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  鈴  作者: 谷畑美帆
皇子との出会い
2/4

父と過ごす週末


「どこいくの?」

車のエンジンをかけている父にたずねると

「どこ行きたい?なにしたい?」

と父が逆にたずねてきた。

「なんだよ、決まってんのかと思った。え?おれのいきたいとこ?そうだなぁ、最近疲れてるから

静かなとこでおいしいものでも食べたいかなぁ」

「OK。じゃ出発。」

「え、どこいくの?」

「とりあえず海の見えるとこ行こう、それから・・・」

「海なんか珍しくもなんともないよ。」

「それが違うんだ、お前がいつもみている海とはちがうぞ」

「ふーん」


1時間くらいたっただろうか

「おきろ、着いたぞ」

「あ、うん。ここどこ」

「大房岬さ」

「へぇ、田舎だな・・・」

「少し歩こうか。」

「うん」

「晃一、これからどうすんだ?」

「これからって将来?」

「そう、大事なことだ。どうすんだ?」

「そうだなぁ、とりあえず大学行って、って感じかな・・・」

「大学いってなにすんの?」


答えにくいのもあって、晃一は海に目をやった。

車を降りて数分歩くとそこには太平洋が広がっていた。

透明で美しい初夏の海。

ゼリーのようにも見える。



**********

馬に乗る

倭道田毛の家には2頭の馬が飼われていた。名前は「黄金くがね」と「しろがね」という。

このように馬を飼っているのは何のためかというと、農作業として使うためでも、食べるためでもない。

乗るためで、かつ、古墳時代の馬はそれだけではなく、特別の意味を持っていた。

 この時代、馬はだれが持てる動物ではなかった。それは、イノシシやシカのように日本にもともといたものではなく、騎乗用に育成され、この地の倭一族のためにもたらされたものであった。


この時代、馬を保持している人間は、豪族クラス以上の人間だ。

(考古学者は、当時の馬は、高級外車のような側面と、戦いの際に用いる戦車的としての側面と、ものを運搬するトラックとしての側面の3つを持っていたってと考えているよね)

結は改めて思った。

そして日子人が普段乗っている「しろがね」は、彼が12歳になったときに父から与えられたもので、馬齢は5歳。

この馬が日子人と共に大きくなるにつれ、さまざまな馬具をつけ、それをつけたままで乗りこなせるよう、調教していく。馬に触れるようになって3年の月日がたっており、日子人はしろがねを乗りこなしていた。この馬は日子人の自慢である。


「乗ってみるか。」

馬からひょいとおりて、日子人は、手綱を結に渡した。

「よろしいんですか?」

多少の乗馬経験のあった結ではあったが、少し戸惑った。だが、なんとかまたがり乗ってみた。

感じたのは、この馬は,馬としてはかなり小さいのではないかということだった。母がまだ元気だったころ、家族で宮崎を旅行し、結は体験乗馬したことがあった。

そのため、(あのときより、この馬、だいぶ小さいな)と結は感じた。


それもそのはず、遺跡から出土した馬の骨をみればわかるのだが、現在の馬より古墳時代の馬は小ぶりだったのである。馬装も違っており、馬の背にのせられた鞍は木でできている。

(固いなぁ)木製の鞍は固く、安定しておらず、21世紀の皮で造られた鞍より乗り心地がよくなかった。


「乗りにくいか?」

「はい」

「情けないな、このぐらい乗りこなせなければ困るだろうに」

と日子人は言った。


「知っておるか。今はつけていないが、儀式のときなどには、この馬の頭や尻にさまざまな飾りをつけるのだ。重いから、馬もいやがる。そうすると今よりもずっと乗りにくいぞ」

あたふたしている結をみて、日子人がからかった。


「私は馬に乗ってかけてみたいです」

「やれ、まるで駅馬か、伝令のようだな。いくさ場にでも出るつもりか。ふだん、早く走る必要などなかろうに」


この当時の馬は、移動の手段であるが、豪族が飼っている馬は、ほとんどが「飾り馬」で、様々な装飾をつけて儀式の時にパレードしたり、一軍の将として戦場に臨む豪族たちを乗せたりするだけで、その歩みは遅く、現代の乗馬のような動きはさせていなかった。

というのも、固い木製鞍にさまざまな飾りをつけた馬では駆け足も早足もかなり難しいからで、伝令や戦場で用いる馬には、それ用の別の馬具があり、異なる調教を行っていた。


「かけないのは馬飾りをおつけになっているからですか。それは数日前に、川勝さまを迎える馬揃えで日子人さまがおつけになっていたような飾りですか。」

「そうだ。見てみたいか。」

「はい」

「では父上に伺ったのち、都にゆくまでにみせてやろう。」


翌日の午後、道田毛の許しを得て、日子人は倉へと結を案内した。

倉には堅牢な鍵が取り付けられており、中に入るまでには3つの扉をあけなければならなかった。

「ずいぶん厳重なのですね」

「大切なものなので、盗まれないようにな。ああ、もちろん、さびを防ぐという意味もある。時折はあけて、きちんと手入れもしているぞ。」

といって、木箱をあけ、布につつまれた金色の馬具を見せてくれた。(きれい…)結は思った。


「これはいつも使うものではない。特別な時にのみ使う。」

といい、日子人は馬具のひとそろいをみせてくれた。

(おぉー。これは、雲珠、辻金具、そして鏡板と杏葉じゃないか。)

この当時の馬の装具(馬装)はいくつかのパーツから構成されている。その一つ一つは今の馬具と似ている部分と違っている部分があった。

例えば鞍。先にも述べたが、これは21世紀の場合、ほとんどすべてといってよい部分が革でできている。しかし、ここでは

(木製だ。)

次にくつわ。このうち、馬の口に取り付けられた轡の左右に飾りとしてつけられている金属製の部分をみて

(鏡板だよ、これは。)

結はつぶやいた。

この鏡板の先には馬の動きを制御する引手がつく。

(鏡板っていうのは21世紀では失われていて、口の中にいれる「はみ」と手綱をつける「引手」のみで、くつわは構成されているんだ。)

