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第三話 大坂の陣


 夏も終わりに近づきまして、榛名山からの風も幾分か涼しく感じられるようになりましたかな。この時期であれば榛名山に夕菅が咲き乱れておる頃合い、揺れる花も如何ほどかと。いや、私もこの歳でございますから、遠目も利かなくなっておりまして、花を目に納めることもできません。姫様、夕菅の花は見えますかな? 流石に遠目が利いても、あの小さな花をここから見ることはできないでしょうが。

 それにしても聞きましたぞ。信吉様と信政様が大坂の陣よりご帰還なされました折、どちらかが討ち死にすれば我が家も忠義を全うできたものを、とおっしゃったとかで。忠勝様も討ち死に覚悟で戦に出られることもありましたが、死なずに済む戦で命を落とせとまでは言ってはおりませんでしょうに。とはいえ、姫様のお気持ちも分からぬではないのです。関ケ原でのことでございましょう。

 家康様が天下をお取りになったあの戦で、徳川方が唯一負け戦をさせられたのが上田城でのこと。信之様のお父上である昌幸様は戦上手で知られた名将で、その昌幸様が天下の堅牢・上田城に籠っていては、十万の大軍とて抜くことはできますまい。それは攻め手である秀忠様が弱かったのではなく、真田が強かっただけのこと。事実、攻め手の中には信之様を始め、榊原康政様、大久保忠佐様といった錚々たる名が並んでおりました。並の武将であれば、その名を聞いただけで逃げ出すことでしょう。

 ただ、いつまでも籠城戦を続けることはできず、関ケ原での勝敗が決したために、城を明け渡さなければならなかった。城は明け渡せばそれで済む話ではありますが、城に籠った将兵の身柄は明け渡しただけでは済まされません。特に昌幸様と信繁様の処遇は重大事でありました。生かすべきか殺すべきか。関ケ原での失態を家康様に叱責された秀忠様は強硬に死罪を求めておりましたし、おそらく徳川の者の多くが秀忠様と同様に思っていたことでしょう。家康様の跡を継がれるのが決まっている秀忠様の主張に異を唱える者などいるわけがありません。誰しもそう思っていたでしょう。併し、ただ一人、面と向かって異を唱える者がおりました。忠勝様でございます。

 忠勝様からすれば、真田とは縁戚関係を結んだ間柄、昌幸様や信繁様は義理の息子の父と弟ですから、助命を嘆願するのは当然とも言えますが、私にはそれだけとは思えませんでした。その理由は、忠勝様が武人であるということ。長篠の戦いが終わった時、忠勝様はこうおっしゃったそうです。武田の優秀な武将を多く失った、これ以降、戦で血が騒ぐこともあるまい、と。昌幸様や信繁様に対してもそうだったのではないかと思うのです。武将として、失うのが惜しいと。そこで命を奪うのは容易いけれど、そこで命を失わせるのは惜しいと。それは二十七年前の借りを返すと同時に、年老いてなお乱心者の武士の情けを忘れてはいないという矜持を示して見せたのでしょう。私はそう思うのです。忠勝様にも武田の精神が影響していたのかもしれません。

 とはいえ、忠勝様の本当の本心を知ることはできません。併し、忠勝様から嘆願された家康様の心中は知ることができます。これまで何も言わず付き従ってくれた忠臣が初めて口にした頼み事である、無下に扱うことができようか。そう思ったのでございましょう。事実、忠勝様お一人だけの嘆願を容れ、昌幸様と信繁様は九度山に配流されるに留まりました。

 併し、これがいけなかったと、姫様を思っておられるのですね。昌幸様は亡くなりましたが、その昌幸様から兵法を伝授された信繁様が大坂の陣でどれほどのご活躍をされたか。それは真田に取って誇らしいことではありますが、同時に徳川に取っては屈辱とも言えることでしょう。一度ならず二度までも、と。ですが、この二度目の屈辱は防ぐことができたはず。関ケ原のあの時、昌幸様と信繁様を生かしておかなければこのようなことにはならなかったでしょう。そうだとすると、遠因はお二人の助命を嘆願した忠勝様、延いては本多家にあったのだと、そうお思いなのですね。姫様は忠勝様の娘、本多の娘でございますので。昌幸様と信繁様を生かしてしまった責任を、本多が取れなければならない。ですが、姫様、その責任は既に本多家は取っております。それはあなたの優秀な弟君、忠朝様は忠勝様によく似た武人でございました。実に見事な武者振りであったとお聞きしております。ただ、酒が少々過ぎた感がありますが。

