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ナツとシノ  作者: ふあ
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命の約束

 覚悟はしていたが、主人の追っ手はどこまでもしつこく追ってきた。自分たちの人相書きを見かけ、ナツはぎょっとしてその場を足早に立ち去った。繋いでいるシノの手が、手を強く握ってくる。

「夜の内に、ここを出よう。もうこの街は無理だ、またどこか探してかねえと……。路地の鼠まで、あいつら探し回ってるらしい。あたしらが見つかるのも、時間の問題だよ」

 シノが反対する訳もなく、二人は朧月夜の元を歩き続けた。通りを避け、影を選び、それでもいつその影から大人が出てくるか、誰かに襟首を掴まれるのではとびくびくと怯えながら、街の外を目指した。大きな街のせいか、すれ違う人影が途絶えることはないが、大人が自分たちを気にする様子はない。

 緊張しながらも通りを抜け、人影の消えた薄暗い路地裏で、ナツが音を立てずに息をついた。

「あと少しで、街から出られるぞ……」

 途端、隣をぴったりとくっついて歩いていたシノが、がくんと後ろへ引っ張られた。

 硬直してしまったシノの腕を掴んでいるのは、暗い路地から音もなく現れた、一人の若い女だった。恐ろしい大人の男ではない。だが、それに安堵する前に、ナツは相手の顔を見て息を呑んだ。

 相手は、若い顔立ちを憎々しげに歪ませている。

「あんたたち……」

 シノの腕を握る手に力を込め、食いしばった歯を見せ、彼女は呻くように言った。

「よくも、こんなところまで、逃げたわね。やっと見つけたわ」

 彼女の首には、ナツやシノと変わらない首輪があった。

「あんた、旦那様のところにいた……」

「そうよ。よく覚えていたわね」

 奴隷などに名前はない。だが幾年も働いていれば、その名も声も知らずとも、顔を覚えることはできた。彼女は間違いなく、ナツとシノと共に主人の下で働いていた、奴隷の一人だった。

「のこのこと逃げおおせて……。あんたたちのせいで、私たちは、非道い目にあったんだからね……!」

「非道い目って……あたしたちのことなんて、関係ないだろ……」

「あるから言ってんのよ!」

 彼女は怒りに任せて声を荒らげた。

「旦那様が、どれだけお怒りか、知りもしないで……。あの火事の後、家はそれは荒んでいったわ。手始めに、ボヤを起こした下女を、みんなの前で殺した……ほんの不始末だって言ってたけど、そんなの、聞くわけがなかった!」

 どんな殺され方をしたのか。その凄惨さは、彼女が思わずシノから手を解き、自らの身を抱きしめる様子から予想できた。彼女はきっと、二人を睨みつける。

「それに、あんたたちが逃げ出したのも、火に油を注いだわ」

「あたしは、朝が来たら、殺されるんだって、聞いたんだ……だから……」

「あんたが殺されればよかったんだ!」

 彼女の瞳に宿る燃えるような怒りに、ナツは言葉を飲み込み、シノは震え上がった。ナツの腕を両手で握り、怯えながら縋り付く彼を、彼女は鋭い眼差しで見据える。

「そいつが逃げたっていうのも、余計に怒りを買ったのよ! 旦那様、気に入ってたって話だから……!」

「だけどシノは、あのままあそこにいれば、いつか嬲り殺しにされてたんだ。遊ばれて、殺されるところだったんだ」

「そのまま殺されたらよかったのよ! あんたたちが死ねばよかったんだ!」

 彼女は髪を振り乱し、叫ぶ。人気のない道は街灯に照らされるだけで、通りかかる者はいない。だが、向けられる言葉の勢いに、二人は逃げるという思いを打ち消されてしまっていた。

「それって……」

「殺されたのよ、何人も! 旦那様、怒りが収まらないって、下人にも手をかけたの! こんなこと、今までになかった!」

 命を買われた奴隷とは異なり、雇われている彼らを手にかけるというのは、普通のことではない。

 彼女は肩につく自分の髪をかきあげる。それを見てナツとシノは息を飲んだ。彼女の頬から耳元にかけての皮膚は、赤黒くただれていた。彼女の顔が焼かれたのだということは、言われずとも悟ってしまった。

 自分たちの逃亡が、多大な犠牲を生んでしまったことを、思い知った。ナツとシノに向けられるはずの主人の怒りは、行き場をなくし、弱い立場のものへ向いてしまったのだ。それが彼女の訴える、奴隷や下人の酷い死に様だった。

