考察中の部分
儀式では
この時代の豪族の墓である古墳には、実に様々なものが副葬されている。
古墳は葬式という儀式を行う場所なので、祭祀的な要素をもつ鏡などが入れられていることには納得できるだろう。しかし、その多くは普段お墓に埋葬される人物と共にある時期を過ごした物なのである。
例えば大刀。古墳時代の大刀は、実は長いほうが格上とされており、加えて装飾性も重視されていた。
東日本では装飾大刀(飾り大刀)と呼ばれる美しい大刀が多く出土しているが、これは当時でも特別な時にだけ使用する刀である。すなわち、これらは様々な儀式などの際に佩用することによって、自らの地位を内外に示すものだった。
ちなみに、考古学者は、この装飾太刀を、その装飾性によって大きく二つ分けている。
すなわち、古墳時代より前の弥生時代からの伝統的な大刀と朝鮮半島で作られ力の強い豪族によって日本列島に持ち込まれた外国製の大刀である。要するに国産と外国製の2つがあったということになる。
このうち外国製の大刀は、6世紀になると日本国内でも作られるようになり、こうした国内産の大刀を、大和政権は、地方の豪族に対し、彼らが中央政権の支配下にあることを内外に示すため、ひんぱんに配っていた。
そのため、この装飾大刀を見れば、その人物がどのくらいの勢力と地位をもっているか、どういった功績があるのかといったことまでわかるのだ。
今回、西から、使者・秦川勝が来たため、会見に際し、倭道田毛は、さまざまな大刀を身に付ける。
(道田毛さまが身に付けているのは、単鳳環頭大刀という、朝鮮半島製の大刀と、在来のデザインの頭椎大刀だ。そして左の従者には銀装鶏頭大刀と金銅装圭頭大刀という装飾大刀を持たせている。)
よくみると大刀の柄の部分には装飾が施されている。
(大刀の柄頭と呼ばれる個所には、透かしなどの飾りが取り付けられていて、この部分のデザインはそのまま大刀の名称となっている。例えば、単鳳環頭大刀は、柄頭に鳳凰の飾りがとりつけられていて、鶏頭大刀では柄頭の形状が鶏の羽の形になっているし。それに圭頭太刀は、柄頭の形が中国の玉器の圭に似ていることからこうした名前がつけられているんだったけな。)
このように複数の太刀を持っているということは、この倭道田毛が多くの役職を兼ね備えており、その職を中央政府にも認められているということを示していた。
川勝と道田毛の会見は、言うならば、内閣総理大臣からの特使と、県知事と県警トップの役職に博物館の館長といったいくつかの役職を兼ね備えた人物の会見に近いのである。また、このように大刀の佩用の仕方によって、その人物の勢力を認識させることができた。
そして、この日、日子人はというと、金銅装の倭装大刀のみを佩用している。
(大刀の材質は金銅製のもの(銅に鍍金したもの)より、銀製のもののほうが格上だ。そして倭製の大刀は外国製のものよりその造りがよくないとみなされるし。こうしたことから、まだまだ、日子人の勢力が道田毛には及ばないことがわかるな。)
このほか、倭道田毛の帯にはいくつもの鈴が取り付けられており、そこに、鈴を好んだ、東国の豪族らしさも感じられた。古墳の調査をすればわかることだが、鈴は東日本の豪族が持つことが多かった。
(豪華できれいだなあ)結は、鈴と大刀のきらめきに目を奪われた。
博物館に展示してある遺物は、どれもさびて古びている。っともその古びた感がいいのでもあるが、金メッキしたそのままの状態だとこんなにも美しいことを今、結は確認した。
またこの当時は、移動手段の一つである馬も、大刀同様、権力の象徴であった。
すなわち馬と共に用いられていた馬具なども、大刀に類する役目を果たしており、馬にどのような馬具をつけているかによって、大刀ほどではないにしても、その人物がどういう人物なのかをある程度知ることができた。
