葛の葉さんは今日も笑顔でうどんをすする
都神俊哉は一見、どこにでもいる普通の二十四歳の社会人である。大学を卒業後、難なく就職することができ、最近ようやく仕事にも馴れてきた。勤務態度は至って真面目、特に特徴のあるような人物ではない。背は一七〇センチほど、一見華奢に見えるが少し引き締まった体型、特に特徴のない黒髪。どこにでもいそうな容姿の青年である。これといって特徴的なのは黒い縁の眼鏡ぐらいしかないが、黒い縁の眼鏡なんてどこにでも売っているので強い個性にはなり得ない。
つまり、彼はこれといって特徴のない青年であった。
そんなどこにでもいる普通の青年の生活は―――――、
「晩御飯まだー? お腹空いたー!」
「だーっ! 少しは静かにできねえのかこの狐耳! 俺は明日までに調査書を提出しなけりゃならんのだ! 家主の仕事を邪魔するんじゃない!」
「そんなこと言って、昨日の夜もコンビニ弁当だったじゃないー! お昼だってアンタが仕事でいない間はインスタントラーメンしか食べてないのよ。それも四日連続で!」
「はあ!? お前はインスタントラーメンに文句があるのか? ○ちゃん製麺だぞ? 充分だろうが」
「いやいやアンタねえ、インスタントラーメンが四日も続いたら流石に飽きるわよ。そんな訳で今晩はきつねうどんにしてよね。い、言っとくけど別にアンタの手料理が恋しくなったとか、そういう訳じゃないんだからね!」
「はいはい。はあ、ラーメンもうどんも麺類に変わらんだろうが」
「はあ? 何を言っているの? うどんとラーメンの区別もつかないなんてどうかしちゃってるわ」
「わかったわかった。今度ラーメンの上に油揚げ乗せといてやるから」
「ちょっと! 油揚げに何てことをするのよ! 油揚げに謝りなさいよ!」
―――――全然、普通じゃなかった。
そもそも俊哉と話をしている相手の姿が既に普通ではない。背の低い小顔の少女である。歳は見た感じ十八歳くらい、大きな目に茶色の綺麗な長髪。
見た目だけなら間違いなく美少女にカテゴリーされる彼女が同じ部屋にいるという時点で、普通等という曖昧なものは既に消失しつつあるがそれに追い討ちをかける要素があった。
耳。茶色の頭の上にちょこんと乗った狐の耳、そして背中に見える大きくふさふさした尻尾。説明しておくが別にコスプレしている訳ではない。
「はあ、そんなに文句が多いなら他の奴の所に行けばいいんじゃね? 少なくともここよりまともな待遇の所もあるだろうし」
「絶ッッッッ対に嫌! アンタ馬鹿なの!? 私はアンタが気に入ったからここに来たのよ!? 私に気に入られたんだから少しは喜ぶのが普通でしょ」
何とも身勝手な言い分であるが彼女が気に入るきっかけを作ってしまったのは他ならぬ俊哉なのだった。それにこの狐耳の彼女が俊哉のことを気に入っていようがいまいが彼女には行く宛などないのである。半ば引き取る形となってしまっていたため、追い出す訳にもいかずに居候の許可を与えているのだった。
そしてこういう場合、大抵折れるのは俊哉なのである。
「ったく、わかったよ。この調査書書き終えたら飯作ってやるから、もう少しだけ待ってくれ」
「もう充分待ってるんだけど」
「なら○ちゃん製麺で」
「あと十分待ってあげるから早くしてよね」
きゅるるるる、という可愛らしい音がした。真っ赤になりながら近くに落ちていたクッションに顔を押し付ける狐少女。
それを見た俊哉は溜め息をつきながら、まだ途中の調査書編集を中断して台所に向かう。
「甘やかさないように心がけているつもりなんだけどなあ」
材料は先日大量に購入したからある筈だ。油揚げもあるし、今から麺を打てば三十分ほどで出来上がるだろう。彼女は十分待つと言っていたが、彼女のリクエスト通りの品を作るのだから多少は許してくれる筈だ。
「まあ、飯食ってからでも報告書はまとめられるしな」
少し笑みを浮かべながらそう呟いて俊哉は調理に取りかかった。
◆◆◆◆◆
「はあ……幸せ~」
これ以上にない笑顔でうどんを食べながら彼女は本当に幸せそうにそう言った。油揚げを一枚多く乗せておいたのは正解だったかもしれないと、俊哉はうどんをすすりながら思ったりもする。
「やっぱり俊哉の打ったうどんは美味しいわね」
「何だ、俺の手料理に満足してるのか?」
「勿論よ。はあ……幸せ」
「満足してもらえて何よりだよ」
俊哉はうどんを食べ終わると、食器を流しに置き、再び仕事に取りかかる。食事の時間、僅か五分。
「報告書って例の依頼の?」
狐少女は油揚げを頬張りながらパソコンに向かう家主に問いかける。
「ああ、期限は一週間だったからな。明日依頼人に調査報告しないといけないんだよ」