しかし、この当時、金メッキされた鏡板は、くつわの左右にとりつけられ、馬の装具をきらびやかに飾る、馬装のポイントともいえる馬具であった。

それから、馬の動きを制御したり、轡や鞍などを取り付けるために、馬に皮帯をとりつけるのだが、こうした帯のことを

(これは・・・「がい。)

と言っている。繫は馬のどこにあるかによって、名称が異なる。

(面繫、胸繫、尻繫などと呼称されているし、これは現代でも共通だな)。

さらに、この時代、このうちの尻繫には、繫をつなぎとめるための金具がとりつけられている。

(雲珠や辻金具といった飾りがこれだな。)

こうした一連の馬具に加え、現代でも使われている、足を乗せるための

(そしてこれは、鐙。)

という馬具をあわせて、古墳時代の人たちは、馬に乗ることができたのである。

「この馬具はなんでつくられているのですか」

「銅の上に金をのせているのだ。」

(鍍金かぁ。うーんぴかかだなぁ。)


鍍金は銅板の上に金をメッキする技術だが、その際に、人体に害がある水銀を用いることもあり、どこの工房でもできるというわけでない。

が、作り方はほぼ決まっている。まず、金メッキしたい部分に水銀と金箔などを混ぜたものを塗布して乾かす。乾燥したら梅酢に浸し、表面の油分を取り除いた後、水洗いし,酸を落とす。

その後、水分をふきとり、水銀溶液に浸しておく。その後、また塗布し、銀色になった地金に水銀を塗布。これを数回繰り返すと、金箔を塗り終わった地金は銀色に光る。

そして銀色に光る地金を炭火で500度程に熱し、水銀を蒸発させると、鍍金された部分は、金色に代わってくる。こうした作業が終わったら、冷水で冷却し、木炭をふりかけながら固い刷毛で鉄のへらで丹念に磨き上げていくのである。こうした鍍金をアマルガム鍍金といっている。

(手間暇をかけて作られた鍍金部分は、現在の電子顕微鏡でみると、磨いた跡が確かに残されているのを確認することができるのであるし、これもアマルガム鍍金なんだろうねえ…)結は思った。

「それはそうと、そなたは、出立の支度はできておるのか?明日はかなり早く立つときいておるが・・・。」

と日子人が心配そうに聞いてきた。  

「恐悦至極に存じます。」

というのが精いっぱいだった。

「なに、そのようにかしこまわらなくともよい。そちといろいろ話をしたくて待っておったのだ。また、結、そなたは随分と美しい男だな。薬師だと聞いておるが、それだけではなく、そなた、なかなかの知恵者だそうだな。」

「恐縮でございます。」

「そなたは薬剤がほしいとのことだとか。それなら明日、薬剤を管理している布留宿禰のところに行くがよい。そこでならそちがほしいと思っておるものを手に入れることができよう。」

「ありがとうございます。恐悦至極に存じます。」結はやはり固く、緊張してしまった。


布留宿禰の館にて

布留宿禰は、もともと地方の豪族につかえていた呪医であった。物部氏と系譜を同じくするこの一族、祭祀と医療を行う複合的な機能集団として中央政府に隷属していた。しかし、百済の制度が導入され、薬部を模した組織がつくられ、薬は帰化渡来人が担い、もともといた呪医は、薬種を収集する機能の一部を残して医療から離れ、祈祷師などにのちに分化していた。

布留宿禰の館に翌朝結が取次ぎを申し出ると、大王の手はずにより、ことは思いの他、スムーズに進んだ。

「ようこそお越しくださいました。大王より伺っております。わたしは日田と申します。どうぞお見知りおきを。」

と40代くらいと思われる落ち着いた男性がゆっくりとした口調であいさつをした。そして薬剤に関する説明を一通り受けると結は薬剤庫に案内された。

漢方薬のような乾燥させた薬剤が倉庫内に所狭しとおかれている。そして、引き出しの中には、さまざまな薬剤が分類されて入れられていた。

「このような薬剤を都の人々は飲むことができるのですか。すばらしいですね。」

結が言うと、

「都に住まうすべての者がこれを口にすることができるというわけではありません。これは基本的に大王とそのご親族の方々が使われるもので、大変貴重なものなのです。」

と館のものが言った。

「それは少々残念です。人にうつる病の場合は、大王さまはもちろんですが、皆が薬をのまないと病がひろがってしまいます。」

「そうなのですか?」

「はい、そうです。」

感染に関する知識が乏しい古代の人々にとって結の一言は驚きであった。しかし、この基本的な考え方がとても大切なのだ。

「つきましては、どのような薬剤が必要でしょうか?」

「そうですね、こちらに干してある薬剤をみせてください、日田さま」

(くずか、それにこちらはシナモンかな、このきいろいものはなんだろう。そうだ、これらで葛根湯作ってみるかな。)

「こちらでよろしいでしょうか?」

二人で薬剤を吟味していると、下働きの者がやってきて

「蘇我の大臣さまが結様にぜひみていただきたい薬剤あり、お寄りいただきたいとおっしゃっておられるとのことでございます。」

「そうか。結様、いかがなさいますかな?」

(蘇我の大臣、蘇我馬子のことだ。これは会わない手はないでしょ。)

「薬剤をありがとうござます。はい、では蘇我の大臣さまのところにも参りたいと思います。」

「そうですか、それではお気をつけて。」

結は、いくつかの薬剤を手に、布留宿禰の館を後にし、竹屋守を伴って、蘇我馬子の館へと向かった。


馬子の焦り

最近の教科書では記述がやや控えめになっているが、1970年代の教科書では、蘇我馬子や入鹿は極悪人として描かれていた。これは、馬子の急進的な政策や入鹿が暗殺されたクーデター「大化の改新」の正当性をアピールしようとした日本書紀の記述をそのまま採用していたからなのだが、要するに歴史は勝者のものであることがここからもわかる。しかしこうした事情を理解しないまま歴史教育を受けた人間、すなわち日本書紀の記述を生かした教科書作りが王道であったころに教育をうけた結の母親世代、すなわち50代ぐらいの者たちは、蘇我氏のことをよく思っていない。