倭道田毛の場合、馬にとりつけている一つ一つの馬具に統一性があり、デザインも色みもそろっている。そしてその意匠は朝鮮半島由来のものであり、地方に暮らす豪族の誰もが持てるというものではない。
行列の馬具をみていたゆいは、日子人の馬の装具をみて、(あ、あれは花形の鏡板付轡と杏葉だ。)
とつぶやいた
日子人の馬に取り付けられた馬具は、外形が花のかたちをしたもので、きんぴかに輝いてはいたものの、それ自体は、地方豪族が普通に持っている、いわばありがちなタイプのものであった。このように、馬具をみても、日子人はこの地方を治めていく次期後継者とみなされているものの、その力は父には及ばないことがわかるのだった。
結、西へ
明朝、まだ暗いうちから結は秦川勝一行とかずさの地を立った。明るいうちはすべて移動時間にあてるため少しの時間も無駄にしたくないのである。松明を手にした道田毛の臣下のものを伴って、海辺へと向かった。
ここは、結がかずさの古代にやってきたまさにあの場所であった。海辺には3艘の舟が用意されており、水先案内のものを先頭に結と伴の者、川勝と伴の者、荷と伴の者が分かれて乗り込んだ。
走水を通って、海を横断している途中、だんだん夜が明けてきた。そして、地平線のかなたに美しい朝焼けを見ることができた。
「結どの、あちらにみえるのは不二の山ですな。なんと美しいことか。」
川勝が大きな声で言った。
「ほんとうです、素晴らしいです。」
と結も川勝にこたえつつ、
(不二の山か。富士山はアクアライン通るときに何度も見ているけど、違うな。角度が違うからか、空気が澄んでいるからか、美しすぎて神々しい。)と結は感動していた。
風向きがよかったため、対岸まで舟はするすると進んでいった。
(8時間くらいかかったかな。)
舟が岸につくと、2頭の馬が用意されていた。そして馬と一緒に岩磯と海根が結たちを待っていた。馬を用意してくれたのは、この2人だったのである。
「また会えるなんて・・・。うれしいわ。」
「結様のお役に立てて、こちらこそ恐悦至極に存じます。」
二人は深々と頭を下げた。
盗賊などに襲われることもあるから、旅の一行は3~5人以上が常とされていた。今回は、武器を持たせた屈強な男を2人ずつ前後に従え、調や食料などの荷物持つ者4人、そして秦川勝と結は馬にまたがり、一路大和をめざす。
ここ相の国からはひたすら陸路となる。ここでは、総の国で見た小道よりも、数倍大きな道を進む。が、大きい道といっても軽自動車が一台ぎりぎり通れるか通れないかぐらいの道路であり、付き固めてあるわけでもない。そのため、いったん雨が降るとぬかるんで、一行の足を遅くすることもあった。
さらに西へ
6世紀後半の旅は、基本陸路で徒歩と馬でということになる。そのため、総の国から大和まで日にして約20を要する。一日の三分の一の時間をあて、約1里(40km)を歩き、足を進めていくこととなる。そして、古代の旅では宿をとることがままならないことが多く、コメなどの食料を持ち、野営しながら旅をする。
初秋とはいえ、夜半は冷え込む。そのため、洞窟や洞穴などを探して、寝ずの番の者を2名たてて、結たちは休む。多めに持たせてもらった着替えは夜には寝具となり、手足の冷えをやわらげた。やぶ蚊に悩まされることも多く、結は21世紀から持ってきた携帯アロマスプレーをまいてから休むようにしていた。今宵も休む前にシューシューしていると川勝が
「それはハッカのにおいだな。薬剤として使っているのか?」
と聞いてきた。そのため結は
「ハッカ、ペパーミントともいいますが、これには虫を殺す作用があるのですよ。」
