名医のくすり
町のまんなか、駅前通りの一角に、犬による、犬のための病院がありました。
医師の名はピョートル・ミハイロヴィチ・ワンコフスキー。純血種のハウンド犬で、代々続く医者一族の出でありました。
ワンコフスキー先生のある日の診察のようすは、たとえばこんなふうです。
まず先生が、引きしまった細いしっぽでビタン! と床を叩きます。それを合図に、ツンとすまし顔の看護師犬が
「次の方、お入りください」
と診察室のドアを開けます。
すると、入ってきたのはチワワの男の子と付きそいのお母さんでした。
ふたりともおどおど体が震えており、とくに男の子の震えはひどいありさま。ピンピンした全身の毛がまるで扇風機にあたっているかのようにブルブルと震えています。
ですがワンコフスキー先生はそんな様子には目もくれず、ただ目を閉じたまま、鼻をひくひく、ふんふん、動かしているだけです。
チワワのお母さんは、先生に声をかけていいのか、いけないのか、戸惑いましたが、ようやく意を決して
「きのうの夜から・・・」
と、かぼそい声で言いかけました。すると
「しっ!」
先生はピシャリと言い放ったかと思うと、男の子に丸椅子に座るよう、指をパチンと鳴らして合図しました。
男の子が座るとすぐに、自慢のツヤツヤと黒びかりした鼻を男の子に近づけ、さらに一層ふんふん、ふんふん、と男の子の周辺をかぎました。
そこでついに何かを確信したように、ふむ! とうなずくと、
「これはまぎれもなくイヌ・アデノウイルスBⅡ型」
と断言しました。
次に先生は、長く垂れた自分の耳を聴診器がわりに、テンポよく男の子の胸やおなかにあてていきました。
「よし。舌を出しなさい。こんなふうに」
先生はまずお手本として、自分の舌をべろーっと出しました。口の中のどこに、どうやって収まっているのかと問いたくなるぐらいの長い舌でした。
それを間近に見た男の子はびっくりしたはずみで思わず舌をチロッと出してしまいました。その小さな花びらのような舌を確認し終えると、先生は早口に言いました。
「飲み薬は二つ。しばらくは水浴びも外出も禁止。以上」
そして、引きしまったしっぽでビタン! と床をたたきました。
それを合図に、ツンとすまし顔の看護師犬が
「次の方、どうぞ」
と診察室のドアを開けました。そのときにはもう、先生の鼻は次の患者に備えるため、消毒したガーゼで看護師犬に拭かれているのです。
というのがおおよその診察の流れですが、ちなみにこのチワワの男の子一匹の診察時間はたった四十五秒ほどでありました。
やがて日も暮れる頃、診察終了の柱時計の音がボーンボーンと鳴るのと同時刻に、受付の看護師は診察室のドアにかけてある〈診療中〉の札を、くるりと〈本日の診療は終了しました〉に裏がえしました。看護師犬たちの動きにはまったくむだがありません。こうしたことも、院長であるワンコフスキー先生の方針なのです。
看護師たちも居なくなると、ワンコフスキー先生は自分のために、いつも濃いめのコーヒーをいれます。
それを少しずつすすりながら、壁に掛けられた犬の肖像画たちをゆっくりとながめるのです。そこには十代続いたご先祖の医師たちの絵がずらりと飾られています。長い口ひげをはやしている者、立派な背広を着ている者、長いまゆ毛をあごの下まで垂らしている者、さまざまな犬の肖像画がありますが、胸にいくつも勲章をつけているのはみな同じです。それは優秀な医者である証拠です。十一代目にあたるワンコフスキーも彼らと同じ、においをかいだだけで病名をピタリと当ててしまう嗅覚の持ち主でした。
こうして代々の偉大なる医師たちを順ぐりにながめながら疲れをいやすのが、ワンコフスキーにとっては一日の中で最もたまらない時間なのでありました。
そして、決まってこう思うのでしたーーこのたぐいまれなる鼻を持つ私は、選ばれし者。私はその辺のありふれた犬とは違うのだーー、と。
それから最後に、一番左側に掛けられている、一段と太い眉を釣りあげておごそかな顔つきをしている肖像画の前に、カツカツと歩みよります。十代目の彼はまさしく、ワンコフスキー先生の父であります。ワンコフスキー先生はその正面に立ち、
「父上、明日もわたくしの鼻を立派にきかせてみせます」
といって、革靴のかかとをカツン! と合わせ、敬礼するのです。
とまあ、ワンコフスキー先生の一日はこんなふうですが、ある日ちょっとした異変があったのです。
この日、イングリッシュセッターという、長いシルクのような毛並みのおじいさん犬が、とぼとぼと診察室に入ってきました。ワンコフスキー先生はさっそくふんふん、ふんふんと、おじいさんから醸しだされるにおいをかぎましたが、珍しく手がかりがつかめないのです。
ふんふん、ふむ? ふんふん、ふむ?
