鐘の鳴る木
老紳士は紅茶にジャムを入れながら言った。
「おぉ、これはこれは。このような場所に迷い込んでお疲れでしょう。丁度紅茶を淹れたのですが、よろしければ一杯いかがですか?」
「は、はぁ。これはどうもご丁寧に」
私は白昼夢でも見ているのかと思った。
こんな森深い山奥の場所に老紳士がアフタヌーンティーを楽しんでいる場面に遭遇するだなんて夢にも思わなかったからだ。
見れば見るほど不可思議な光景だ。
リーンリーンとどこからともなく涼やかな音が聞こえ、大きな木の下では英国式のように白い丸テーブルと意匠の凝った椅子に老紳士が座っている。
その老紳士は、パリッとしたカジュアルなスーツを着こなして、紅茶を淹れて香りを楽しんでいた。
それに対して、私はどうだろうか。
山の寒気に耐えらえるように防風用のジャンパーを着て、足元なんて泥で汚れている。この場面だけ切り取って、どちらの方がが場違いかと誰かに尋ねようものならば、私の方が場違いであると誰もが言うに違いない。
しかし、本当に不可思議なのは老紳士の方だ。
私は、会社の同僚と共に登山に訪れたのだが、山の天気が崩れたせいで不幸にも遭難してしまった。自分の今いる位置がわからない不安から、私たちは元の道に戻ろうと半日ほど彷徨っていたら、拓けた場所にたどり着き、この目の前にいる老紳士と出会ったのだ。
何者なのだろうか。
一緒に遭難していた同僚の彼も、私と同じように驚いた後に、老紳士に対して何かしらの考えを巡らせているに違いない。まったく、気分転換に登山を誘った彼には悪いことをしてしまったと心の中で謝る。
「お茶受けにスコーンもどうですかな? ジャムをたっぷりつけると、疲れた体がとても喜ぶことかと思います」
温かそうな紅茶と甘いお菓子を見て喉がゴクリとなった。
遭難で疲れた私は欲求に耐えられず、老紳士の勧めるまま席に座り紅茶とスコーンをいただいた。甘くて美味しいそれらは、確かに疲れた体を癒してくれた。
「お菓子と紅茶ありがとうございました。おかげで人心地がつけました」
「いえいえ困った時はお互い様というやつですよ」
この頃にはすっかりと警戒を解いた私は、迷惑ついでに尋ねてみた。
「実は私たちは遭難していまして、ここは一体どこなのでしょうか? お世話になって大変恐縮なのですが、帰る道を教えていただけないでしょうか?」
「なるほど。やはり、あなた方は遭難者だったのですね。そうですなぁ。それでは、ご質問に一つずつお答えしましょう」
老紳士はこちらを労わるように、ゆっくりと話し始めた。
「まず、ここは鐘の鳴る木が生える場所です」
「金の成る木ですか?」
「いえいえ、マネーの方ではなく、ベルの意味での鐘のなる木です。ほら、この木の枝の方を御覧なさい」
ちょうど私たちの頭上にある木を指差したので見上げる。
頭上には驚くべきことに、木の実のように枝から直接鐘が生えていた。
先ほどからリーンリーンと聞こえた音は、これのことだったのか。
「鐘が鳴っていますね」
「えぇ、良い音だと思いませんか?」
「えーと、はい。そうですね」
「そうでしょうそうでしょう」
この状況下でのんびりと音を聞く余裕はなかったのだが話を合わせた。
老紳士は、それで満足なのか「うんうん」と嬉しそうに頷く。
「そして、あなた方の帰る道ですが、これは申し訳ない。私ではわからないのです」
「そんな!?」
ホッとした安心感からか、楽観的に帰れるものだと思っていた私は愕然した。
「薄々とお気づきでしょうが、ここはあなた方のいる世界とは異なる場所なのです。そこにあなた方は、たまたま迷い込んでしまったのです」
実はそんな気は薄々としていた。
山奥で遭難していて、人がいるわけがないところに、こんな身なりの良い老紳士など果たしているだろうかと。
まるで御伽噺の中に迷い込んだ気がしていて、まさか当たっているとは思いもよらなかった。
「あぁ、では私たちは一生元の世界に帰れないのですね……」
悲嘆にくれた私は、ただただ悲しげに言う。
ところが、
「いえいえ、私はあなた方の帰る道はわかりませんが、帰るための方法は知っていますよ。これをあなた方にお渡ししましょう」
老紳士は私たちにとあるものを渡してきた。
私は手に取り、マジマジとそれを見る。
「これは呼び鈴ですか?」
「えぇ、鐘の鳴る木で作った呼び鈴です」
なるほど。確かに木に生っている鐘と同じ形をしている。
しかし、これが一体なんだと言うのだ。
そんな私の心を読んだように、老紳士はニコリと笑う。