「そうなのか。そなたは実にさまざまな知恵を持っておるのだな。薬師とはいえ、実に不思議だ。大陸から来た渡来の者とはまた違った知恵だな。本当に不思議だ。」といいながら感心していた。
ハッカは歴史上もっとも古い栽培植物の一つであり、3500年前には既に生薬として使用されていた。日本にも大陸から早い段階で伝わっていたが、山菜やお茶として使われることのほうが多かった。
一行は、相の国から、遠淡海に足を踏み入れた。岩磯と海根は、ここまで結たちを送ってくれて
「道中お気をつけて。」
と言って、別れを告げた。遠淡海から盧原へ、次いで、草薙、焼津へと足を踏み入れることとなった。倭尊が東征に赴いた際にだまし討ちにあい、草薙剣で草を薙ぎ払ったことからこの地を草薙、そして賊たちを焼き払った野原を焼津と呼ぶようになったこれらの地に結は来ている。
(ここがそうか。広~い広場だけど、神話の世界の一つなんだな。)
遠江の温暖な気候では作物が豊かに実り、人々の生活も豊かなようであった。
(上総とはまた違った穏やかさがあるな。)
「結さま、おつかれでしょう。水を汲んでまいりましたので、どうぞ。」
と供の者が坏に入った水を結に差し出した。
「ありがとうございます。」
と受け取って、みると水は少し濁っていた。そのため結は、
「これはろ過してから飲みましょう。またろ過したあと、一度ぐつぐつさせたほうがいい。」
といった。近くの人家から道具を一式借りてきて、結は濁った水をろ過して、一度沸かした。それを見ていた川勝は
「なんと、このようなこともできるのか。」
と感心した。川勝は、知恵者として大王に結を引き合わせたいと思って、西に連れていくことにしたのだが、
「これはとてつもなく、頼もしい味方ができたのかもしれない。」と独り言を言った。
このたびの上総への旅では、川勝は大王から特別に頼まれたことがあった。すなわち、上総の豪族をとりまとめて大王の目指す親政を支持させ、何かあった時は東国から兵を都に送る…という役目をも担っていた。そして今回の上総の視察は、これが本当の目的だったのである。
馬子の刺客
三河から尾張へと進み、いよいよ伊勢の国にさしかかろうとしたとき、たたきつけるような激しい雨が降ってきた。
「今宵、野営は無理だ。何かあったときにと、前から頼んであった尾張の国造の館で一夜をお願いするとしよう。」
ぬかる道を進み、なんとか一行は館の前までやってきた。
(尾張の国造は中央政権と強いパイプで結ばれていたから、何かと頼りになるんだろうな。)
「川勝様でいらっしゃいますか?」
門の前に立っている者がたずねたので
「そうだ、大王の使いで東へ行ってこれから帰るところだ。今宵の宿をお願いしたい。」
と答えた。
敷地内に足を踏み入れると、そこが、道田毛の館に類する造りの豪族巨館であることがわかった。奥の建物の扉が開いて、中からでてきた館の主が
「ようこそいらっしゃいました。お疲れでしょう。今宵はゆるりとおくつろぎください。まず、雨露を払い、冷えた体をあたためてください。」と述べた。
疲れ切っているため、結たちはとにかく休みたかった。雨に濡れた体では、体温が急に下がり、体力を消耗してしまう。館の主との挨拶もそこそこに、与えられた1棟にどっしりと腰を下ろした。
「ひとここちつきましたね、川勝様。」
「そうだな、今宵はゆっくりできそうだな。」
白湯がでてきたので、二人で飲みながらしばらく談笑した。あたりのすべての音がかき消されるように雨は激しく降っている。しばらくすると日が暮れて、あたりはすっかり暗くなった。
「館に入ったな。では今宵、決行するぞ。大臣?さまのために。」
暗闇にまぎれて館に忍び込んだ廣人は、つぶやいた。蘇我馬子が放った刺客であるこの廣人、彼は馬子配下の秘密工作集団の長で、小康を殺す命令を受けていた。