「もっとこちらへ! もっと近くへ寄って!」
イライラしながらワンコフスキー先生は言いました。おじいさんが近寄ってもなお、先生は前のめりになって、皮膚の上三ミリぐらいの近さに鼻を近づけ、頭から足先までしつこくふんふんとかぎまわります。しかしそれでも先生は病名をつきとめることができません。こんなことは初めてです。
するとついに、おじいさんが、ゆっくりと口を開きました。
「先生、どうも最近、わきばらに十円玉ほどのハゲができてしまいまして。お鼻でかぐのではなく、毛をかきわけて、目で見てくだされば、すぐわかることなのですが」
ワンコフスキー先生が長い毛をかきわけ、かきわけしていくと、たしかにそこには小さなハゲがありました。
「ふん、いかにも」
「先生、これの原因は何ですかな?」
「そうですな。最近、毛虫を追いかけたりしませんでしたか?」
「いいえ」
「草むらで転げまわったりしませんでしたか?」
「いいえ。そんな子どもみたいな真似、この私がするわけないでしょう」
「……でしょうね。何かのアレルギーかと思われますので、飲み薬と、アレルギー専用フードを出しておきますから、しばらくそれを食べてください」
そう言ったものの、ワンコフスキー先生は内心ではハゲを突きとめられなかったことを大変恥ずかしく思っていたのです。ですからその声は、いつものようにビシッとしていませんでした。この診察には十五分もかかってしまいました。
そのあともワンコフスキー先生の鼻には冴えがなく、その日は診察終了時刻を延長するしか仕方がありませんでした。
ようやく最後の診察が終わると、受付の看護師犬は無表情に札を〈本日の診療は終了しました〉に裏がえし、その他の看護師犬たちも帰る支度を始めました。
ワンコフスキー先生はうわべこそ平然としていましたが、いつも通りの診察ができなかったことに、内心では衝撃を受けていました。そこで、ちょっとお水を飲んで落ち着こうと思って給湯室のほうへ行ったところ、隣りにある看護師犬たちの部屋から、ひそひそ声が聞こえてきたのです。
「ねえ知ってる? 西の山のふもとの大きなモミの木の辺りに、腕のいい医者がいるらしいの。どんな病気でもピタリと当ててしまう名医だそうよ」
「それならうちの先生だって同じじゃない」
「それが、その先生が診るのは犬だけじゃないの。どんな動物の病気もわかってしまうんですって」
ワォン!