しかし、結が実際にあってみると、蘇我馬子は、きさくなおじさんだった。

敷地内に足を踏み入れると、庭先からは幼子の無邪気な声が聞こえてきた。そして、その小さな男の子をあやしながら結のところへと静かにやってきたのが

(わあ、これがあの蘇我馬子。)

だった。知力に優れ、上品で、着るもののセンスもいい、やり手のアラサーである馬子がそこにはいた。

「おじいさまぁ。」そして馬子の足元に絡みついている幼子がいた。

「私の息子・倉麻呂の息子で、私の孫だ。」

(蘇我倉麻呂の息子!これは蘇我赤兄だ!有間皇子を陥れ、天智天皇と弘文天皇の重臣であったあの蘇我赤兄が、いまはまだこんな子供だ。)結は驚いた。

 そして

「そなたが結か。総からよく来たな。なかなかの知恵者だそうだが…それにしてもずいぶんと美しい男子だな。薬は種々用意してあるぞ。そちに見てもらいたくてな。なんなら少し持っていくがよい。それから少しそなたと話をしたいと思って、来てもらったのだ。」

と、馬子が言った。

「大臣さまは、大王の信頼あつき方でいらっしゃるゆえ恐悦至極に存じます。」

すると馬子は結をじっとみながら

「そなたが本当に、そのように思っているとは私には信じられないな。」

述べ、つづけた。

「知恵者と言われるそなたがな。私には穴穂部皇子の死去に関わっているとのうわさがあり、大王も今、わたしのことをどう思っておられるのだろうかな?」

「私は何も伺っておりませんが・・・。」

(穴穂部皇子か。藤ノ木古墳の被葬者とされる人物だ、はやはりまともな死に方をしていないのか・・・。)

「そなたがわたしのことをどう思っておるかわからぬが、わたしはこの大和の国を憂えているのだ。カラの国をめぐる情勢は待ったなしだ。いまは朝廷が一体となり、さまざまな困難を乗り切っていかねばならぬ。大王のなさろうとしていた国造制は、各地の豪族を大王が国造という地位に直接任命することで、彼らの権益を認め、同時に彼らの忠誠を大王個人に向けようとするものだ。大王にとってはよかろうが…」

いったん、口を閉じ、そして

「この国はこれまで私たち大臣家の合議のもと、政を進めてきた。大和の王権は各地の豪族たちが、それを共同で推戴することで生まれたのだ。それを今になって、我らをないがしろにするなど…。見逃すわけにはいかぬ。ある者が生き残るため、ある者が滅ぶ。これは自然の摂理でもあるのではないか。」

そして、食い入るように結を見つめながら、

「そなたは、そのような事例を知っていよう。もし、知らずとも、そのうちに体験することになるだろう。」

とつぶやいた。


「大臣さまは、この国をどのようにしていきたいと考えておられるのでしょうか」

「皆が幸せに暮らせる、安全な国にしたい。そして、皆が飢えることないよう、カラの国を見習い、技を移植し、文化も発展させたい。私たちにないものを、彼らはまだまだ多く持っているのだ」

このように話す馬子は、民のことを第一に考え、自らのこの国を豊かなものにしたいと切に願っている、重臣に見えた。そして馬子の姿は、社会が複雑になり、国民のことがみえにくくなっている時代の政治家のものではなかった。

自らの足で自らが治める土地を歩き、土地のことを見聞きして嘆願に耳を傾け、その解決のため、ただひたすら職務を遂行する優れた為政者の姿に他ならなかった。

何が良くて、何が悪いのか。歴史は思いもかけない方向に転ぶことがあるため、単純に現在の価値観だけで判断し、行動することがよい結果を生むとは限らない。しかも、法体系もしっかりしていない。たとえ、のちに馬子が殺人教唆をしていたとしてもだ。

そして、何より馬子は自分を正しいと思って、治める国を良きものにしようとがんばっている。そのため、結は何が正しいのか、よくわからなくなっていた。


蘇我の館を後にして、結を秦の館まで連れて行ったあと、竹屋守は大王のもとへと駆けつけた。

「大臣様と結さまがお会いになられました。」

と言い、館で聞いたことを話した。

「そうか。馬子はやはり何か考えておるな。そして結と申す者はどちらにつくのだろうか。」

と大王はつぶやいた。明晩は倉橋の柴垣の宮での宴が催される。


都での宴

それぞれの思惑を胸に大王主催の都での宴がはじまる。今宵の宴は、大王の住む倉橋の柴垣の宮内の中庭で催される。列席している人物の中には、歴史に残るそうそうたる面々が含まれていた。

中央にはまず大王。そしてそのわきには押坂彦人皇子そして輝く知性を放つ皇子、厩戸皇子が坐した。皇族方の横には、大臣の蘇我馬子、大連の秦川勝、連の田中彦根、そして蘇我倉麻呂が居した。そして結の席はなんと川勝の隣であった。

 (すごい面子だなぁ。あの厩所皇子(聖徳太子)もいる・・・。)結は圧倒された。

日はとっぷりと暮れており、かがり火が幻想的な雰囲気をだしていた。席にはすでに膳が用意され、食べ物もその上にきちんとのせられていた。


宴会の席に入る前に、結は下働きのものに呼び止められた。

「結さま、この宴会は大王主催のものでございます。そしてそのことを利用して連様や結様を亡き者にしようとしている輩がおります。膳の中でも赤い器に入っているものは食されませぬように。毒が入っておりますゆえ。」

こういったのは結に助けられた廣人であった。しかし廣人が自分が助けたものだとは気づかない結は、

「どうして?毒ですって?」

と驚いた。

「はい、毒です。食すればただちに息がなくなります。」

「そなたがなにものかわからないが・・・。そうですか、わかりました。しかし皆の膳に入っているのですか?」

「いいえ、連様と結様の膳、そして大王のものにだけでございます。」

「なんと・・・。わかった。礼をいう。」

(なぜ私たちが?しかし、これはなにやらきなくさい。政治的な思惑が絡んでいるのは確かだな。)


