雲行き 1
草地がかむる雪の上。老人たちが履かせてくれた藁靴で足跡を作りながら、ナツは木の足下にしゃがみ込む。根本を手のひらでそっと撫で、雪を払い、現れる茸の傘を見つけると、一つずつ丁寧に採集していく。木の枝を見つければ同じようにかごに詰め、立ち上がり、隣の木に移り、膝を折ることを繰り返す。
吐く息が白く立ち上り、晴れた冬の空へ細くなびくのを眺めながら、赤くなった掌を擦りあわせ、彼女はふと辺りを見回した。
「シノ!」
冬の森は、しんと静かだ。自分の声がこだまするのを聞きながら、ナツは木漏れ日を浴びて銀色に光る雪の上を目でなぞった。
「おーい! シノ! もう戻るぞ!」
太陽は真上で輝いている。見上げた視線を落として、向こうでちらちらと見え隠れする青色に、ナツは駆け寄った。軽い身体が雪に埋もれることはなく、彼女は兎のように跳ねることが出来た。
足音と声に気がついたのか、青いスカーフを巻いたシノもナツの姿を見つけたようだった。幾度も森へ散策に出かけている内に、シノは少しずつ彼女から離れて行動するようになった。くっつき合っていれば効率が悪いことは、彼も察することが出来たのだろう。不安も薄れていったのか、手分けをして食料を探すようになっていた。
だがやはり、ナツといるのが何より嬉しいことに変わりはない。シノはナツが呼んでそばに寄れば、この上ない喜びを露わにし、屈託のない笑顔でいつも抱きついた。ナツを呼ぶことの出来ない彼は、こうして気持ちを伝えるのだ。
「シノ、頑張ったな。頭に雪ついてるぞ」
ナツ、ナツという声のない呼び声を聞きながら、ナツは笑ってシノの髪に絡んでいる雪の欠片を払ってやる。
「ほら、これもずれてる。あんたどんだけ集中してたんだよ。それであんまり遠く行くなよ、あたしが見つけられなくなる。そんなの嫌だろ」
途端にシノは真剣な顔をして頷く。ナツは思わず笑みをこぼしながら、シノの首のスカーフが歪んでしまっているのを、屈んで直してやった。手に触れてくるシノの手は、小さくて温かい。主人の家では、凍える冬でも着るものに変わりはなかった。粗末な一枚の作業着だけで、冬は寒さのあまり手足がろくに動かなくなった。常に指先は真っ赤に腫れ、夜には、眠ってしまえば二度と目が覚めないのではという恐怖に襲われていた。だが二人の老人は、外で凍えないようにと、藁で出来た子ども用の防寒着を用意してくれた。だから今は、少しぐらい雪に触れてしもやけになっても、寒いとは思わない。小屋に帰ると、寒いだろう、痛いだろうと手足を囲炉裏で温めさせてくれる。だから、外で食料や薪を拾いに行くことを二人が辛いと思うことはなく、少しでも彼らの生活を楽に出来るのなら、笑ってくれるのなら、いくら働いても苦しいはずなどなかった。
「随分拾ったな。重くないか。少し、あたしのに移すか」
かごに手をやると、シノは笑顔で首を横に振った。大丈夫というように、小さく跳ねてみせる。そんな子どもらしい手と手をつなぎ、ナツとシノは帰り道を辿った。二人分の足跡が、溶け始めた雪の上に続いた。
木々を抜けた先、少し開けた場所に小屋はあった。周囲には土を均した畑があり、たくましく雪を押し上げる作物の葉が覗いている。
突然、ばんと大きな音を立てて戸が開いた。見知らぬ男が小屋から出てくるのに、畑の脇を歩いていた二人は思わず足を止め、身を固くした。若い男は機嫌が悪いのか、雪の上に唾を吐き、二人に気がつくと遠慮なくじろじろと全身を見回す。
怯えるシノを隠すようにナツは抱き寄せた。気の強い瞳を向けると、男はふっと鼻を鳴らし、何かに納得したのか、大股で二人の横を通り小屋から離れていった。
その姿が見えなくなってから、二人はそろそろと小屋に近づき、そっと戸を開けた。いつものようにおかえりと迎えてくれる老人たちは、二人の様子がいつもと異なるのに敏感に気がつき、教えてくれた。
