優しい時間の五日目
今日は午前中だけのシフトで、早々に帰る。特に行く所もないし。そう思いながら自転車のスピードはいつもより早くて、何となくわざとゆっくり漕ぎ出した。
昨日、幾つかキヨの事が分かった。
メロンパンが好き。難しい事を考えているのが好き。エッセイやビジネス書が苦手。
他にも、私と同い年だという事や料理は未経験だという事、裁縫は少し得意だという事が分かった。
だけど、根本的な部分は結局知らないまま。どこに住んでいるのかとか、ここに来る理由とか、いつもは何をしているのかとか。私も聞かなかったし、キヨも言わなかった。踏み越えてはいけない何かが、そこにある気がした。
「おかえり。」
―……ただいま。早くない?今まだお昼だよ。
「そう?別に夕方来る事にしている訳じゃないし。」
それはそうだろう。一昨日の雨の日も昼すぎだったし。でも、いつもそこにいる気がするんだけど。
しかもおかえりって。もうそこはキヨの場所なんだね。
―どうしてここなの?
「ん?」
―どうしてこの場所じゃなきゃいけないの?
どこに住んでるか知らないけど、もっと家の近くとかに
好きな場所ないの?ずっと気になってた。
純粋な疑問。どうしてこのブロック塀の上にこだわるのだろう。キヨの気持ちを知りたかった。
「邪魔?」
―え?
「僕がここにいたら迷惑?」
―いや、そういう意味じゃなくて!
キヨが、いなくなる!
「近くにこんな高くて開放的な場所、ないから。」
そう言ったキヨの声は少し冷たくて、触れたら壊れてしまいそうに脆かった。昨日名前を拒んだ時の、あの表情が浮かんでいて、私は歯を食いしばった。こんな顔させたい訳じゃない。
「僕の周りは閉鎖的で、じめじめしてて。
空気がすごく淀んでいる気がして、嫌いなんだ。
でもそこにしかいられない事も解っているから、
ずっと、ずっと我慢してきた。」
泣いてしまいそうなキヨに、私は近付けないまま立ち尽くしている。
「偶然ここを見つけて、この上は気持ち良さそうだなって。
下にある澱んだ空気に触れずに、深呼吸できそうだって。
自分を認めてあげられそうな、場所。
……だからここに来るんだ。」
―深呼吸は、できた?
「…うん。人生で一番綺麗な空気で。」
そうやって微笑むキヨは本当に幸せそうで、私も素直に嬉しくなった。
―もうここはキヨの場所だね。
「勝手に座ってるだけだけどね。」
―良いんじゃない?誰も来ないし。
「うん。じゃ僕の場所にしちゃおう。
あ、冴栄は座っても良いからね。」
もう完全に自分のものとしたらしいキヨは、そんな事を言う。同じ所にいる事を良いと言ってくれただけで、テリトリーに入る事を許されたような、そんな気がした。
―キヨは、私の事受け入れてくれるんだね。
まだ会ってたった五日なのに。
その五日という期間は、人が私を受け入れるには短すぎて、レッテルを貼るには十分すぎて。
「それは冴栄もでしょう?
たった三日で僕を部屋に入れて気遣ってくれた。」
―……それは人としての道理、よ。大した事じゃない。
「じゃ、僕も大した事じゃない。
寧ろ僕はもてなしてもらっただけだし。」
知り合う人が皆キヨのようなら、どんなに幸せだろう。あんな可愛げのない私を見せているのに、こうやって言ってくれる。それが私にとっては十分すごい事なのだと、きっとキヨには伝わっていないだろう。
―私達は、ロボットじゃないもんね。
自分を認められる場所を作っても良いんだよね?
生きるのが楽しい場所を探しても良いんだよね?
声が震えるのを止められない。込み上げる熱が頬を流れていくのを止められない。
「うん。いいよ。
冴栄がいたいと思える場所を選んだら良い。
僕がここを選んだように。」
声が降ってくる。優しい優しい声が。きっと初めて会った時と同じ、綺麗な顔で微笑んでいるだろう。涙が溢れて顔を上げる事すらままならないけれど、分かるよ。
一歩、二歩、三歩。引き摺るように近付いて、目の前のズボンの裾を握る。
家族以外の誰かといて、こんなに心休まる事はなかった気がする。
キヨ、ありがとう。
涙を流すままにして、俯いて、小さな嗚咽を洩らす。そんな私の頭を優しく撫でてくれるから、もっと涙が止まらなくなった。