看護師犬たちは吠えてしまってから、あわてて口をふさぎました。そして何ごともなかったように、裏口からそろそろと帰っていきました。
ところが偶然にも話しを立ち聞きしてしまったワンコフスキーは、たまったものではありません。さっきまでの落胆は吹っ飛んで、たちまち顔も知らない医師への嫉妬にすりかわり、全身の毛は逆だち、長い耳を小刻みにふるわせ始めました。
「私のほかにも名医がいるだと? どんな動物も診察する? そんなのやぶ医者にきまっている! そうだ、そいつめ、ほんとうに名医かどうか、私が確かめに行ってやるぞ」
そうと決めると動きの早いワンコフスキー先生、さっそくうわさの名医のところへ出かける支度を始めたのですが、クローゼットから大きな黒いマントを取り出したところで、こんなことを思いつきました。
「そうだ、どんな動物でも診察できるというのなら、いっそ私の正体をかくしてお手なみ拝見してやろう」
そして長い耳をすっぽり隠すためのシルクハット、長いあごを覆うためのマスク、幼く見られがちな瞳をごまかすためのサングラスをひっぱりだしてくると、すべて身にまといました。
「よし、準備完了。これで何の動物かもわかるまい」
そうしてワンコフスキー先生はまるで決死の覚悟で決闘に向かうように、大股歩きでずんずん西の山のふもとへ出かけていきました。空にはもう一番星がのぞいています。
名のある通り、名のない通りをいくつもすぎ、森の木々たちのざわめきが近づいてきたころ、一段と大きなモミの木が見えてきました。
たしかこの辺りのはずだが・・・と思って周囲を見わたしてみると、一軒の古びた山小屋が目に入りました。玄関にはぼうっとランプが灯っており、中に誰か居るようです。
ワンコフスキー先生は(まさか、ここが病院?)と疑いましたが、そうっと近くに寄ってみると、〈診療中〉という木札が玄関のドアにかかっているのが見えました。時刻はもうすっかり冬の星座たちが埋め尽くすほどに夜空を飾りたてている頃です。
ワンコフスキー先生は忍び足でガラス窓に近づきました。そこから部屋の中をのぞくと、ロウソクの灯だけで、とても薄暗いのがわかりました。耳をそばだてると、患者とおぼしき訪問者の声が聞こえてきました。(どこかで聞いた声だ)先生は少し考えこんでから、あ! と気がつきました。
その声は、なんと先ほどのイングリッシュセッターのおじいさんの声だったのです。
そのときでした。部屋の奥からキラリと閃光が放たれ、あたり一面がまっ白になりました。
まばゆい光に思わず目をつぶってしまってから再びワンコフスキーが目を開けると、部屋の奥にはキジトラの、たいそうでっぷりした猫が座っていました。光はどうやらその猫の両眼から放たれたようで、そこから残光がぼんやりと見えました。一人掛けのソファに、でんと座っている猫は、おしりからはみ出でている大きなしっぽをゆらゆらさせながら言いました。
「いやはやなんともまぁ。かあちゃんがなんだか最近冷たいというわけやな」
「なんでもお見通しですなぁ、さすがウラジミーコ先生。それが十円ハゲの原因というわけですか」
「わいの経験からいうとな、そんなときはよくかあちゃんを観察してみるこっちゃ。あんた、かあちゃんが最近好きなもん、いくついえるか?」
「うーむ。えーと、うーむ」
「ほうら、いわんこっちゃない。さっぱりわからんのやろ」
おじいさんはふっさりとした八の字のまゆ毛をさらに下げてしまいました。
「まぁそんな悲しい顔せんでも大丈夫や。かあちゃんは自分のこと見て欲しいから、あんたに冷たくしとるんや。まぁこれは初期症状や。今ならまだ修復可能。あせるこたない。ゆっくりかまえていこか」
「そうですかい。ウラジミーコ先生にそう言われたら、なんかしらんが希望がわいてきた」
「そうやろ。ザッツ・ポジテブ・シンキング。ほな塗り薬を出しとくさかい、脇ばらのハゲに塗っとって。今あんたが飲んどるお茶とおなじ、カモミールでつくった軟こうや。じゃあ今日の診察はおしまい、おしまい」
ウラジミーコと呼ばれたその猫は、カルテに何か書きくわえました。そして、階段状の棚のほうへそのカルテをシュッと投げました。すると、その階段に寝そべっていた白猫がさっと片手を上げてカルテをあざやかにキャッチし、棚に入れました。
(これが診察? しかも猫じゃないか!)