膳に毒が入っていることを川勝に伝えようと、席についてから

「川勝様、この赤い器のもの、食されてはなりません。」

「なぜだ?」

「毒が入っているとのことでございます。」

「まことか・・・。」


川勝は、赤い膳に入っている食べ物を最後まで食べなかった。

「連どのは食が進まぬようですな。私など酒も進んで、膳に入っているものをほぼたいらげてしまいました。」

蘇我馬子は得意げに言って

「大王さまのじきじきの宴ゆえ、膳のものを残されると礼に反しますぞ。」

と述べた。

「食が進まないわけではない。しかしあまりにもすばらしい膳ゆえ、私一人で食べるのはもったいない。」

「ここにおる鹿にも少しわけてやりたい。大王様よろしいですかな?」

「よかろう。獣たちにも緩まってやれ、かまわぬぞ。」

と大王の許しを得ることができた。


赤い器を手に取って、川勝は鹿にその中に入っている食べ物を差し出した。おいしそうなにおいにつられて鹿はばくばくと食べつくしてしまった。すると、次の瞬間、鹿はぶくぶくと泡を吹いて、倒れてしまった。

「どうしたというのだ。」

大王は恐れおののいた。

「私はまだこの赤い器に供されてるものを食していない。これにも、もしや何か入っているのか・・・。」

大王はそういうや否や、別の鹿の前に食べ物を投げ、食べさせた。

結果は同じであった。鹿は食べたが同時にその場にばったりと倒れてしまった。

「このようなことを仕組んだものはいずれのものか!」

川勝は叫んだ。

一同は騒然となった。


大王はひそかに川勝を呼びつけた。

「なぜあのようなことになったのだ?」

「結どのが知らせてくれたのです。」

「あのものが?しかし、あのものは、なぜそのようなことを知っているのだ。」

「下働きのものが教えてくれたといっておりました。素性はわかりませんが・・・。とにかくこのことを結どのが教えてくれなかったら、どうなっていたか。」

「そうか。」


川勝が去ったあと、大王は竹屋守と話している。

「あの結と申す者は何者なのだ。少々怪しいが、不思議な奴だ。信用できるのだろうか・・・。」

「不思議なものでございますね。私たちが思いもよらぬことをしますし、しかし怪しいところはございません。今のところ。」


儀式では

この時代の豪族の墓である古墳には、実に様々なものが副葬されている。

古墳は葬式という儀式を行う場所なので、祭祀的な要素をもつ鏡などが入れられていることには納得できるだろう。しかし、その多くは普段お墓に埋葬される人物と共にある時期を過ごした物なのである。

例えば大刀。古墳時代の大刀は、実は長いほうが格上とされており、加えて装飾性も重視されていた。

東日本では装飾大刀(飾り大刀)と呼ばれる美しい大刀が多く出土しているが、これは当時でも特別な時にだけ使用する刀である。すなわち、これらは様々な儀式などの際に佩用することによって、自らの地位を内外に示すものだった。

ちなみに、考古学者は、この装飾太刀を、その装飾性によって大きく二つ分けている。

すなわち、古墳時代より前の弥生時代からの伝統的な大刀と朝鮮半島で作られ力の強い豪族によって日本列島に持ち込まれた外国製の大刀である。要するに国産と外国製の2つがあったということになる。

このうち外国製の大刀は、6世紀になると日本国内でも作られるようになり、こうした国内産の大刀を、大和政権は、地方の豪族に対し、彼らが中央政権の支配下にあることを内外に示すため、ひんぱんに配っていた。

そのため、この装飾大刀を見れば、その人物がどのくらいの勢力と地位をもっているか、どういった功績があるのかといったことまでわかるのだ。

今回、西から、使者・秦川勝が来たため、会見に際し、倭道田毛は、さまざまな大刀を身に付ける。

(道田毛さまが身に付けているのは、単鳳環頭大刀という、朝鮮半島製の大刀と、在来のデザインの頭椎大刀だ。そして左の従者には銀装鶏頭大刀と金銅装圭頭大刀という装飾大刀を持たせている。)

よくみると大刀の柄の部分には装飾が施されている。

(大刀の柄頭と呼ばれる個所には、透かしなどの飾りが取り付けられていて、この部分のデザインはそのまま大刀の名称となっている。例えば、単鳳環頭大刀は、柄頭に鳳凰の飾りがとりつけられていて、鶏頭大刀では柄頭の形状が鶏の羽の形になっているし。それに圭頭太刀は、柄頭の形が中国の玉器の圭に似ていることからこうした名前がつけられているんだったけな。)

このように複数の太刀を持っているということは、この倭道田毛が多くの役職を兼ね備えており、その職を中央政府にも認められているということを示していた。

川勝と道田毛の会見は、言うならば、内閣総理大臣からの特使と、県知事と県警トップの役職に博物館の館長といったいくつかの役職を兼ね備えた人物の会見に近いのである。また、このように大刀の佩用の仕方によって、その人物の勢力を認識させることができた。

そして、この日、日子人はというと、金銅装の倭装大刀のみを佩用している。

(大刀の材質は金銅製のもの(銅に鍍金したもの)より、銀製のもののほうが格上だ。そして倭製の大刀は外国製のものよりその造りがよくないとみなされるし。こうしたことから、まだまだ、日子人の勢力が道田毛には及ばないことがわかるな。)

このほか、倭道田毛の帯にはいくつもの鈴が取り付けられており、そこに、鈴を好んだ、東国の豪族らしさも感じられた。古墳の調査をすればわかることだが、鈴は東日本の豪族が持つことが多かった。


(豪華できれいだなあ)結は、鈴と大刀のきらめきに目を奪われた。

博物館に展示してある遺物は、どれもさびて古びている。っともその古びた感がいいのでもあるが、金メッキしたそのままの状態だとこんなにも美しいことを今、結は確認した。

またこの当時は、移動手段の一つである馬も、大刀同様、権力の象徴であった。

すなわち馬と共に用いられていた馬具なども、大刀に類する役目を果たしており、馬にどのような馬具をつけているかによって、大刀ほどではないにしても、その人物がどういう人物なのかをある程度知ることができた。

