始めた拍手は漣と化し、やがて割れるようにこだました。子どもも老人も、誰も彼もが痛いほど手を打ち鳴らし、立ち上がり、彼の唄を絶賛した。
シノの舞台は、大成功から幕を上げた。
両手で耳を塞いでいたのは、舞台裏の、ただひとりの少女だけだった。