その後の結
埋葬されている人たちを思いながら
結が古墳時代を体験してから、10年の月日がたった。結は大学の研究員になっていた。大学では歴史と医療の両方を勉強したくて、古病理学を専攻した。
「古病理学は日本ではあまりなじみのない研究分野ですが、大変興味深く重要な研究です。」
結は学会誌のインタビューでそう答える。
彼女は、アメリカの大学で学位をとった世界的な古病理学の権威、鈴木教授の指導を受けた。こうした指導の下、卒業論文から博士論文までを10年かけて執筆し、学内外でも表彰されるほどの濃い中身のものを結は仕上げることができた。
そして結はいま、英明大学人文学部文理学系研究科の古病理研究室に席を置くポスドクの研究員である。ポスドクの研究員というのは、博士号を所得したドクター(博士)その後、ポスト・ドクターのことを意味している。
もともと就職先となるポストが圧倒的に少なく、博士号をとっても特殊な業界のため、すぐに就職できるというわけではない。そのため文部科学省が、こうした学生が確固とした研究職を得ることができるよう、3年間、後押しをしてくれる制度のことをポスドクといっている。
古病理学とは、病理学に「古い」の一文字を加えただけのように思えるかもしれない。しかしこれは、病理学とは全く違うものと言っていいだろう。なんといっても、古病理学では、患者である人間はもうすでに亡くなっており、かれらを治すことを目的としていないし、大概の場合、研究対象となる患者は骨のみになっており、この種の研究の難しさとなっている。
骨のみ・・・人体の組織のほんの数パーセントにすぎないこの組織に病変として提示されたものを観察し、この骨病変を手掛かりに、過去の人間の生きた姿、生活、社会様相を探っていく。
「古病理学でいうところの結核に特有の所見は背骨に見られます。ただ患者さんが結核という病気にかかってすぐ死んでしまったら、骨病変としての所見は残されず、その人物が結核であったかどうか知ることはできないということになります」
と、結の指導教官である鈴木教授は語る。
(日子人の父は結核だったが、埋葬された彼の骨はどのくらい残っているのだろうか。)
結は、いつか金鈴塚古墳の調査をしてみたいと思っていた。
被葬者を考えるー古墳の調査を実施
そんな矢先、郷土の歴史展示と題したミニ展示コーナーが市内のスーパー一階の一角でこじんまりと実施されていた。
「金鈴塚古墳から出土している資料には、様々なものがある」
次のパネルに目をやると、
「被葬者との関係についても考察が進められている」
と書かれてあった。
(被葬者についてか・・・。骨の鑑定とかなぁ)
と結は思った。
別のパネルには
「金鈴塚古墳には4人の被葬者が埋葬されていたことがわかりました」とあった。
(一人目は日子人の祖父、二人目は日子人の父だ。では、3人目と4人目は?)
奥壁部分の被葬者の人骨は既に博物館に収蔵されており、年齢と性別が明らかにされていた。
すなわち歯のすり減り具合などからみて成人男性で大体40歳くらいと推定されている。この人物は日子人の祖父に当たる。
そして二人目は石棺に入っていた人物、ヤマト道田毛。そして、羨道(石室の入口に近いところ)付近に2体埋葬されている。
(3人目は日子人、そして4人目は日子人の奥さんの麻織かも。二人には子供はいなかったのかな。4人目の被葬者のあと、埋葬される(追葬)者はなかったのだろうか。)
翌日、学芸員をしている叔父からもらったメール
「石室内の人骨を取り上げることになりました。その作業に関われると思います。」
結は飛び上がった。
(でも古墳の骨は残りが悪いからな・・・どうだろう。)
6世紀に相当する人骨資料は遺跡からほとんど出土しない。これは遺存するための保存環境が整っていないことによるのだが、古墳から出土する骨の多くは小さな骨片にすぎない。
大学を通して木更津市から正式に調査を依頼された結は翌週、古墳に行くことになった。今回の様に、金鈴塚古墳といった日本全国でも有数な古墳から出土している被葬者の鑑定結果には研究者をはじめ、多くの人の目が注がれる。そのため、調査する結の気持ちも引き締まる。