「少し戸を開けてもよろしいでしょうか、川勝様。」
「かまわないぞ。外の様子もみたいしな。おぉーもうすっかり日が暮れてしまって、夜のとばりがすっかりおりておる。」
そのときである、闇にまぎれて矢が数本飛んできた。廣人が放った矢だ。
「なにやつ、私を大王の使い、秦川勝としってのことか!」
「ご主人様、あちらの茂みから何者かが矢を放ってきております。危険です、中にお入りください。」
と供の者が急ぎはせ参じいった。
「必ず仕留めてやる。」
と廣人の放った矢が伴の者の足にあたった。
「あーお前を射るために矢はなったのではない。どけ、狙いは川勝なのだ。」
結と川勝は、室内に逃げ込んだ。そして戸をすこしばかり開けて、矢を放とうと結は、弓に矢をつがえた。
「そなた、そのような細腕で弓ができるのか・・・。」
と川勝は驚いたが、驚くや否や結は、矢を放った。そしてその矢は、廣人の腕に命中した。
(がさがさと動く気配のある方角を定めて、やってみたけど、手ごたえはあったみたい。)
「結さま、茂みの中に潜んでいた者が逃げていきます。」
伴の者が言うや否や、茂みに隠れていた廣人は
「ちっ、とりあえず今宵はひきあげよう、なんだ、あのひょろひょろした女みたいなやつは・・」
とつぶやきながら去っていった。
「大事ないですか?申し訳ございません、このような事態が我が館でおきるとは。それにしても何やつでしょうか。」
屋敷の主がやってきて言った。
そしてあたりにうち放たれた弓矢をみて結は(古墳時代には戦闘用として細い鏃を使っている。そしてこれもそうだ。)と思った。
「結どの、そなた、何者なのだ。そなたはいつも私を驚かす。そして今宵も。それに感謝してもしきれない。」
川勝は、もともと結に興味があった。だが今回の旅で彼にとって結は特別な存在になっていった。
伊勢の国に到着
尾張の地をあとに、一行はいよいよ伊勢へと足を踏み入れた。
伊勢の地には古くから社があったが、これが伊勢神宮と呼ばれるようになったのは6世紀後半以降のことだ。そしてこの社が現在のようなものになったのは式年遷宮のしきたりが定められた時期、すなわち7世紀をまたなければならない。今ここにあるのは後の伊勢神宮の前身となる社だ。
(内宮と外宮は建設時期が異なるんだったな。今あるのは内宮と外宮の前身となる建物のようだな。)
質素な建物は、小ぶりで敷地面積も21世紀ほどなかった。しかし、境内に足を踏み入れると神聖な空気でピリピリと体が引き締まるのを感じた。
(厳粛な場とはこういうところのことをいうんだろうな)と結は思った。
大王と関係の深い一族がここを祀るために住んでいる。
「ここ伊勢もすばらしいところであろう、結どの。」
「はい、川勝様。」
伊勢神宮の内宮には、太陽を神格化した天照大御神が祀られている。が、当初のお祀りの場はここではなく、大王の住まう大和の地に疫病平癒を祈願して祀られていたのである。そして、この少しあと、外宮に食べ物をつかさどる豊受大御神が祀られる。いずれにせよ内宮・外宮には祀られているのは女性の神様だ。そして、今、建物の中から出てきた人物も女性であった。
「わたしは長嶺と申します。長旅でおつかれでしょう。」
(斎宮の制度はまだきちんとしたものではなかったのだろうけど、この人は祭祀をつかさどる女性なんだな。)結は思った。
伊勢の地は、大和からやや離れてはいるが、重要な場の一つであり、ここは中央政権と密接な関係にある。これは、この地が、6世紀の終わりごろから進められた大和政権の水陸両方の伊賀から三河を結ぶ交通のおける要衝となっていたからだ。
(6世紀後半には、外宮の裏山には高倉山古墳が造営されているし・・・。)
そして、伊勢にある高倉山古墳の主体部すなわち埋葬施設は伊勢地方最大の規模を誇っており、実際、外宮の裏山に造営されたことから大和政権の影響がかなり強かったと考えられている。