 いや、忠朝様の話は忠朝様の名誉のためにこれくらいにしておきましょう。とにかく、本多家は責任を取り、忠義を立てておりますので、姫様が気に病むことはございません。

 それにしても姫様は、信繁様の残した一つの言葉が気になっているご様子ですね。それは怒りでしょうか。なるほど、姫様はそう感じておられるのですね。

 関東百万と候えども、男は一人もいませし候。

 姫様がお怒りになるのも無理はございません。徳川方は二十万の大軍で以って豊臣方を攻めましたが、信繁様が野戦を終えて大坂城に撤退する際、信繁様の武勇を恐れて誰一人と追撃することができなかった。それを情けないことと思っておられるのでしょう。

 では、ここで一つ、昔話をさせていただきたいと思います。

 むかーしむかし、あるところに忠勝様という侍がおりました。いやなに、以前にも聞いた覚えがある? 話は最後までお聞きいただきたい。これはとある旧臣ではなく、私が直接見たことでございます。

 私は忠勝様に取り立てられて、忠勝様付きの船頭及び、合戦に於ける馬引きの役を仰せつかっておりました。これは家康様が秀吉様と雌雄を決するために行った小牧長久手の戦いでのことでございます。家康様は五万、対する秀吉様はそれに倍する十万の大軍でございました。家康様は緒戦を制し、小牧山城を奪取することに成功致しましたが、豊臣方に属した戦上手で知られた堀久太郎殿が前衛部隊を指揮し、小牧山城の家康様と三河本国とを遮断するために、その中間に兵を進めました。家康様はそれを察すると、すぐに取って返して久太郎殿と対峙いたしましたが、双方共に戦上手、戦線は膠着状態に陥りました。すると、秀吉様は残りの全軍を率いて家康様を追い、龍泉寺川の畔に迫っておりました。小牧山の将兵は、秀吉様が小牧山城を素通りして家康様を追っていこうとしていることにすぐに気が付きました。併し、城主を任された酒井忠次様は佞臣石川数正の翻意を警戒して出陣することができませんでした。それを知った忠勝様は忠次様に代わって出陣し、手勢を率いて家康様の救援に向かい、龍泉寺川の対岸で秀吉様の大軍の前に割って入ったのです。秀吉様の大軍は八万、対する忠勝様は僅か五百。数の上では有利不利は決しておりました。ですが、秀吉様は兵をそれ以上進めることは致しませんでした。忠勝様は峠の一本道に陣取っており、攻めるに数の優位を発揮しづらいこともありましたし、何より、そこにいるのが古今独歩の勇士、本多忠勝であると分かったことで、無理攻めを諦めたということです。

 忠勝様と秀吉様の間でどれだけの時が流れたでしょうか。ふと一迅の風が吹いたかと思うと、忠勝様は私が綱を引いていた三国黒に飛び乗り、ゆっくりと龍泉寺川に近付いていきました。そして、川の際で降りたかと思えば、三国黒に川の水を飲ませ始めたのです。馬に水を飲ませるのは、これから馬を駆って行軍することの意も含んでおります。それは秀吉様も分かっておられたことでしょう。忠勝様が三国黒に水を飲ませる間、そこには如何なる騒擾もありませんでした。夏の静かな昼の光と、川に落とされる波紋と、忠勝様を見守る十数万の瞳があるだけでした。

 そして、忠勝様は三国黒に乗り、秀吉様に背を向け、ゆっくりと峠の一本道を登って行かれました。その時、忠勝様は私にこう言ったのです。

 やはり戦場で血が騒ぐことはなくなった、と。

 これは誰かに似ておりませんか? そう、大軍を背にしているにも関わらず悠々と去っていく、忠勝様と信繁様はよく似ておられます。

 私は忠勝様が武田の影響を受けたのではないかと言いましたが、これは逆に、信繁様が忠勝様の影響を受けたのではないかと、そう思うのです。本多と真田とが、何か一つのもののように感じられるのです。

 ですから姫様、真田を憎んではなりません。それは本多を憎むことと同義。本多は徳川家随一の忠臣であり、乱心者の武士の中の武士でございます故。

 家僕の身で何か説教臭い話になり申し訳ございません。この説教は私の無礼だと思ってくださいませ。それで、その無礼ついでではございますか、一つだけ我侭を。誠に勝手ではございますが、お暇をいただきとう存じます。私も七十をとうに越え、いつあの世よりお呼びがあっても不思議ではございません。せめて死ぬ前に、郷里に帰って挨拶でもして回りたいと思っております。

 褒美? いや、そのようなものは私には勿体のうございます。姫様に仕えさせていただいただけでも幸せ者でありました。……どうしても持っていけと? それでしたら、玉手箱に反物を一反いただけましたら。反物は神社にでも奉納し、村には空の玉手箱と土産話だけで十分でございましょう。

 村を離れて三十数年、お前を覚えている者もいないだろうとは、確かにそうかもしれませんが、漁師仲間の松蔵は覚えているでしょう。松蔵が既に亡くなっていて、村に見知った者がいない時、何と名前を答えるか?

 そうですな、さしあたって、浦島太郎、とでも答えておきますかな。

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