石室に人が入るのは何十年ぶりだろう。昭和時代に石室前に設置された鉄の格子扉のドアを開けた。もっとも今回の場合、石室に入るといっても、いつも石室は開口した状態なのでだれでも見学できるようにはなっている。そのため落ち葉や小さいゴミなど本来中にないはずのものが様々、石室内には侵入していた。
「まず石室内のクリーニングを簡単にやりましょう。遺物に細心の注意を払うのはいうまでもないことですが、このままでは古墳時代の資料にたどりつくまでに相当時間がかかります・・・。」と結は、手順を説明した。
発掘調査は60年ほどまえに数回実施されている。が、現地に残っている人骨を取上げるための調査はなされてこなかった。
石棺の奥や石棺及び羨道部に埋葬されていた被葬者の人骨はすべて取り上げられていた。とりあえず確認はしたもののここからは何もでてこない。そして金の鈴ももうここにはなかった。
石棺の西側からには、破片状態の骨片があった。被葬者である人骨は、古病理学者にとっては重要な研究資料である。しかし、被葬者は同時にご遺体であるため、結は改めて手をあわせ
(これから作業に入らせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。)
心の中でつぶやいた。人骨を鑑定する研究者にとって、この作業は重要である。
遺存状態は良好ではなかったが、体の各部位のいくつかを石室内で取り上げることができそうだ。
出土地点の確認をした後、人骨の位置確認のため、図面を作成する。これは考古学でいうところの発掘現場での出土状態図であるが、古病理学でも同様の作業をする。
どの位置にどの部位の骨が配されているのかを正確に記録していく。そして、写真をとって、ひとつずつの骨を取り上げていく。骨の取上げ、この作業も慎重に行われる。骨の強度は部位によっても異なるため、見た目固そうに見えても、実は非常にもろく、注意深く作業をしないと骨を壊してしまう可能性がある。
そして破損によって形が失われた骨の形を復元することは非常に難しいので、作業は慎重に実施されていく。
また発掘により出土する人骨の多くは湿った状態で出てくる。この湿気を逃がすため、やや固めの吸湿性のある紙に骨をくるんでいく。こうした作業を部位ごとに繰り返していく。
(そうか。これはやはり日子人だ。きちんと固定したはずなのに右腕は、わずかに変形治癒している。あれからご苦労なされたであろう。申し訳ない。)結は涙ぐみ、改めて思った。
作業開始から5時間。日子人と思われる人骨の取上げが終了した。湿度の高い石室内で一仕事を終えた結は汗だくになって出てきた。数体の被葬者の内、今回は石棺外に埋葬されていた被葬者を鑑定する。
そうである、これから日子人の鑑定をするのである。地点ごとに丁寧に取り上げられたそれぞれの人骨は、じっくりと鑑定する必要があるため、博物館に持ち帰り研究することとなった。
室内に持ち帰った被葬者は
出土人骨の調査はかなりの時間をかけてじっくり行う必要がある。もちろん発掘調査により出土する他の資料も同様であるが、人骨に関しては、研究者の数が極めて少ないため、調査はなかなか進まない。
そのためまだ非常勤の立場である結のような研究者の卵にもこうした貴重な資料に携われる機会は与えられている。結にとっては自分が現場を指揮して、研究者として世に出る初めての大きな仕事となる。ましてや対象となる人物があの倭一族とあっては感無量である。
石室から取り上げた人骨は土まみれになっていた。そのため、まずこうした土おとしから実施していく。といっても骨は意外にもろいものなので、緻密質という骨の一番外側の部分を破壊しないように丁寧に筆で汚れを落としていく。
この作業はとても根気のいるもので、このクリーニング作業が終了したら、人骨鑑定のほぼ70%が終了したといってもよい。クリーニングの後は、取上げた資料が人体のどの部分に当たるのかをみていく部位同定を実施する。
