雲行き 2
その日、二人は小屋の奥の部屋で息を潜めていた。薄い戸板一枚で隔てられた囲炉裏の周りでは、五人の若い男が酒を飲んで騒いでいる。時刻は昼間だったが、外は粉雪が舞う曇った空色をしていて、老爺たちは街に出る用事があるために出かけていた。ナツとシノが、訪れたことのない街へ代わりに出かけることは難しかったのだ。手伝いはしなくていいと言われ、布団を敷かれた部屋に二人はこもっていた。
そうして、老婆に教えられた縫い物を布団の上で黙々と続けていた。特に、指が細く、丁寧なシノは、男の子にはもったいないと言われるほど、器用に縫い上げた。
「やっぱり、あんたは上手いな」
ナツは、針で突いてしまった指先を咥える。シノは手を止め、ナツを見上げて嬉しそうに笑った。細い指は針を巧みに操り、布と布を真っ直ぐに繋いでいく。
突然かけられた大声に、シノはびくりと肩を震わせ、ナツは息を呑んだ。
「おい、お前ら!」
この場所に来て、初めてかけられる怒鳴り声だった。以前は一日に数え切れないほど聞いていた怒声に、二人は身を固くする。
「ここに来い!」
ナツとシノは顔を見合わせる。老爺たちは部屋を出なくともいいと言ったが、呼ばれた事実を無視することは、二人には困難だった。
静かに立ち上がったナツの後に、不安そうな色を目に浮かべながら、シノが続く。音を立てずに戸を開いたナツの目に、粗野な若者たちが興味を表情にたたえ、自分たちを見る様子が映る。
「酌しろ、居候」
言われるままにナツは三和土に下り、シノは下げた食器を水を張ったたらいに浸ける。口を閉じたナツは瓶の中の酒を徳利に移し、彼らの元に運び、囲炉裏端に膝をついた。隣ではシノが新しい皿につまみを移している。盆に乗った大皿に積まれた菓子を、手に持った箸で小皿に移す手つきは慣れている。しかし顔は決して上げず、黒い瞳は伏せったままだ。
不意に伸びてきた太い腕が、シノの首に巻かれたスカーフを握り締め、引いた。バランスを崩したシノは両腕を床につき、その拍子に大皿の菓子がばらばらと床に溢れる。シノ、と声を出しかけたナツは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「これ本物かよ。首輪ってやつだろ」
「まさか奴隷がうちに転がり込むとはな」
ナツの隣にいるのが、あの日に目にした老人たちの息子だった。彼は膝を叩いて笑い、シノの首輪を握り締める一人は、ぐいぐいと乱暴にそれを引っ張っている。シノはされるがままに頭を揺さぶられ、苦しそうに目を細めるが、床に細腕を突っ張って支えたまま、首を引き返そうとはしない。その様子に周囲は笑い声を上げ、珍しい生き物を相手にするように首輪を引き、初めて見る奴隷の少年の髪をかき上げ、顔を観察する。
「おい、何ぼんやりしてんだ。さっさと注げ」
なんとかシノから視線を剥がし、ナツは小さく返事をし、息子が手にしている猪口に徳利を傾ける。透明な水のような酒が、渦を巻く猪口の底に注がれていく。
それが音を立てて床に転がり落ち、中身が囲炉裏の中へ零れてしまった。徳利の口元からぽたりと滴る酒が木の床に粒を作る。
「申し訳ございません」
わざと猪口を落としたことは明白だったが、ナツは徳利を脇に置き、両手を床について頭を下げた。まとめられた髪がぱさりと顔の横に垂れる。
「あーあー、もったいねえなあ」
頭に落とされる声に、ナツは再び謝罪を口にし、床に額を擦り付けた。彼らが自分のこの姿勢を欲し、優越感に浸っていることは、顔を上げずともよく知っていた。主人も下人たちも、執拗に奴隷の失敗を招き、謝罪する姿を嘲笑い、負えるはずのない責任に手を上げるのだ。
「お前ら、逃げ出した奴隷ってやつだろ」
だからナツは、これから殴られるのだろうと覚悟していたのだが、その言葉には思わず身を震わせた。ゆっくりと顔を上げたそこには、何がおかしいのか、にやつく男たちの姿がある。
「それ、は……」
声が掠れてしまう。
「奴隷がこんなところにのこのこ上がり込むなんてな。親父どもの小金狙ってやがるのか、生意気に」
「え……?」
思わぬ台詞に、ナツは短い声を漏らした。
「俺を出し抜こうってのか、あ? 可哀想な奴隷つったら、同情も買いやすいだろうよ。ここまで付け入りやがって、一発狙ってんだろうが」
想像もしないことだった。彼らは、ナツとシノが、老人たちの家を狙っていると思い込んでいるようだ。
「そんな……そんなわけ、ございません」
両手をついたまま、ナツはかろうじて首を横に振る。
「うっ」
「うるせえよ」
息子が伸ばす手が、ナツの髪を掴み、頭を床に押し付けた。硬い床板から、じんと冷気が漂ってくる。痛みに奥歯を噛み締めるナツの横に、音を立ててシノが放られた。
「なんとか喋れよ、気色わりい」
「ナメてんのか」
襟首を掴まれるシノの首から、ほどけたスカーフがはらりと落ちた。咄嗟にそれを拾おうとしたシノの小さな手が、俯けた視界に入った途端、ナツの耳に聞き慣れた音が飛び込んだ。しかし、殴られても、シノは微かなうめき声しか発さない。シノはナツのように、謝罪の言葉を口にすることができない。
「この野郎!」
見縊られていると勘違いした誰かが、声を荒らげ、シノの頬を強くぶった。空気の弾けるような激しい音が、幾度もナツの鼓膜を揺さぶる。
「喋れないんです」
ナツは、黙っていられなくなり、こうべを垂れたまま、許しを請う。
「その子は、喋れないんです」
「はあ? ふざけてんじゃねえ!」
「本当なんです。私が代わりになります。申し訳ございません」
ガン、と硬い音がし、シノが床に放り投げられる。だが、今は抱き起こすわけにいかず、ナツは髪を掴まれたまま、頭を床に押し付けるしかない。彼らの気持ちが少しでも収まることを願い、頭を抱えて土下座をするシノの代わりに、声を出して謝り続けるしかない。
「何をしている!」
低い怒声に、水を売ったように部屋の中が静まり返った。頭を下げているナツは、その声で老爺が帰ってきたのだと知った。
「痛かったわね……。本当に、ごめんなさい」
布団の上で二人に手当をしながら、老婆は涙を流して謝る。その度にナツはそんなことはないと否定し、シノも首を横に振った。彼の首には、元の通りに青い布が巻かれている。
額に小さな傷ができただけで済んだナツが、手にした氷のうを腫れた頬に当ててやると、シノは気持ちよさそうに目を細める。その唇についた血を拭い、老婆は二人の頭を優しく撫でて抱き寄せる。
「あいつらは、また馬鹿馬鹿しいことを」
すっかり優しさに満ちた部屋に、若者たちを追い出した老爺が憤りを露わにして入ってきた。幼い二人が邪な考えを持ってやって来たのだという、根も葉もない言いがかりを知り、怒りを抑えられないようだった。
そんな二人に、シノは静かに笑いかける。老婆には、心配しないでと、老爺には、怒らないでと、優しい笑顔を見せる。彼の笑顔が、今は救いだった。すぐ傍で息を潜めている絶望に背を向けるように、そんなシノを抱きしめ、ナツも笑って大丈夫だと言った。