(何に使ったかよくわからないけど、脚付短頸壺は、東海の西部でしか出土しないし、この遺物が古代の官道沿いの古墳に限って出土しているのもやはり大和との関係性を強く反映してのことなんだろう。)と結は思い、改めて大和政権とこれに近い地方豪族との関係について考えた。そして伊勢神宮で長嶺と一緒に結たちは、ここまで安全に旅ができたことを、心から感謝し、お参りをすませ、再び歩き出した。
救われた廣人
川勝をなきものにしようと一行の後をつけていた廣人であったが、なかなか機会に恵まれないでいた。廣人は、隠密にことをなすため、黒装束に身を包み、眼だけをあけた頭巾をかぶり、人目を忍ぶ任務に就いていた。彼は、幼き頃、伊賀の盗賊の一味に拾われそこで育った。そして身を立てるため10数年かけて、武芸をひととおり習得。金のために人を殺すこともあった。そして今回の任務は蘇我馬子じきじきのものであり、失敗は許されなかった。
川で水をあび、「先日はしくじった。今宵こそは・・・。」泉に湧き出る水を飲みながらつぶやいた。しかし、この水を飲んでしばらくすると、廣人はばったりその場に倒れてしまった。刺客として川勝たちを付け狙っていたのも関わらず、しくじり過労ため、廣人は、自分でも信じられないくらいの疲労をため込んでいた。
熱にうなされ、廣人の頭の中は、ぐるぐるした。そして、おさないころ亡くなった母に抱かれ、とてもよいきもちになっている夢をみていた。熱がひくのに2日ほどを要した。そして起き上がるとそこにはなんと結がいた。
(なんだ、こいつ。なぜ俺を助ける。)廣人は思った。すると
「旅の男の様子はどうだ?」
と川勝が枕元にやってきた。
(川勝!!こんなに近くにいるとは。すぐにでも息の根をとめてやる。)と廣人は思った。だが
「熱がたかかったのですが、下がりました。」
結の言葉で刺客としての使命を失いそうになった。
「俺を助けたのか?なぜだ。」
「過労ですね。倒れていたからですよ。それに私は薬師ですから。私たちはいきますが、もう大丈夫です。」と結は笑った。
「ではまいるとしよう。」
川勝の言葉とともに結ほか旅の一行はさっていった。
「なんだ、あいつ。あれでも男か。女みたいだ。それにあいつ、俺を看病したのか。俺を助けた・・・。なんなんだ。」廣人は結に対して今まで抱いたことのない不思議な感情がでてくるのを感じた。そして額に触れた結の手が柔らかく優しかったのをおもいだしていた。
都に到着
かずさを出発して30の日を数えるころ、ようやく結たちは大和の盆地へとやってきた。
「あの山の向こうが都だ」
川勝は馬にまたがったまま、西の方角を指さした。
(この山を登るのか。標高230mくらいだろうか。おばあちゃんちの近くにあった京都の松ヶ崎の山くらいかな。)
小高い山を登って降りる途中、結は足をとめた。
(おーこれが都なんだ。)
盆地に広がる豪族巨館の数々。高さの高い建物がないため、都の様子を一望することができた。山ぶかい大和の地は、古墳時代も変わらず緑に満ちていた。だが、現代とのいちばんの違いは、当時、この土地が日本の中心であり、最も人口が多かったということ、そして、この地方には、豪族居館と呼ばれる、塀で囲まれた宮殿のような建物が複数あったこと、などであった。そして居館は、有力氏族の支配する地域ごとに建てられていたが、この中でも、もっとも大きいのが、大王の住む倉橋の柴垣の宮となる。
「川勝様、あちらの大きな館が大王のお住まいとなりますか?」
「そうだ。大王はあちらでそなたが来るのを待っておられる。では急ぐとしよう。」
山を下りて、都大路を進んでいく。調を持ちかえり、進む大王の使者一行に都の人々も注目しているようだ。