倭道田毛の場合、馬にとりつけている一つ一つの馬具に統一性があり、デザインも色みもそろっている。そしてその意匠は朝鮮半島由来のものであり、地方に暮らす豪族の誰もが持てるというものではない。


行列の馬具をみていたゆいは、日子人の馬の装具をみて、(あ、あれは花形の鏡板付轡と杏葉だ。)

とつぶやいた

日子人の馬に取り付けられた馬具は、外形が花のかたちをしたもので、きんぴかに輝いてはいたものの、それ自体は、地方豪族が普通に持っている、いわばありがちなタイプのものであった。このように、馬具をみても、日子人はこの地方を治めていく次期後継者とみなされているものの、その力は父には及ばないことがわかるのだった。


結、西へ 

 明朝、まだ暗いうちから結は秦川勝一行とかずさの地を立った。明るいうちはすべて移動時間にあてるため少しの時間も無駄にしたくないのである。松明を手にした道田毛の臣下のものを伴って、海辺へと向かった。

ここは、結がかずさの古代にやってきたまさにあの場所であった。海辺には3艘の舟が用意されており、水先案内のものを先頭に結と伴の者、川勝と伴の者、荷と伴の者が分かれて乗り込んだ。

走水を通って、海を横断している途中、だんだん夜が明けてきた。そして、地平線のかなたに美しい朝焼けを見ることができた。

「結どの、あちらにみえるのは不二の山ですな。なんと美しいことか。」

川勝が大きな声で言った。

「ほんとうです、素晴らしいです。」

と結も川勝にこたえつつ、

(不二の山か。富士山はアクアライン通るときに何度も見ているけど、違うな。角度が違うからか、空気が澄んでいるからか、美しすぎて神々しい。)と結は感動していた。

風向きがよかったため、対岸まで舟はするすると進んでいった。

(8時間くらいかかったかな。)

舟が岸につくと、2頭の馬が用意されていた。そして馬と一緒に岩磯と海根が結たちを待っていた。馬を用意してくれたのは、この2人だったのである。

「また会えるなんて・・・。うれしいわ。」

「結様のお役に立てて、こちらこそ恐悦至極に存じます。」

二人は深々と頭を下げた。

盗賊などに襲われることもあるから、旅の一行は3~5人以上が常とされていた。今回は、武器を持たせた屈強な男を2人ずつ前後に従え、調や食料などの荷物持つ者4人、そして秦川勝と結は馬にまたがり、一路大和をめざす。

ここ相の国からはひたすら陸路となる。ここでは、総の国で見た小道よりも、数倍大きな道を進む。が、大きい道といっても軽自動車が一台ぎりぎり通れるか通れないかぐらいの道路であり、付き固めてあるわけでもない。そのため、いったん雨が降るとぬかるんで、一行の足を遅くすることもあった。


さらに西へ

6世紀後半の旅は、基本陸路で徒歩と馬でということになる。そのため、総の国から大和まで日にして約20を要する。一日の三分の一の時間をあて、約1里(40km)を歩き、足を進めていくこととなる。そして、古代の旅では宿をとることがままならないことが多く、コメなどの食料を持ち、野営しながら旅をする。

初秋とはいえ、夜半は冷え込む。そのため、洞窟や洞穴などを探して、寝ずの番の者を2名たてて、結たちは休む。多めに持たせてもらった着替えは夜には寝具となり、手足の冷えをやわらげた。やぶ蚊に悩まされることも多く、結は21世紀から持ってきた携帯アロマスプレーをまいてから休むようにしていた。今宵も休む前にシューシューしていると川勝が

「それはハッカのにおいだな。薬剤として使っているのか?」

と聞いてきた。そのため結は

「ハッカ、ペパーミントともいいますが、これには虫を殺す作用があるのですよ。」

「そうなのか。そなたは実にさまざまな知恵を持っておるのだな。薬師とはいえ、実に不思議だ。大陸から来た渡来の者とはまた違った知恵だな。本当に不思議だ。」といいながら感心していた。

ハッカは歴史上もっとも古い栽培植物の一つであり、3500年前には既に生薬として使用されていた。日本にも大陸から早い段階で伝わっていたが、山菜やお茶として使われることのほうが多かった。


一行は、相の国から、遠淡海に足を踏み入れた。岩磯と海根は、ここまで結たちを送ってくれて

「道中お気をつけて。」

と言って、別れを告げた。遠淡海から盧原へ、次いで、草薙、焼津へと足を踏み入れることとなった。倭尊が東征に赴いた際にだまし討ちにあい、草薙剣で草を薙ぎ払ったことからこの地を草薙、そして賊たちを焼き払った野原を焼津と呼ぶようになったこれらの地に結は来ている。

(ここがそうか。広~い広場だけど、神話の世界の一つなんだな。)

遠江の温暖な気候では作物が豊かに実り、人々の生活も豊かなようであった。

(上総とはまた違った穏やかさがあるな。)

「結さま、おつかれでしょう。水を汲んでまいりましたので、どうぞ。」

と供の者が坏に入った水を結に差し出した。

「ありがとうございます。」

と受け取って、みると水は少し濁っていた。そのため結は、

「これはろ過してから飲みましょう。またろ過したあと、一度ぐつぐつさせたほうがいい。」

といった。近くの人家から道具を一式借りてきて、結は濁った水をろ過して、一度沸かした。それを見ていた川勝は

「なんと、このようなこともできるのか。」

と感心した。川勝は、知恵者として大王に結を引き合わせたいと思って、西に連れていくことにしたのだが、

「これはとてつもなく、頼もしい味方ができたのかもしれない。」と独り言を言った。

このたびの上総への旅では、川勝は大王から特別に頼まれたことがあった。すなわち、上総の豪族をとりまとめて大王の目指す親政を支持させ、何かあった時は東国から兵を都に送る…という役目をも担っていた。そして今回の上総の視察は、これが本当の目的だったのである。