先程の男は、彼らの息子だった。街に住んでいるのだが、仲間と冬の森に狩りに行くのに、この小屋を拠点として使うつもりだという話だった。それを二人が断ろうとすると、もう仲間には通した話なのだと勝手を言い始めたらしい。
老人二人であれば数日のことなら許しただろうが、今は幼い子どもが住んでいる。そこを穏やかではない者たちの住まいにすることを、二人は拒んだ。それぐらい言われなくとも、ナツとシノは察してしまった。
「あたしらなら、外にいたって、全然平気だから……。ひどい吹雪にならない限り、きっと死んだりしないし、吹雪になっても、鶏小屋を貸してもらえたら、大丈夫。屋根さえあれば、シノだって、耐えられる」
横にいるシノの頭を撫で、ナツは言った。シノも、こっくりと頷いて笑顔を見せる。
だが、そんな二人を見る老人たちは、眉を寄せて顔をしかめた。
「そんなわけにいかないだろう」
どこか怒りを秘めている老爺の声に、疑問を抱くナツとシノを、老婆が抱きしめた。濡れているのにと下がろうとしたが、離してくれない。
「ここに居ていいんだよ」
「だけど……」
「ナツ、シノ、あんたたちはね、傷ついていい子じゃないんだよ。辛いことが今までたくさんあったんだから、少しでも幸せにならないといけないの」
抱きしめられたままそう言われるが、ナツは頷くことができなかった。売られたことが傷つけられたことと繋がるのなら、それがいけないのなら、家族は飢え死にするしかなかったのだ。
「あたしは、傷ついてなんかない。みんな、仕方なかったんだ。こうするしかなかったんだ。だから、あたしはどうってことない」
ナツもシノも、一度全てを諦めていた。主人の家で働き続け、気まぐれに殺されたとしても、仕方のないものだと受け入れていた。だから、自分の痛みなど、考えなかったのだ。それはナツの隣にいるシノも同じで、いくら主人に殴られようが、首を絞められようが、一切抵抗しなかった姿が、その証拠だった。
「だが、仕方なければ、お前さんたちは死んでしまっていたんだろう」
抱きしめられる二人に、老爺が言う。それに困って、ナツとシノは顔を見合わせた。言われる通りだった。本当に身を任せ、死をも受け入れていれば、こんなに温かい場所など知ることもなかった。あのままナツは主人に殺され、シノは死ぬまで遊ばれて終わりだったのだ。
「それは……」
ナツは言葉を濁らせる。
「……きっと、あたし、頭、おかしかったんだ。逃げられるわけないのに、あの時、これが最後のチャンスだって思って……。朝になったら、あたし、殺されるから……行くところなんて、ないのに……」
自分でも整理のつかない想いを取りとめなく零すナツを、シノがぎゅっと抱きしめた。シノは、ふるふると首を横に振っていた。小さく開いた口は彼の思いを伝えることはないが、ナツにしがみつくシノは、何かを懸命に訴えようとしている。シノの小さな手は、ナツが殺されてしまうことを知ってしまったあの夜のように、ナツの服を強く強く握り締めている。
「シノ……」
呟くナツの頭を、老爺のごつごつとした温かな手のひらが撫でた。
「前も言っただろう、死から逃げるのは間違ったことではない。生まれたんだからな。当てがなくとも、追われたとしても、生き延びないといけないんだ。……二人は、もっと子どもらしく甘えることを覚えないとな」
抱きしめられ、頭を撫でられ、すぐ傍らにはシノがいる。寒くもない、痛くもない、そのはずなのに、ナツの胸は苦しさを覚えた。温かいのに、何故胸の奥がこんなに熱くなるのか分からない。
これが幸せという感情であることに、ナツは気がついた。見下ろしたシノが、どういう表情を見せればいいのか教えてくれる通り、ナツは頬を上げて二人に笑顔を見せた。