 ぐっと、彼女はナツの首にあるスカーフを握り締める。

「こんなもの使って!」

 息苦しさに息を詰まらせるナツから奪ったスカーフを、彼女は地面に叩きつけた。ナツが拾い上げるまもなく、裸足で幾度も踏みつける。

「あんたたちが……あんたたちのせいで……!」

 ナツは抗議できなかった。憎悪を宿した彼女の瞳から、涙が溢れていたのだ。

「あたしたちが、逃げたから……」

 呆然と呟くナツの手を握っているシノも、がっくりと項垂れている。

 その時、向こうの方から大勢の足音が近づいてくるのに、ナツは気がついた。泥で汚れたスカーフを咄嗟に拾い上げ、シノの手を握ったまま駆け出すのを、力なく泣きじゃくる彼女は、追おうとはしなかった。



 再び夜闇に紛れ、街を外れた丘の上を、とぼとぼと歩く。ナツの足取りに力はなく、それをシノが心細く見上げている。

「あたしら……とんでもないことしちまったんだな……」

 ついに足を止め、ナツはシノに語りかけた。シノは、いつもの濡れているような澄んだ瞳で、真っ直ぐに見つめてくる。

「やっぱり、逃げたら駄目だったんだ」

 ナツもシノも、自分の死を、そして大事な人の死を嫌っただけだった。理由もなく殺されてしまう恐ろしい未来から、逃れようとしただけだったのだ。それがこのように、他人の犠牲という結果を招くなどとは思いもしなかった。

「本当にひどいのは、逃げ出した、あたしたちだったんだ」

 唇の端を、声を震わせる。

「あのまま、死んでたら、よかったんだ……!」

 そう零したナツを、シノが抱きしめる。彼もまた落胆し、疲れきり、表情に影を落としていたが、ナツのその言葉を耳にすると、両腕を回して抱きついた。

 ナツには、シノの言葉が聞こえる。死なないでと、言っている。ナツ、死なないでと、生きていて欲しいんだと、シノは声のない体で精一杯叫んでいる。

「ありがとな……あたしもそうだよ。あんたに、シノに、死んで欲しくなんかない。あたしが死ぬことがあったって、あんたが死ぬのは嫌だ」

 ナツもシノの背に腕を回したが、崩れるように、そのままずるずると草地の上に膝をついてしまった。彼女の右手は未だに、汚れたスカーフを固く握り締めていた。

「……言ってくれたよな、あの人たちも、生き延びろって。生まれたんだから、生きるんだって。本当に、嬉しかった。……だけど、それは、他の誰かが死んでも変わんねえのかな。そこまでして生きなきゃいけねえのか、分かんねえんだよ。あたしには、もう、分かんないんだ」

 ナツの細腕が震える。

「どうして、あたしら、こんなんなんだろな……なんで、こんな生きるだの死ぬだの言わないと、いけないんだよ。これからもずっとそうだ。これが付いてる限り、あたしらは、人間になれないんだ。足や手なら、すぐにでもぶった切ってやるってのに、なんでなんだよ……!」

 自分の首輪に手をやり、声を震わせ、ナツは嘆く。そんな彼女の前に、シノが膝をついた。寂しげな瞳にナツを映し、そっと抱きしめる。

 ナツは、涙を零し、泣いていた。

「あの時、少しでも思ったんだ。このまま、こんな生活がずっと続くんじゃないかって……この幸せが、死ぬまで続くかもしれないって、一瞬でも、思ったんだ……。そんなわけねえのに、あたし、馬鹿だ。本当に、どうしようもないんだ……!」

 そう言って、シノを強く、強く抱きしめる。熱い涙を流しながら、スカーフを握り締めた腕で、縋るようにシノを抱く。シノは頭をナツの肩に乗せ、目を閉じた。

 そして、彼が唇を動かすのが、ナツには感じられた。声は出ていない。しかし、シノの言葉が、ナツにはわかる。

 それを聞き取り、ナツはやがて頷いた。

「そうだな……」

 シノは、ナツに死んで欲しくない。

「生きよう……」

 そうして、ナツも、シノに死んで欲しくなどない。

「どこまでも、生きて生きて、ずっと一緒にいよう」

 シノが、大きく頷いた。

 顔を見合わせ、幼いふたりは笑い合った。かけがえのない約束が、ふたりを繋いでいた。

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