「この呼び鈴を使いますと、3回だけ自分が会いたいと願った相手を呼ぶことができます」
「それは、本当ですか!?」
「これで、あなた方の世界に帰ったら救助隊の人でも呼べば、無事に家に帰えることができることでしょう」
「あぁ、良かった」
一時はどうなることかと思ったが、無事に帰ることができそうだ。
ようやく心から安心した私は、一緒に来た同僚君の肩を叩いた。
「同僚君。君にも悪いことをしてしまったが、私たちは帰れるらしいぞ!」
元々は自分が誘った登山だ。
無事に下山させる責任が私にはあり、下山できることを喜ぶ私とは対照的に、同僚君は私の手の中にある呼び鈴をじっと真剣な眼差しで見ていた。
「あの……すみません。一つだけ質問よろしいでしょうか?」
すると今まで黙っていた同僚君が老紳士に向かって質問を投げかけた。
老紳士は「いいですよ」と変わらない穏やかな様子で受けた。
「その呼び鈴を使えばどのような人間でも会えるのでしょうか?」
「えぇ。どのような人でもお会いできます」
「……不躾なお願いですが、私にもその呼び鈴を頂けないでしょうか?」
「もちろんいいですよ。最初からあなた方二人に一つずつ渡すつもりでしたから」
「ありがとうございます」
同僚君も老紳士から呼び鈴を一つ渡された。
彼は震える手でそれを受け取り、宝物をしまうようにぎゅっと握りしめた。
「あと最後になりますが、その呼び鈴は4回目以上は使用しないようお願いします」
「使った場合はどうなるのでしょうか?」
そういえばさっき3回までと言っていた。
御伽噺だと大抵は制限を超えた回数を使うと碌でもない目に会う。
この呼び鈴はどうなのだろうか?
「使用されないことを祈っております」
老紳士は明言を避け、胸に手を当てて静かに頭を下げた。
それ以上私たちは何も言うことができず、私は絶対に4回目以上を使うまいと肝に命じた。
「同僚君。君は、その呼び鈴を使って一体誰に会いたいんだい?」
「決まっているじゃないか」
ふと同僚の彼が誰に会いたいのか気になって聞いてみた。
すると彼は、泣くように笑って言った。
「僕が世界で最も会いたい人だよ」
私は「そうか」と一言だけ言い、老紳士に礼を述べてこの場から立ち去った。
そして、再び山の中へ戻った私たちは、老紳士の言った通り呼び鈴を使った。
使ったのは私の呼び鈴だ。
さすがにこの程度の責任は取らせて欲しいと同僚君に言って、救助隊に会いたいと願って呼び鈴をリーンと鳴らした。
すると、すぐに「おーい!」と呼びかける声が聞こえたので「おーい! ここだー!」と私は精一杯の声を張り上げて無事に救助された。
その後は救助された喜び、帰ってからは親族や会社の上司からのお説教をたっぷりに喰らったものの、よく無事に帰って来たと温かく迎えてくれた。
それからというもの後始末などの慌ただしい日々が続き、一月ぐらいだった頃だろうか。
ようやく生活が落ち着き、老紳士からもらって仕舞っておいた呼び鈴を手にした。
遭難して帰ってからというもの、ずっと胸の奥に同僚君の「世界で最も会いたい人」という言葉が残っていた。
だからだろうか。
私は呼び鈴を一度鳴らして願ってみた。
「私の未来の妻に出会わせてください」
世界で最も会ってみたい人。
多分、遭難して命の危機に遭わなければ意識しなかったことかもしれない。
死ぬとき、できることなら誰かがいて欲しい。
そう願ったのだ。
するとピーンポーンと部屋のチャイムが鳴った。
さすがは呼び鈴だ。仕事が早い。
私はガチャリとドアを開けた。
そこにいたのは、同じ会社で仲の良かった女性だ。
彼女は私が遭難していたことを知り、ずーっと心配していてくれたらしい。
互いに想い合ってはいたが、今の気ままな生活と良好な関係性が崩れることを危惧して、踏ん切りがつかなかったが今日は違っていた。私が「結婚しようか」と言うと彼女は「いいよ」とあっさりと返事をもらえた。
今までの煮え切らなさが何だったのだろうかと言うぐらい、あっさりしたものだったが、胸の中は温かな気持ちに満ち溢れていた。
そして、数ヶ月が経って彼女との結婚が間近に迫ったとき、同僚君が失踪したと上司から告げられた。
会社の面々は「どうしたのだろうか?」「心配だ」と口々に言って戸惑っていたが、私は彼が失踪した事態についてピンと来ていた。
彼はきっと呼び鈴を4回以上使用してしまったのだろう。
私は部屋の中に厳重に仕舞っていた呼び鈴を再び手にした。まだ2回しか使っていない呼び鈴なので、後1回使用が可能だ。