一部始終を見ていたワンコフスキー先生は、自分とはまるでちがう診察のやり方に驚きと怒りを感じました。やぶ医者をこらしめてやりたいという思いがふつふつとわいてきました。
そうこうしている間に、次の訪問者が診察室の中へ、ジリジリ、ジリジリと騒がしく入ってきました。一匹のアブラゼミです。
アブラゼミの姿を見るとすかさず、カルテ棚に寝そべっていたさっきの白猫は一枚のカルテを選び出し、シャッとウラジミーコ先生のほうへ投げました。ウラジミーコ先生は、もうすでに挙げていた短い手で難なくそのカルテをパシッと受け取りました。
「おや、また来たの。あれから一日しかたっとらんが」
ウラジミーコ先生は言いながらアブラゼミのために止まり木を置いてやりました。
「一日だって僕には尊い時間だって、わかっているでしょ先生!」
「わかった、そうがなり立てるな。ほな始めよか」
再び、ウラジミーコ先生の目から閃光が放たれました。強いフラッシュのため、視界が元に戻るにはしばらく時間が必要です。
「いやはやなんともまぁ。昨日はあくせく峠を三つも越えていったのに、いい相手にめぐり逢えなかったというわけやな」
「そうなんだ。僕に残されているのはあと一週間か、それとも六日。それなのに、君こそはと思う相手を見つけて、追いかけていっても、あと少しのところで逃げられてしまうんだぁ」
「まあそうあせるな。追いかけられたら逃げたくなるちゅうのがすべての生き物の性というもんや。では今日のあんたにはこのお守りを与えるとしよか」
そう言うとウラジミーコ先生は、小さなどんぐりのペンダントをアブラゼミの首にかけてやった。
「ええか、このどんぐりの中にはな、ものすごく立派な格言が書いてある……それはな……おっとっと、言うたらあかんかった。おお、あぶな」
「あぶな、って、先生! これ僕へのお守りでしょ? 中に何が書いてあるの」
「それはな……ほんま言いたいが、今は、言えん。もしも気になるんなら、おまえさん、推理してみい。今のあんたに、最も必要な言葉が書いてある。相手を探して飛んどるあいだもずっと、そのこと考えてみなはれ」
「えー、そんな。なんだかわからないけど、気になってきた」
「そうそうその調子。なんだか神妙な、落ち着きはらった顔つきになってきたぞ。その調子で飛んでみなはれ。そして二日後ぐらいにまた寄ってな。中身の格言、教えちゃる」
「わかった。二日後ぐらいにまた寄るよ」
アブラゼミはそうして神妙な顔つきのまま、ジリジリと飛んでいきました。
ウラジミーコはそれを見送りながら、
「ほうら、さっきよりだいぶ色気のある顔つきになった。なにごともあせってばかりじゃいかん。ましてや恋の駆け引きなんかできっこないわ。これであいつも、二日後には相手を連れてくるじゃろ。たまには暇つぶしにどんぐりも拾ってみるもんやなぁ。こないなふうに、役立つとはなぁ」
とつぶやきました。
(何だって? あのどんぐりは偽薬か!)