(これが上腕骨の骨頭の部分で、こちらの左骨幹部と接合できそうだから、ここに置いておこう。)
考えながら作業を進めていく。
「鈴守さん、気合入ってるなぁ。」研究室のメンバーは結の仕事ぶりに感心していた。
それもそのはず、結はまさに寝食を忘れてこの作業に打ち込んでいた。
接合して完全な骨の形にするまでには、さまざまな作業も並行して実施していかなければならない。例えば欠損部位を補う補てん作業。博物館に収蔵されている人骨をみれば一目瞭然だが、完全な状態で遺跡から出土する骨というのはほとんどない。普通はどこかが欠けているのであるから。
そのため、ないところ、すなわち欠損部位を補てんすべく、他の溶材で作りこんで、これ以上破損しないように補強する。そしてこうして補強した資料は、展示もしやすくなるため、一般の人の目に触れることも多くなる。人骨というのはなぜか不思議な魅力がある。そのため、意外にも一般人の興味をひくため、こうした資料を展示することによって教育普及活動が可能となり、社会貢献もできるというわけだ。
そしてこのようなある程度の形をなした人骨をくまなく観察していく。そして大体どのくらいの年齢なのか、性別は男か女か、背の高さはどのくらいなのかといったことを調べていき、記録する。
今回の場合は、身長約160㎝、40歳くらいの男性個体ということになった。
(日子人は、あれから数十年生きていたのか。)結は思った。
そして最後に骨病変の観察となる。壮年個体とみなされるこの人物の肋骨にはぶつぶつと針で刺したような孔が無数に空いており、骨多孔性変化が観察される。また背骨にいたっては、体重を支える椎体の部分が一部つぶれて癒合している。
このように椎体がつぶれているのは、ここに結核菌が浸入し、膿んで癒合したことを示している。そして、これが結核特有の所見となる。そのためここまで骨に痕跡が残るためには、この人物が数年にわたって結核を患っていたことを示している。
「こんなに椎体がつぶれてしまっている。日子人は、結核だったのか。」
結はまた遺体に手を合わせた。よく知る人物を鑑定するのはやはりつらいことであった。それは、いつもは研究対象の資料としてみられる人骨が「ご遺体」であることを痛感させられたからでもあった。この人物は、他の副葬品同様、博物館に収蔵されることになっている。そして将来的には展示されるとのことだ。
だが、結は日子人を展示するのにはどうしても抵抗があった。よく知っている人物だけに今回の人骨を資料として見ることが難しかったのである。例えて見れば、
(従弟が展示されるような気分だ。)と結は思ったのである。複雑な思いを持ち、日子人の遺体展示には、いろいろな意味で結は反対の意見をもっていた。
旅立つ結
3月のとある日曜日、結と麗華は博物館&美術館の4館巡りをした。木更津にも博物館や美術館はあるが、やはり特別展の良いものは東京まで足をのばさないとダメなのだ。そのため、市内の福祉施設でゲットした招待券と割引券を片手に二人は大体月2回のペースで博物館と美術館をはしごして回る。
今日は、根津美術館・出光美術館・東京国立博物館・国立西洋美術館を見て回った。早朝から夕方まで二人は歩き回って、くたくたになって木更津駅にたどり着いた。そして今結と麗華の二人は駅前のカフェ土曜舎でお茶をのんでいる。
「これからどうするの?」
「この3月で大学の任期が終わるからね、どうしようかなとは思っているよ。」
結の仕事は3年間の任期付きであった。そのため今年3月でポスドクの任期を終え、結は大学を去らなければならない。そして新しい仕事を見つけなればならない。
「実はね、ロンドンの博物館にいこうかと思ってるの」
紅茶と一緒に注文したパンプキンパイを食べながら言った。
「イギリスの?」
「そう。」
「そこで、何するの?」
「博物館に収蔵されている人骨を鑑定して、18世紀、日本だと江戸時代だけど、そのころロンドンでどんな病気があったかを調べるんだよ。」
「おもしろそうだね、がんばって」
「ありがとう。」