もちろん、会いたい相手は決まっている。
「呼び鈴よ。私をあの老紳士にもう一度会わせて欲しい!」
リーンと鳴らすと、目の前がぐにゃぐにゃと歪んで、懐かしい鐘のなる木が目の前にあり、前と変わらず老紳士はそこで紅茶を楽しんでいた。
「これはこれは。もう一度お会いできるとは思っていませんでしたよ」
「えぇ、私もです」
本当に会うつもりなどなかった。
だが、さすがに会わないわけにもいかなかった。
「あなたに一つ聞きたいことがあります」
「何でしょう?」
「私の同僚君が失踪しました。もしかして、彼は呼び鈴を4回以上使ったのですか?」
「えぇ、彼は呼び鈴を4回以上使いましたね」
老紳士は何事もなかったかのように言う。
確信はあっても、確証はなかったので、老紳士の言葉を聞いてようやくストンと納得が腹に落ちた。
「同僚君は、亡くなった奥さんとはもう一度会えたのですね?」
そうだ。彼は世界で最も会いたい人に出会えることができたのだ。
その人物とは、彼の亡くなった奥さんだ。
「えぇ、彼の方は奥さんを呼び鈴で3回呼びました」
「やはり……そうでしたか」
どんな人間でも呼び出すことができる呼び鈴。
まさかとは思ったが、死者すらも呼べるとは思わなかった。
ハァと私は深い深いため息をついた。
「私は、彼を登山に付き合わせるべきではなかった。元々は、奥さんが亡くなって落ち込んでいた彼の気晴らしになればと思っていたのに、こんなことになるだなんて」
「いいえ。あなたが気に病むことではありませんよ」
そう言われても、気に病まずにはいられない。
「……教えてください。呼び鈴を4回使うとどうなるのですか?」
彼が失踪した理由はわかっても、結局彼がどうなったかはわからない。
私は巻き込んだ人間として、その結末を知らなければならない。
「それを教えるには、あなたが持つ呼び鈴を返してもらう必要がありますが?」
「構いません。どうぞ」
もはや3回使った呼び鈴だ。
不要どころか4回以上など恐ろしくて使う気にもならない。
どんな恐ろしいことが4回目に起きるのか。
唾をごくりと飲み込み老紳士の言葉を待った。
「では、教えましょう。あの呼び鈴を4回使うと『呼び鈴を持っている人に、最も会いたいと願う相手から呼び出される』のです」
「呼ぶのではなく呼ばれるのですか……?」
「はい。その通りです」
「それだけですか?」
「それだけです」
拍子が抜けてしまった。
てっきり、願いの代償ということで、4回目以上は死ぬとかひどい目にあうとか、そういう類を想像していたのだ。
老紳士は続けて言う。
「あなたの同僚に最も会いたいと願った人は、亡くなった奥さんなのですよ。そして、あなたの同僚は奥さんと共に在ることを望み行きました」
私は驚きのあまり言葉を失った。
死者を呼び出せるだけではなく、死者からも呼び出すことができるのかと。
そして、同僚君は死者と共にあることを選んだ。
「だから私はあなたに言ったのです。気に病むことはないと」
そこまでなのか。
そこまで彼は、自分の奥さんのことを愛していたのか。
「確かにそうですね。彼は私から見てもとても幸せな生き方をしたのだと思います」
私は、彼のその意志に素直に感服していた。
いっそ妬んでしまいそうなほど、彼の愛がまぶしく思えた。
しかし、一つだけ疑問が残る。
「でも、どうしてあなたは呼び鈴を4回鳴らすことの意味を教えてくれなかったのですか?」
「あぁ、それはとても簡単な理由ですよ」
4回目の理由を教えてもらえば、あそこまで言わなくても、使う使わないは使用者の意思に任せてもいいような気がする。
しかし、私は老紳士の言葉であっさりと意見を覆すことになる。
「自らが最も会いたいと願う相手から、必ずしも会いたいと願われない可能性があるからです。実のところ互いに会いたいと願いが一致するのは稀なのですよ」
「それは……そうですね」
会いたい相手を願っても、会いたい相手から願われない。
どころか。
一番会いたくない相手から、会いたいと願われるかもしれない。
「今の話を聞いて、あなたはもう一度呼び鈴を使いたいというのであれば、お渡しすることもできますが?」
「いいえ結構です」
私はすっぱりと老紳士の誘いを断った。
なぜなら。
「私は、会いたいと願った相手に出会えたことで十分に満足ですから」
願うのと願われるのと、人によってどちらが幸せなのかは一生のテーマなのかもしれませんね。