俊哉は町の探偵事務所に勤務している。確かに就活を真面目にやって、複数の会社から内定を勝ち取った彼の選んだ道にしては意外な選択だった。友人の誰もが耳を疑うほどだったし、初出勤の日に「何故この仕事を選んだのだろう」とふと考えることもあった。
探偵事務所といっても人探しや人物調査、それ以外の様々な比較的平和な依頼が多く、事件を解決するようなそんなものは仕事の範囲外である。したがって眼鏡をかけた頭脳は大人な小学生がいる訳ではないし、 相棒の医師と共同生活している顧問探偵も、名探偵を祖父に持つIQ一八〇の高校生も登場しない。
今回彼が受けた依頼は迷子になった愛犬を探し出してほしいとのことだった。
「一週間前に隣町で目撃情報あり……っと」
ぱちぱちとキーボードを打つ音と彼の独り言、そしてうどんをすする音。自由奔放な狐少女は汁まで飲み干して(大人二食分)完食すると食器をそのままにごろんと横になる。仕事が片付くまで俊哉は構ってくれないし、隣の部屋には彼の漫画部屋(総冊数八〇〇冊、タイトルは一〇〇以上)があるが、今はそんな気分ではない。今日のこの時間帯はテレビも面白い番組はない。
と、すれば取る手段は一つしかない。
「俊哉ー! 暇ー」
「うるせえな! あと少しなんだ。頼むからあと一時間はそっとしてくれ!」
「えー、せっかく私の作った式神を使って俊哉にご奉仕してあげようと思ったのにぃ」
「っておいっ! そのミニ狐をこっちに飛ばすな! こらあっ! 人の仕事を邪魔するんじゃねえ!」
「だって暇なんだもん」
構ってもらえないのなら自分から絡みにいく。
何とも迷惑な話である。仕事の邪魔をするとまでは言わないが、狐少女の飛ばした手乗りサイズの白狐が俊哉の周りでじゃれている。
「頼む、仕事をさせてくれ。葛の葉さんお願いします」
葛の葉と呼ばれた狐少女は意地悪そうな笑みを浮かべ、召喚したもう一匹の白狐とじゃれながら言う。
「私は何もしてないわ。ほら、手が止まっているわよ」
「てめっ、このミニ狐を何とかさせてから言いやがれ」
ミニ狐はミニ狐で、こーん!などと楽しそうに鳴いている。泣きたいのはこっちの方だと俊哉は思いながらキーボードを打ち込んでいく。流石に二年間仕事をしていればそれなりに要領もわかっている。俊哉は楽しそうにじゃれているミニ狐を無視して仕事のペースを上げた。
◆◆◆◆◆
「うにゃ……もう…食べられないって……」
「夢の中でも食べてんのか。あんだけ食っているのになんでそんなに身体細いんだよ」
俊哉と絡む(もとい仕事の邪魔をする)のに飽きた葛の葉は幸せそうに笑って眠っていた。俊哉は呆れたようにそう言って、横になっている彼女を起こさないよう気を遣いながら抱え上げ、彼女のベッドへと運ぶ。所謂お姫様抱っこである。ふさふさしていて、つい触りたくなる誘惑を振り撒く尻尾を踏まないように慎重に。
足下で彼女が召喚したミニ狐二匹がついてくる。
「(お日様の匂いがする)」
そんなことを考えながらゆっくり彼女をベッドに下ろし、布団をかける。そして、静かに部屋の扉を閉めると再び仕事の仕上げに取りかかった。
さて、お姫様抱っこでベッドまで運ばれてきた葛の葉だったが、実は俊哉に抱えられた際に目を覚ましていた。眠っているふりをしたのは薄くぼんやりと見えたのが俊哉の顔だったからだ。それも近距離である。彼女が俊哉と同じアパートに住むことになったのも彼女が俊哉を気に入ったからなのだ。
「(な、何をどきどきしてるの私!? 相手は俊哉よ!? はあ、顔熱い……)」
去年、京都の山で彼に命を救われ、その時に大怪我をした彼の看病をしているうちに、遠い昔に同じようなことがあったことを思い出し、そして同じような感情を抱いていたのだった。そして何より、彼はどこかあの男によく似ていた。容姿ではなく、雰囲気や彼女に向けられた笑顔が昔会ったあの男にそっくりだったのだ。
「(……お姫様抱っこしてもらっちゃった。俊哉って結構逞しいんだ……はっ!? な、何を考えているの私っ!?)」
葛の葉は彼女の枕元でもぞもぞしているミニ狐の姿を札に戻し、恥ずかしさで顔を枕に埋めた。
彼女は俊哉に抱いている感情に対し否定的だがそれは本物である。
間違いなく彼女は彼に恋をしていた。
◆◆◆◆◆
実のところ、俊哉も葛の葉に恋心を抱いているのだが、それは小さな子どもの面倒を見る程度の感情であると考えているため、彼もまた、この気持ちが恋であることに気づいていないのだった。
先ほど自然にお姫様抱っこをしたが実は彼女の息遣いや、手から伝わる彼女の温もりに緊張していた。しかし、
「(葛の葉相手に何を考えているんだ。失礼だろ俺。確かにお日様の良い匂いがしたし、寝顔も可愛いけど!)」
と、自分の気持ちは一方通行であると勘違いしたままである。
都神俊哉と葛の葉。
前途多難な二人組の出会いと恋に落ちるまでの数日間は、あまりにも現実味のないものであったが、それはまた別の話である。