 

馬子の刺客

 三河から尾張へと進み、いよいよ伊勢の国にさしかかろうとしたとき、たたきつけるような激しい雨が降ってきた。

「今宵、野営は無理だ。何かあったときにと、前から頼んであった尾張の国造の館で一夜をお願いするとしよう。」

ぬかる道を進み、なんとか一行は館の前までやってきた。

(尾張の国造は中央政権と強いパイプで結ばれていたから、何かと頼りになるんだろうな。)

「川勝様でいらっしゃいますか?」

門の前に立っている者がたずねたので

「そうだ、大王の使いで東へ行ってこれから帰るところだ。今宵の宿をお願いしたい。」

と答えた。

敷地内に足を踏み入れると、そこが、道田毛の館に類する造りの豪族巨館であることがわかった。奥の建物の扉が開いて、中からでてきた館の主が

「ようこそいらっしゃいました。お疲れでしょう。今宵はゆるりとおくつろぎください。まず、雨露を払い、冷えた体をあたためてください。」と述べた。

疲れ切っているため、結たちはとにかく休みたかった。雨に濡れた体では、体温が急に下がり、体力を消耗してしまう。館の主との挨拶もそこそこに、与えられた1棟にどっしりと腰を下ろした。

「ひとここちつきましたね、川勝様。」

「そうだな、今宵はゆっくりできそうだな。」

白湯がでてきたので、二人で飲みながらしばらく談笑した。あたりのすべての音がかき消されるように雨は激しく降っている。しばらくすると日が暮れて、あたりはすっかり暗くなった。


「館に入ったな。では今宵、決行するぞ。大臣?さまのために。」

暗闇にまぎれて館に忍び込んだ廣人は、つぶやいた。蘇我馬子が放った刺客であるこの廣人、彼は馬子配下の秘密工作集団の長で、小康を殺す命令を受けていた。


「少し戸を開けてもよろしいでしょうか、川勝様。」

「かまわないぞ。外の様子もみたいしな。おぉーもうすっかり日が暮れてしまって、夜のとばりがすっかりおりておる。」

そのときである、闇にまぎれて矢が数本飛んできた。廣人が放った矢だ。

「なにやつ、私を大王の使い、秦川勝としってのことか!」

「ご主人様、あちらの茂みから何者かが矢を放ってきております。危険です、中にお入りください。」

と供の者が急ぎはせ参じいった。

「必ず仕留めてやる。」

と廣人の放った矢が伴の者の足にあたった。

「あーお前を射るために矢はなったのではない。どけ、狙いは川勝なのだ。」

結と川勝は、室内に逃げ込んだ。そして戸をすこしばかり開けて、矢を放とうと結は、弓に矢をつがえた。

「そなた、そのような細腕で弓ができるのか・・・。」

と川勝は驚いたが、驚くや否や結は、矢を放った。そしてその矢は、廣人の腕に命中した。

(がさがさと動く気配のある方角を定めて、やってみたけど、手ごたえはあったみたい。)

「結さま、茂みの中に潜んでいた者が逃げていきます。」

伴の者が言うや否や、茂みに隠れていた廣人は

「ちっ、とりあえず今宵はひきあげよう、なんだ、あのひょろひょろした女みたいなやつは・・」

とつぶやきながら去っていった。

「大事ないですか?申し訳ございません、このような事態が我が館でおきるとは。それにしても何やつでしょうか。」

屋敷の主がやってきて言った。

そしてあたりにうち放たれた弓矢をみて結は(古墳時代には戦闘用として細い鏃を使っている。そしてこれもそうだ。)と思った。

「結どの、そなた、何者なのだ。そなたはいつも私を驚かす。そして今宵も。それに感謝してもしきれない。」

川勝は、もともと結に興味があった。だが今回の旅で彼にとって結は特別な存在になっていった。


伊勢の国に到着

尾張の地をあとに、一行はいよいよ伊勢へと足を踏み入れた。

伊勢の地には古くから社があったが、これが伊勢神宮と呼ばれるようになったのは6世紀後半以降のことだ。そしてこの社が現在のようなものになったのは式年遷宮のしきたりが定められた時期、すなわち7世紀をまたなければならない。今ここにあるのは後の伊勢神宮の前身となる社だ。

(内宮と外宮は建設時期が異なるんだったな。今あるのは内宮と外宮の前身となる建物のようだな。)

質素な建物は、小ぶりで敷地面積も21世紀ほどなかった。しかし、境内に足を踏み入れると神聖な空気でピリピリと体が引き締まるのを感じた。

(厳粛な場とはこういうところのことをいうんだろうな)と結は思った。

大王と関係の深い一族がここを祀るために住んでいる。

「ここ伊勢もすばらしいところであろう、結どの。」

「はい、川勝様。」

伊勢神宮の内宮には、太陽を神格化した天照大御神が祀られている。が、当初のお祀りの場はここではなく、大王の住まう大和の地に疫病平癒を祈願して祀られていたのである。そして、この少しあと、外宮に食べ物をつかさどる豊受(とようけの)大御神(おおみかみ)が祀られる。いずれにせよ内宮・外宮には祀られているのは女性の神様だ。そして、今、建物の中から出てきた人物も女性であった。

「わたしは長嶺と申します。長旅でおつかれでしょう。」

(斎宮の制度はまだきちんとしたものではなかったのだろうけど、この人は祭祀をつかさどる女性なんだな。)結は思った。

伊勢の地は、大和からやや離れてはいるが、重要な場の一つであり、ここは中央政権と密接な関係にある。これは、この地が、6世紀の終わりごろから進められた大和政権の水陸両方の伊賀から三河を結ぶ交通のおける要衝となっていたからだ。

(6世紀後半には、外宮の裏山には高倉山古墳が造営されているし・・・。)

 そして、伊勢にある高倉山古墳の主体部すなわち埋葬施設は伊勢地方最大の規模を誇っており、実際、外宮の裏山に造営されたことから大和政権の影響がかなり強かったと考えられている。