「大王のお使いを終えて、東からもどられたのだ。」
「横にいる男はいずれのクニのお方だろうか。ずいぶん美しいし、まるで女のようだ。」
結のことを不思議に思っている輩もちらほらいるようだった。
(パレードみたいで緊張するな。私もすごいみんなからがん見されてるし。)
一行はさらに足を進め、しばらくすると川勝の館にたどり着いた。
「ご主人様、無事のお戻りなによりです。」
館の前にいた者たちが深々と頭を下げた。
「うむ。今回はいろいろとあった。大王にお目にかかって、報告しなければ。そして、こちらが伝令にて先に知らせておいた結だ。」
「結様、おつかれでございましょう。どうぞ、こちらへ。」
ここで、まず旅の疲れをいやす。川勝の館は、道田毛の館に類するものであり、結は、館内の1棟を与えられ、ここで寝泊まりすることとなった。
「竹屋守と申します。結様、都にいらっしゃる間は、わたくしが結様のお世話をさせていただきます。何なりとお申し付けください。」
年のころは16.7の少年がこう言って、頭を下げた。
「お疲れでしょう。今宵は明日に備えて早めにお休みください。」
「ありがとう。」
結は恐縮しつつ(しっかりしてるなぁ。私とたぶん年かわらないんだろうに。)と感心した。
この地は、6世紀の政治、経済、文化の中心地であり、ここには大王とその近臣たちの住まいがあった。
(明日行くのは古代の皇居なんだね…。以前、正月の一般参賀の際に遠目で天皇陛下のことを拝見したけど…)
結は東京に住んでいたころ何回か父に連れられて、皇居に足を運んだことがあった。
その際訪れた皇居は、東京都内とは思えない緑豊かで、素晴らしいたたずまいだったことを思い出していた。
(大王にお目にかかれるなんて…。それにしても、ここは人が多いね。建物の数も段違いだ)
大王と面会するなんて、一般庶民である結にとって、21世紀の世界でも、考えられないことだった。まして、古墳時代の大王といえば、21世紀とは違って、実際に政務をとっていた治天の君。21世紀でいう総理大臣と天皇をミックスさせたような権力を持っている。
「結様、明日ははようございます。早くお休みください。」
寝る支度をする気配のない結に、竹屋守はこういった。そしてそのあと竹屋守は、大王のもとへと急いだ。
「探ってまいりました。今のところ、怪しいものではないとは思われます。」
竹屋守は大王にこういった、大王は、
「そうか、大儀であった。しかし、やつが何かしでかすなら即始末せよ。川勝は信頼できるものだとはいっていたが。」
大王は竹屋守に結がどのような人物なのかを探らせていた。そんなこととは知らず、お目通りがかなう日を控え、結の心臓は緊張で激しく鼓動していた。そうである、明日はいよいよ大王におめにかかることになっているのだ。
傀儡の大王
泊瀬部皇子が、大和王権のトップである「大王」となった頃、実質的な権力は当時、大臣であった蘇我馬子が握っていた。
「馬子は私が『意見』を持つことを好まない。傀儡のままでいなければならぬのか」
するとかたわらにいた、連の田中彦根が
「この際、馬子を亡き者にするのはいかがでしょう」
とささやいた。
「そんな大それたことはできぬ」
「本当にそのようなことをしなくとも、脅しをかければよろしいのですよ」
この助言を聞いた大王は、一つの行動を起こす。
数日後、彼は、臣下が居並ぶ前で、献上された猪の目を笄刀を抜いて刺し、
「いつかこの猪の首を斬るように、朕は自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」
とつぶやいたのである。こうするようけしかけたのはほかならぬ田中彦根であった。
この振る舞いは瞬く間に広まった。
「あのお優しい大王さまが…」