窓にぴったり耳をくっつけて聞いていたワンコフスキー先生は、もはや怒りを通り越し、だんだんめまいがしてきました。そして、犬のプライドを賭けてこのやぶ医者に勝負を仕かけてやるという思いが、さらに一層ふつふつとわいてきました。
いよいよです。ワンコフスキー先生は意を決し、玄関を三回ノックしました。そして重たいドアを遠慮なくギィと開け、カツカツと靴音を立てながら中へと進んでいきました。
ウラジミーコ先生は座ったままゆらゆらとしっぽをゆらしていましたが、靴音を感じとると、ぴくりと耳だけをそちらのほうへ動かしました。
「おや、新患の方ですな。いらっしゃい」
ウラジミーコ先生はおだやかに振り返りながらいいました。
階段の白猫は、新しいカルテを一枚シュッと投げました。ウラジミーコ先生は当然のようにそれをパシッと受け取りました。
ワンコフスキー先生はこの猫たちのすばらしい反射神経を目の当たりにして一瞬どきりとしましたが、たじろいだようすを見せないように注意して、大きな声でいいました。
「あなたが名医だといううわさを聞いてここにやってきました。わたくしは近頃どうも調子がおかしいのです。が、あなたならきっと、ずばり悪いところを言い当ててくださるでしょう。さあ、診察してみなさい!」
ゆらゆら揺れていたウラジミーコ先生のしっぽがピタリと止まりました。
「そうでっか。ほな遠慮なくいかせてもらいます」
ウラジミーコ先生は目尻を下げたまま、微笑みを崩しません。それからじーっと眼をつむったあと、唐突にぱっかりと瞼を開きました。
黄金色の眼球のまん中にある、細ながい弓状の瞳孔が、ワンコフスキーを正面からがっしりととらえて離しません。その黄金の球体は、底が無いほどに深く、無限に広がる宇宙のようにも、古代のエネルギーを秘めたトパーズのようにも見えます。
ワンコフスキー先生は何もかもを見透かされた気がして手にじっとり汗をかきました。サングラスをかけていてよかったと思いました。
「申しわけありませんな。この光ばかりは自分でも加減できませんのです」
ウラジミーコ先生はきわめて紳士的に、でもにこにこと微笑みながら語りはじめました。
「まあそこへ楽になさって聞いてください、ムッシュー」
ワンコフスキーは、ちょっとしたボロだって逃さないぞと思いながら、サングラスの下で獲物を狙うような目つきでウラジミーコを睨んでいました。
一方のウラジミーコは、そんなことはどこ吹く風というように続けました。
「どうやら、あなたは私と同じような境遇の方ですな。嬉しいことです。違うところがあるとすれば、あなたはいつも正しい道をまっしぐら。アッシのほうは、ついつい寄り道ばかり、ということですかなあ」
「私はあなたと違って当たり前だ。余計な話は結構だ」
「そうでした、いや失敬、失敬。本題に入りましょ」
ウラジミーコ先生は続けました。
「どうもあなたは近ごろとても疲労なさっている、ご自身も無意識のところでね。たとえばつい最近仕事でミスをして、すっかり自信をなくすようなことがありませんでしたか?」
ワンコフスキー先生はドキリとしました。なぜなら今日の診察を思いだしたからです。がしかし、
「さあ。心あたりはないですが」
なるべく乾いた声で答えました。
「いいでしょう。ではさっそくですが、あなたへの処方せんをお出しします。といっても、目には見えない、手に触れることもできないお薬ですよ。これから毎晩、夜空に向かって遠吠えをなさってください」
「なんだって? 遠吠え?」
「そうです、遠吠えです」
ウラジミーコ先生はにこやかに言いました。
「ところでご存知でしたら恐縮ですが、遠吠えをする動物は、なにも犬ばかりではないのですねえ。
たとえばこの森だと、ジャッカルやコヨーテ、それになんとネズミも遠吠えするそうですよ。
じつは猫である私も、遠吠えの練習を始めたばかりでして……あ、また私の話をしてしまった。失敬、失敬。ところでもう一つお聞きしますが、一番最近、遠吠えなさったのはいつですか?」
「そんなこと思い出せません。何しろ毎日多忙なものですから。それになぜ、そんなことをあなたに言わなければならないのですか」