(何に使ったかよくわからないけど、脚付短頸壺は、東海の西部でしか出土しないし、この遺物が古代の官道沿いの古墳に限って出土しているのもやはり大和との関係性を強く反映してのことなんだろう。)と結は思い、改めて大和政権とこれに近い地方豪族との関係について考えた。そして伊勢神宮で長嶺と一緒に結たちは、ここまで安全に旅ができたことを、心から感謝し、お参りをすませ、再び歩き出した。

救われた廣人

 川勝をなきものにしようと一行の後をつけていた廣人であったが、なかなか機会に恵まれないでいた。廣人は、隠密にことをなすため、黒装束に身を包み、眼だけをあけた頭巾をかぶり、人目を忍ぶ任務に就いていた。彼は、幼き頃、伊賀の盗賊の一味に拾われそこで育った。そして身を立てるため10数年かけて、武芸をひととおり習得。金のために人を殺すこともあった。そして今回の任務は蘇我馬子じきじきのものであり、失敗は許されなかった。

川で水をあび、「先日はしくじった。今宵こそは・・・。」泉に湧き出る水を飲みながらつぶやいた。しかし、この水を飲んでしばらくすると、廣人はばったりその場に倒れてしまった。刺客として川勝たちを付け狙っていたのも関わらず、しくじり過労ため、廣人は、自分でも信じられないくらいの疲労をため込んでいた。

 熱にうなされ、廣人の頭の中は、ぐるぐるした。そして、おさないころ亡くなった母に抱かれ、とてもよいきもちになっている夢をみていた。熱がひくのに2日ほどを要した。そして起き上がるとそこにはなんと結がいた。

(なんだ、こいつ。なぜ俺を助ける。)廣人は思った。すると

「旅の男の様子はどうだ?」

と川勝が枕元にやってきた。

(川勝!!こんなに近くにいるとは。すぐにでも息の根をとめてやる。)と廣人は思った。だが

「熱がたかかったのですが、下がりました。」

結の言葉で刺客としての使命を失いそうになった。

「俺を助けたのか?なぜだ。」

「過労ですね。倒れていたからですよ。それに私は薬師ですから。私たちはいきますが、もう大丈夫です。」と結は笑った。

「ではまいるとしよう。」

川勝の言葉とともに結ほか旅の一行はさっていった。

「なんだ、あいつ。あれでも男か。女みたいだ。それにあいつ、俺を看病したのか。俺を助けた・・・。なんなんだ。」廣人は結に対して今まで抱いたことのない不思議な感情がでてくるのを感じた。そして額に触れた結の手が柔らかく優しかったのをおもいだしていた。


都に到着

かずさを出発して30の日を数えるころ、ようやく結たちは大和の盆地へとやってきた。

「あの山の向こうが都だ」

川勝は馬にまたがったまま、西の方角を指さした。

(この山を登るのか。標高230mくらいだろうか。おばあちゃんちの近くにあった京都の松ヶ崎の山くらいかな。)

小高い山を登って降りる途中、結は足をとめた。

(おーこれが都なんだ。)

盆地に広がる豪族巨館の数々。高さの高い建物がないため、都の様子を一望することができた。山ぶかい大和の地は、古墳時代も変わらず緑に満ちていた。だが、現代とのいちばんの違いは、当時、この土地が日本の中心であり、最も人口が多かったということ、そして、この地方には、豪族居館と呼ばれる、塀で囲まれた宮殿のような建物が複数あったこと、などであった。そして居館は、有力氏族の支配する地域ごとに建てられていたが、この中でも、もっとも大きいのが、大王の住む倉橋の柴垣の宮となる。

「川勝様、あちらの大きな館が大王のお住まいとなりますか?」

「そうだ。大王はあちらでそなたが来るのを待っておられる。では急ぐとしよう。」

山を下りて、都大路を進んでいく。調を持ちかえり、進む大王の使者一行に都の人々も注目しているようだ。

「大王のお使いを終えて、東からもどられたのだ。」

「横にいる男はいずれのクニのお方だろうか。ずいぶん美しいし、まるで女のようだ。」

結のことを不思議に思っている輩もちらほらいるようだった。

(パレードみたいで緊張するな。私もすごいみんなからがん見されてるし。)

一行はさらに足を進め、しばらくすると川勝の館にたどり着いた。

「ご主人様、無事のお戻りなによりです。」

館の前にいた者たちが深々と頭を下げた。

「うむ。今回はいろいろとあった。大王にお目にかかって、報告しなければ。そして、こちらが伝令にて先に知らせておいた結だ。」

「結様、おつかれでございましょう。どうぞ、こちらへ。」

ここで、まず旅の疲れをいやす。川勝の館は、道田毛の館に類するものであり、結は、館内の1棟を与えられ、ここで寝泊まりすることとなった。

「竹屋守と申します。結様、都にいらっしゃる間は、わたくしが結様のお世話をさせていただきます。何なりとお申し付けください。」

年のころは16.7の少年がこう言って、頭を下げた。

「お疲れでしょう。今宵は明日に備えて早めにお休みください。」

「ありがとう。」

結は恐縮しつつ(しっかりしてるなぁ。私とたぶん年かわらないんだろうに。)と感心した。


この地は、6世紀の政治、経済、文化の中心地であり、ここには大王とその近臣たちの住まいがあった。

(明日行くのは古代の皇居なんだね…。以前、正月の一般参賀の際に遠目で天皇陛下のことを拝見したけど…)

結は東京に住んでいたころ何回か父に連れられて、皇居に足を運んだことがあった。

その際訪れた皇居は、東京都内とは思えない緑豊かで、素晴らしいたたずまいだったことを思い出していた。

(大王にお目にかかれるなんて…。それにしても、ここは人が多いね。建物の数も段違いだ)

大王と面会するなんて、一般庶民である結にとって、21世紀の世界でも、考えられないことだった。まして、古墳時代の大王といえば、21世紀とは違って、実際に政務をとっていた治天の君。21世紀でいう総理大臣と天皇をミックスさせたような権力を持っている。