多くの家臣は、まさか大王がそんなことを…と、おののく。
一方、馬子は、大王が自分を亡き者にしようとしているのではないかと推測し、動揺した。
「そんな方ではなかったのだが。少し、追い詰めすぎたか。小康をしとめるのに失敗したと知らせがあったし、困ったものだ。」
と馬子はおそれおののいた。
大王の目指す親政が川勝と上総の豪族をとりまとめにより進められていることを知った馬子は、川勝を亡き者にしようと刺客をはなっていたのだが、失敗に終わってしまった。そして今度は、馬子は、自らの命の心配をしなければならない。
「陛下は変わられました。即位なさって直後はすべて大臣まかせでしたが、今では政に積極的かかわろうとしていらっしゃいます。」
と近臣の者が述べた。
「とはいえ、私のことはよく思っていないようだな。」
馬子はうっすらと笑うと、
「さて、どうするか。」と首をひねった。
そこで、
「お隠れいただいてはいかがでしょうか。」
と言い出したのが、大王に助言したのと同じ田中彦根だ。そしてこの田中彦根の提案には裏があった。
彼は大王に馬子を脅すよう献策したものの、あれほど強硬な言辞を呈するとは思わず、驚いていた。
(あれほど露骨に言い放っては、蘇我の大臣がそのまますますとは思えない。前もって私に相談すらしてくださらぬし…。大臣を退けて、私が唯一の寵臣になれればいいが、どうもいま一つ信頼してくださらぬようだ。であれば、蘇我の大臣をたきつけ、逆に早く退位してもらうのが一番・・・。)
「どういうつもりでそのようなことを言っているのか、わしにはわからぬが…。かりに、そうなったとして、むしろ、そのあとのほうが問題なのだ」
と馬子はいいはなった。自らの意思を持つようになった大王は、皮肉にも、そのために臣下から刃を突きつけられようとしていた。
都に住まう大王
翌朝、結は川勝と共に大王の館へと馬を進めていた。
「大王はどのようなお方なのでしょうか?」
結が聞くと、川勝は
「大変お優しい方である。このお方の力によって、今ここでは新しい信仰が人々を救っているのだ。そしてお優しいだけではない。 地方の豪族に刀を与え、大王様が中心となる体制を整えようとなさっていらっしゃる。」
きっぱりと述べた。
(崇峻天皇は、仏教を手厚く保護していたんだった。でも、そうだ、国造をつくったりしていた、やり手の部分もあったし、これはなかなか興味深い人物だなぁ。わくわくするな。)
川勝の館から大王の宮である館まではすぐだった。大王の信頼があつい部下は大王の近くに住んでおり、大王の川勝に対する信頼度がいかに高いがわかる。
大王の館に到着すると、門の前にいた者が
「連様、大王がお待ちでございます。」
と述べた。
「うむ。では結殿まいるとしよう。」
「は、はい。」
一生懸命返事をした結であったが、これ以上ないというぐらい緊張していた。
館の敷地内に足を踏み入れると、そこには神聖な空気が漂っていた。造りは他の豪族の館と同じなのだが、やはり何かが違う。
(大王はここにすんでいらっしゃるのか。)
敷地内の奥まった建物の前まで来ると、その扉は静かに開いた。そして中からゆっくりと男性がでてきた。大王である。
(のちに崇峻天皇と呼ばれる大王がいま目の前にいらっしゃる。)
「そなたが結か?」
20代の若き大王は、結に笑顔を向けてこう述べた。
(えーほんとー。)
緊張して固まっているところを川勝に促され
********
「それと大和から帰ったら、アマヅラ作りをやってみたいのですが。やらせてもらえますか?」
ムラオサの娘である倉人女には倉根という兄がいた。料理上手で手先が器用なこの倉根は、冬のある時期には、アマヅラなどの調味料を作ることもあった。
「うけたまわりました。倉根という者に伝えておきます。