「でも遠いね、しばらくあえなくなっちゃう。寂しいな。どのくらい行くの?」
「とりあえず1年。そのあとのことはわからないんだけどね。」
結は、キーホルダーの鈴をみつめながら言った。
「そうかぁ。大変だろうけど、応援するよ。」
「ありがとう。麗華はCMに出ること決まったんでしょ。」
「うん、オーディションあって、受かったんだ。」
二人はお互いの将来を応援し「お互い頑張ろう。」といって別れた。
木更津に越してきたとき、結はここの町がじつのところ、好きではなかった。父の気まぐれにつき合わされ、
(なんでこんなところに・・・。)と思っていたし、ここは本当にただの田舎でつまらないと思っていたからである。
しかし、今は違う。日子人と出会って、ここがただの田舎ではないことを知った。そしてただの田舎なんてこの世にはないのだということもわかってきた。どこの土地にもさまざまな歴史があり、そこから何かを学ぶことができるのだから・・・おそしてそれがどんなにすばらしいことかを結は今は理解している。
結が小櫃川沿いのとある神社で何気なく拾った鈴。これが日子人と結をつなげてくれたのは間違いない。
「この鈴は大友皇子がこの上総に逃れてきたときに身に付けていた衣服の一部につけていたものによく似ているよ。皇子は妻である十市皇女と共に壬申の乱のあと、こちらに来ていたのだ。」先日、父は鈴を見ながらしみじみ言った。
(なぜ父がそんなことを知っているのだろう。)と結は思ったが、父はさらにこう言った。
「鈴というのは不思議なものだね。神秘的でさえある。」
鈴は時間を超えるのだろうか。古代の世界で暮らしたほんの数か月の時間は、結のとって特別なものである。
そして、結は、古代へのタイムスリップを通して、過去の社会に興味を持ち、もっといろいろなことを知りたいと思うようになった。
半月後、結は木更津をあとにしてロンドンへと旅立つため、羽田空港の国際線ターミナルに来ていた。結はここで父とお茶を飲んでいた。
「あっちはなんでもカロリーが高いから、食いすぎるなよ。アッという間に太って誰だかわからなくなるぞ。」
からかいながら父はいった。
「いやだぁー」
結はしばらく会えなくなる父の寂しい気持ちを察しながら、こう返すと父は続けて
「それからな、さっきおばあちゃんから電話あって、今日は講習会あるから空港いけないっていってたぞ。」
いった。
「そう。私のとこにもメール来てたよ。」
最近ヨガインストラクターの資格をとった祖母は、何かと忙しく、結たちにチャチャをいれにくる時間が少なくなったようだ。しかし心配はしているので、連絡だけは欠かさない。そして空港にいる二人は、ふざけてはいるが、このほか何かを話す気にもなれず、二人とも同じように切なく、やや悲しい気持ちでいっぱいだった。そうこうしているうちに、ボーディング・タイムもせまってきたので
「そろそろ行くよ。」としばしの別れを告げると、
父は「がんばってこいよ。」背中を押してくれた。
結は大きく頷いた。
これからまた新しい何かを過去から学べることに胸を躍らせながら、結は行く。
そして今、結を乗せた飛行機は離陸して、一路イギリスはロンドンへと旅立った。
「結様、明日の出立ははようございます。どうぞ今宵は早くお休みくださいませ。」
*****帰ってきた結:
川勝について、調として望陀布(落葉樹である科木の皮で折った布)を持参し、帰りは鏡や大刀を持って帰ってきた。
持ち帰ってきたものの中でも、鏡には特別な意味があり、中国と中央の倭王権とのつながりを示すものであった。今回、倭道田毛には、倭王権から三神五獣鏡という鏡が下賜されている。道田毛の館に帰郷の報告をしにいき、都でのごたごたを話すと
「ふむ、それは大変だったな。」
と道田毛はねぎらいの言葉をかけてくれた。実際、道田毛は結の報告よりも先に、都からの駅馬によって、おおよその次第は既に理解していたが、初めて聞くかのように熱心に聞いてくれた。すると、日子人がそこへやってきた。
「結、待ちかねたぞ、ようやく戻ったな。」
結がいなくてどうやら日子人は少し寂しかったようだ。