「結様、明日ははようございます。早くお休みください。」

寝る支度をする気配のない結に、竹屋守はこういった。そしてそのあと竹屋守は、大王のもとへと急いだ。


「探ってまいりました。今のところ、怪しいものではないとは思われます。」

竹屋守は大王にこういった、大王は、

「そうか、大儀であった。しかし、やつが何かしでかすなら即始末せよ。川勝は信頼できるものだとはいっていたが。」

大王は竹屋守に結がどのような人物なのかを探らせていた。そんなこととは知らず、お目通りがかなう日を控え、結の心臓は緊張で激しく鼓動していた。そうである、明日はいよいよ大王におめにかかることになっているのだ。


傀儡の大王

泊瀬部皇子が、大和王権のトップである「大王」となった頃、実質的な権力は当時、大臣おとどであった蘇我馬子が握っていた。

「馬子は私が『意見』を持つことを好まない。傀儡のままでいなければならぬのか」


するとかたわらにいた、連の田中彦根が

「この際、馬子を亡き者にするのはいかがでしょう」

とささやいた。


「そんな大それたことはできぬ」

「本当にそのようなことをしなくとも、脅しをかければよろしいのですよ」

この助言を聞いた大王は、一つの行動を起こす。


数日後、彼は、臣下が居並ぶ前で、献上された猪の目を笄刀こうがいを抜いて刺し、

「いつかこの猪の首を斬るように、朕は自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」

とつぶやいたのである。こうするようけしかけたのはほかならぬ田中彦根であった。


この振る舞いは瞬く間に広まった。

「あのお優しい大王さまが…」

多くの家臣は、まさか大王がそんなことを…と、おののく。

一方、馬子は、大王が自分を亡き者にしようとしているのではないかと推測し、動揺した。

「そんな方ではなかったのだが。少し、追い詰めすぎたか。小康をしとめるのに失敗したと知らせがあったし、困ったものだ。」

と馬子はおそれおののいた。

大王の目指す親政が川勝と上総の豪族をとりまとめにより進められていることを知った馬子は、川勝を亡き者にしようと刺客をはなっていたのだが、失敗に終わってしまった。そして今度は、馬子は、自らの命の心配をしなければならない。


「陛下は変わられました。即位なさって直後はすべて大臣まかせでしたが、今では政に積極的かかわろうとしていらっしゃいます。」

と近臣の者が述べた。

「とはいえ、私のことはよく思っていないようだな。」

馬子はうっすらと笑うと、

「さて、どうするか。」と首をひねった。


そこで、

「お隠れいただいてはいかがでしょうか。」

と言い出したのが、大王に助言したのと同じ田中彦根だ。そしてこの田中彦根の提案には裏があった。

彼は大王に馬子を脅すよう献策したものの、あれほど強硬な言辞を呈するとは思わず、驚いていた。

(あれほど露骨に言い放っては、蘇我の大臣がそのまますますとは思えない。前もって私に相談すらしてくださらぬし…。大臣を退けて、私が唯一の寵臣になれればいいが、どうもいま一つ信頼してくださらぬようだ。であれば、蘇我の大臣をたきつけ、逆に早く退位してもらうのが一番・・・。)


「どういうつもりでそのようなことを言っているのか、わしにはわからぬが…。かりに、そうなったとして、むしろ、そのあとのほうが問題なのだ」

と馬子はいいはなった。自らの意思を持つようになった大王は、皮肉にも、そのために臣下から刃を突きつけられようとしていた。


都に住まう大王

翌朝、結は川勝と共に大王の館へと馬を進めていた。

「大王はどのようなお方なのでしょうか?」

結が聞くと、川勝は

「大変お優しい方である。このお方の力によって、今ここでは新しい信仰が人々を救っているのだ。そしてお優しいだけではない。 地方の豪族に刀を与え、大王様が中心となる体制を整えようとなさっていらっしゃる。」

きっぱりと述べた。

(崇峻天皇は、仏教を手厚く保護していたんだった。でも、そうだ、国造をつくったりしていた、やり手の部分もあったし、これはなかなか興味深い人物だなぁ。わくわくするな。)

川勝の館から大王の宮である館まではすぐだった。大王の信頼があつい部下は大王の近くに住んでおり、大王の川勝に対する信頼度がいかに高いがわかる。

大王の館に到着すると、門の前にいた者が

「連様、大王がお待ちでございます。」

と述べた。

「うむ。では結殿まいるとしよう。」

「は、はい。」

一生懸命返事をした結であったが、これ以上ないというぐらい緊張していた。

館の敷地内に足を踏み入れると、そこには神聖な空気が漂っていた。造りは他の豪族の館と同じなのだが、やはり何かが違う。

(大王はここにすんでいらっしゃるのか。)

敷地内の奥まった建物の前まで来ると、その扉は静かに開いた。そして中からゆっくりと男性がでてきた。大王である。

(のちに崇峻天皇と呼ばれる大王がいま目の前にいらっしゃる。)

「そなたが結か?」

20代の若き大王は、結に笑顔を向けてこう述べた。

(えーほんとー。)

緊張して固まっているところを川勝に促され

:::::::::::::::::


明後日は結の出立の日であった。薬を得て、都の見学をそこそこに結は東へと戻らなければならない。

「不思議な男だな。美しいせいか・・・。そなたとはまたぜひ会いたいものだ。道中、気を付けてな。またきておくれ。」

大王は結にじきじきに声をかけてくれた。


旅立つ前に声をかけてくれた大王のことを結は忘れられなかった。(この大王はもうすぐ暗殺されるんだよ。)結は上総に戻る前に大王のために何かしておくべきではなかったかと後悔し、気がきでなかった。

慌ただしかった結の、大和訪問はあっという間に終わった。

帰りは秦氏だけでなく、蘇我の大臣からも使者が立ち、護衛の武人も含めて、10人ほどの一行になった。そして上総に戻るまでにはやはり20日を要した。


数ヶ月ぶりに、結は総の国に戻ってきた。






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