「ごもっとも。いや、どうかお気になさらずに。とにかく遠吠えをこれから毎晩の習慣にしてみてください。
では今日の診察はここまでとしましょう。またいつでもいらしてください。表の札が〈昼寝中〉のとき以外ならいつでも大歓迎ですから」
外に出ると、すっかり星座が夜空を埋めつくしていました。
ワンコフスキー先生はでこぼことした山道をタッタッと早足で歩きながら、あんなやぶ医者のアドバイスなんか聞くもんかと思いました。
ですが一方で、なぜウラジミーコが遠吠えを自分にすすめたのか、考えあぐねてしまうのでした。(気にするなと言われたらますます気になるじゃないか!)そうして釈然としないまま夜道を歩き続けていたら、はたとあることに気がつきました。
「待てよ。あいつは、私がそもそも遠吠えする動物であることを、つまり犬であるということを、すっかり見ぬいていたということか?」
ワンコフスキーはそれに気がついた途端、恥ずかしさで体じゅうが熱くなるのを感じました。そして、身につけていたシルクハットやマスク、サングラスを道端にすっかり放り投げると、その場にへたりこんでしまいました。
立ち上がれないまま、ふと夜空を見上げてみると、そこにはだいだい色の、大きな満月がワンコフスキーを見下ろしているのでした。満月を見るのは久しぶりのことです。
満月としっかり目を合わせながら、ワンコフスキーは遠吠えの意味についての知識を引っぱりだそうとしてみました。
(医学書にはたしか、「遠くにいる仲間に存在を知らせる機能を果たす」とか、「緊張状態を解き、飢えや緊張によるストレスを発散させる」、などと書いてあったはずだ。私がまだ助手のとき、父上にもたしか、そう叩きこまれた)
けれども、何か違う。ワンコフスキーはそう感じて、どんどん記憶の糸をたぐり寄せていきました。そして、まだワンコフスキーが子どもの頃に、満月を父さんと一緒に眺めながら、はじめて遠吠えをした夜のことを思い出したのです。
(お手本だよ、やってごらん)
と、大きな遠吠えをする父さん。それにならうように、まだ小さなワンコフスキーが、父さんの見よう見まねで夢中で遠吠えをしたあのときのこと。森の落ち葉の、クセがあるけれど香ばしく、でもふくよかな温かみのある、あのにおい。大きな森が、自分の存在をまるごと包みこんで、勇気を奮い立たせてくれるようなあの感じ。
そのときワンコフスキーは、父さんと競いあうように何度も大きく息を吸い込みながら、夢中で吠え叫びました。
心のどこかにいつのまにか鍵をかけられて閉まってあったその記憶を、ようやく取り出したそのときでした。満月のだいだい色の熱が点火したのか、ワンコフスキーは、全身の血がしだいに熱く沸き立ってくるような気がしたのです。
次の瞬間、
ウォォォォォォン……
ワンコフスキーはすっくと立ちあがり、あごを夜空に向かって高く高く突き出し、ひとつの長い遠吠えをしました。
ひとつすると、またひとつ、またひとつと、次から次へ遠吠えがあふれてきました。
そしてひとしきり吠え終わったとき、この森のすべてのにおいーー獣や鳥、虫、土、葉っぱが混じりあった、生きものたちのにおいが、ぶわっと自分の前に立ちのぼってくるのを、はっきりと感じたのです。
それはまぎれもなく、父さんと一緒に初めて遠吠えをしたときの、あのにおいと同じでした。
そのとき、ワンコフスキーはようやく理解したのです。自分の嗅覚には、医者の道具という以上に大切な意味があるということを。すべての犬にとって、鼻でにおいをかぐことは、犬が犬らしくあるための大切な誇りなのだということを。
すると、
ニェェェェェェ……
歩いてきた西の山のほうから、遠吠えがひとつ聞こえました。
まるでワンコフスキーへの返事のような遠吠えでした。
それは明らかに犬やオオカミのものではなく、どこかぎこちなくて、こっけいな響きのする遠吠えでした。けれどもワンコフスキーは、決して笑ったりはしませんでした。
なぜなら、その遠吠えから伝わってくる空気のにおいをかぎとると、それがウラジミーコのものだとはっきりとわかったからでした。
(おわり)