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夜営地の岩場は、奥へ入りこめば入りこむほど岸壁の背が高くなり、ついには渓谷というほどにまでせり上がってアレスを見下ろした。
煌々とした星明かりの下で、砂地の上の足跡がはっきりと見える。勘は間違っていなかった。ほどなく、前方から子供が走ってくる息遣いが聴こえた。
「どうした!?」
それは小さな女の子で、アレスを見ると少し驚いたようだったが、人間の姿を見て安心したのか、彼の胸に飛び込んできた。
「どうしたんだい? お化けでも見たみたいだね?」
アレスは膝をついて女の子の目線で話し掛けた。女の子は、まだ驚愕に表情を凍り付かせて肩で息をしていたが、わななく唇でなんとか事態を大人であるアレスに報せようと言葉をしぼりだした。
「お、お、おっきなトカゲ……! お兄ちゃんたちが!」
残る二人の子供のことだ。アレスは血相を変えて立ち上がった。
「夜営地に、さっきみたいに走って逃げるんだ、いいね!」
言い付けると、アレスは猛然と走りだした。
すぐ先の暗闇で、松明の炎が右に左に激しく踊っている。男の子が、必死に何かを威嚇しているのだ。
ぬめる鱗が星と松明の光で衒っている。その大きさは、人の身丈の倍ほどの体を持つ砂漠の古代種、人喰蜥蜴だ。哺乳類の肉食獣と違って、その表情から獰猛な性格はうかがい知れないが、その口の中には貪欲な肉食性を示す舌と歯を隠している。
男の子は、前後を二匹の人喰蜥蜴に挟まれていた。夜であることが幸いした。もし出くわしたのが、まだ冷え込んでいない夕刻だったなら、人間を凌駕する素早さを持つこの生き物の胃袋に、三人とも収まっていただろう。この古代種も爬虫類の例に漏れず、寒さに弱いのである。とはいえ、人喰蜥蜴の舌に巻かれれば、子供くらいは軽く丸呑みにしてしまう危険な動物だ。
二人の子供は半べそ掻きながら、懸命に松明を振りかざしていた。それでも、間合いをはかるように大蜥蜴がにじり寄ってくる。この肉食獣が、自分たちを貴重な栄養源として逃がすつもりが無いことを二人も理解していた。
アレスは風のように走った。そして剣を抜く。いつ人喰蜥蜴の長い舌が目にも留まらない速さで飛び出るか知れない。
背中を向けた一匹の背中まで五歩の位置にくるや、アレスは跳躍した。蜥蜴はアレスの接近に感づいたが、緩慢な動きはそれこそ止まっているのと変わらなかった。落下の勢いに自重を乗せて、人喰蜥蜴の背に剣を突き立てる。そして剣を捻り上げて確実に息の根を止めた。
しかし、一匹目の背中から剣を抜く間に、もう一匹の口から獰猛な舌が飛び出した。狙いは二人の男の子の方である。
アレスの剣がその舌を叩き斬るには、時間の流れを止める必要があった。
間に合わない! アレスの思考の冷静な部分が下した判断が、電撃のように神経を伝って身体を走った。それでもその身を子供と人喰蜥蜴の間に割り込ませようとした。だが、それは圧倒的に手遅れで、瞬きほどの間に男の子の一人が人喰蜥蜴のあけた大口に呑み込まれていった。人喰蜥蜴の喉が丸く膨らみ、その膨らみそのままに胴体にまで下っていく。
アレスは愕然とした。目の前で起きた惨い死を信じられなかった。体が凍り付いたように動かない。これではさっきの少女と同じではないか。子供らの救い手であるはずの自分が。
人喰蜥蜴は目的を果たしたとばかりに、地面の砂地に潜ろうと足をじたばたして砂を掻き始めた。放っておけば、ものの数秒で地面のなかに姿を隠してしまうだろう。
「あきらめるな!」
突然、アレスの前にどこからともなく一人の男が姿を現した。降って涌いたとでもいうのか。まさに彼はアレスの頭上から飛び降りてきたのだ。単に岩壁の上から飛び降りてきただけではあるが。
男は剣を抜き放つと大きく振りかぶり、逃げ出す人喰蜥蜴の首を素早く叩き落とした。血が激しく吹き出し男の衣服を汚したが、彼はかまわず、首を失ってもまだばたばたと手足を動かす人喰蜥蜴の体を足でひっくり返した。そして今度は腰から短剣を抜くと、手早くその白い腹を割った。注意深く、短剣を浅く刺して切り裂くと、どろどろとした内蔵の中に躊躇なく手を突っ込む。男は何かの手応えを感じて掴んだものを引っ張りだした。それはぬめぬめとした液体に汚れてはいるものの、間違いなく呑み込まれた男の子だ。男はそれでも油断なく男の子の容体を確かめる。男は深刻そうに呟いた。
「……呼吸をしていない」
その言葉を耳に捉えたアレスはうろたえたが、男の方はアレスに目もくれない。
男は冷静に子供の背を叩いて何かを吐き出させると、繰り返し人工呼吸を施した。
子供の口に何度目か息を吹き込むと、ついに男の子は咳き込んで息を吹き返した。あとは自分の力で呼吸を繰り返し始める。それを確認した謎の男は、安堵したかのように肩の力を抜いた。
「もう大丈夫だ」
振り返った血泥まみれの男、カーテーギュウはにっこりと頬笑んだ。