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ロンテスキン領、その日の昼下がり、クラウブ・ロンテスキンは職務をこなすべく馬上の人だった。すなわち、帝室より預かる外苑ロンテスキンの警備である。
とはいっても、 ――――― クラウブは欠伸を噛みこらえた。
とはいっても、この外苑の警備運営を司る役職の長でもあるロンテスキン家の家長にとっては、見回りは散歩のお題目に過ぎなかった。いまも数百の衛士がロンテスキン領の安全を見守っているのであるから。
クラウブの黒髪のごとき黒鹿毛の愛馬も、主人の気分を汲んでぽくぽくと、ゆったり蹄を鳴らす。
帝都外苑と呼ばれるロンテスキンは、貴族たちの別荘を置くための土地だ。御用達の認可を得た店がいくつかある以外は、町らしい町はなく、清楚な邸が立ち並ぶ。
ここに許可のない平民は一切立ち入ることができない。
ロンテスキン領は、せいぜい小貴族の持つ程度の広さだ。そのすべてを、原野までも含めて、石積みの壁が囲っている。小さい領地とはいえ、その全てを囲うとなれば長大な距離になる。壁の高さが大人の胸ほどのものであるとはいえ、それを実行するには大変な労働力を要したであろう。それもすべて、遠乗りに出掛けたり、狩猟会を催したりといったが不埒者の侵入を監視しており、庶民の入り込む隙もない。
人影もろくになく、大勢の部下が職務をまっとうしているとなれば、クラウブの巡回は真実娯楽のために、貴族だけの安全な領域を確保するためのものであった。
町だけでなく、森や湖、野原といった自然のなかにも、必ず大小の詰め所が配置され、衛士たちお題目以上の意味はなかった。
並木からこぼれる緑の日と影をくぐって鞍上に揺られていると、その先に日傘を差した貴婦人の背中を見とめた。
レースの模様をつけた白い日傘が、くるり、くるりと、ゆったりとした歩調に合わせて回っている。
かっぽ、かっぽという蹄の音に振り向く貴婦人と、クラウブが注視する視線は、見事にぶつかった。
やはり、クラウブは思った。それは予感だったのか、期待だったのか。
日傘の持ちぬしはマリーシア・レ・ユルフレーンという、昨夜の舞踏会の話題をさらった少女だった。
強面の騎士に追い払われてね、と昨夜彼女を連れ出した友人は肩を竦めていた。
『まあ、いけませんお嬢さま』
外を歩いてみたい、と出掛けようとするマリーシアを、ばあやはまずは引きとめ、外着に着替えさせ、日傘を持たせてくれた。
たしかに着ていた服を外で汚さないようにしなければ、とは思ってはいたが、着替えた外着はマリーシアにはむしろ殊更に上等だった。日傘も今日は手持ち無沙汰だからいいけれど、手が塞がるからお夕飯の買い物はできないなと思った。しばらくそんな心配も必要ないが。
その日傘の端から、マリーシアは黒髪の青年を見上げていた。
整った面立ちをした青年ではあるが、一種の近寄りがたさは感じられない。どちらかというと凡庸というに近い安心感がある。たとえばそう、兄に近い人種にみえた。
「失礼、私はクラウブ・ロンテスキン。この外苑を警備している者です」
彼は、すかさず馬上から飛び降りて礼節を保った。
「それは、ご苦労様です」
少女はロンテスキンの名にも動じず、まっすぐに向き直った。さすがはユルフレーン家、衰えたとはいえ大貴族の家門か。ならばこの少女も自分の好かない人種なのだろうかと、クラウブは心のどこかで思っていた。
「わたしは……」
「失礼を重ねますが、マリーシア・レ・ユルフレーン殿でいらっしゃる?」
名乗ろうとする少女の先を制してクラウブは当てて見せた。
「はい、そのとおりです。でも、どうして」
貴族の家名を肯定するのに、少し抵抗があったことを悟らせずマリーシアは言った。
「職務上、高名な家門の方々は頭に入れておかねばなりません」
「まあ……」
「というのは冗談で、昨夜の舞踏会に私も居合わせたものですから」
マリーシアが知恵をめぐらせて隠した名前は、実のところ、宴のあいまに正式にお披露目となった。気を使ったぶん損をしたどころか、シリスという青年にはぼろまで出してしまったことになるのだが、ヴィスタークとコルトスを前にそれをいうと、宮廷ではそうした慎重さはとても重要だよ、と褒められてしまったのであった。
そんなこともあり、クラウブがマリーシアの名を存じている理由は、すこし恥ずかしさがこみ上げると同時に納得もいった。
「いやだわ、すっかりだまされてしまいました」
クラウブは微笑みながら歩みを促し、自身は手綱を引いて歩いた。
さらさらと時おり風が流れて木漏れ日を揺らす。マリーシアは日傘をたたんでクラウブの隣を歩いた。お気になさらず、とクラウブは言ったのだが、お顔がよく見えませんもの、とにっこり笑った。
「いかがですか。この外苑、ロンテスキンは」
「とても綺麗なところです。この並木道も、気に入りました……でも、少し寂しい気がします」
左右に道が交わるたびにマリーシアは目を遣ったが、人気はほとんどない。
「たしかに、帝都中心の雑踏のような賑わいはありませんが。祭事などの続く時節には、このロンテスキンも貴族の方々が大勢滞在されて、楽しめると思います」
と、クラウブの言を噛み砕いたマリーシアは、思わぬ味を舌がとらえた様な顔をした。
「……あの、もういちどお名前を」
「クラウブ・ロンテスキンです」
「ロンテスキンというと……」
「私の家系は、代々この外苑を領地とするかわりに、保全警備などの管理を帝室より任されております」
「やだ……わたしったら、物知らずで。失礼をしたのはわたくしの方でした」
なんと、この少女は本当に自分の名を領主と結び付けていなかったのだ。顔を赤くして頬を押さえる少女は、せいぜい衛士数人を束ねる役職くらいに思っていたのか。それを侮辱と感じるよりは、かわいらしさを感じた。
「なに、しょせん貴族ではなく、ただの世襲官吏にすぎぬ身です」
マリーシアの顔に疑問が浮かんでいたので、クラウブは説明を続けた。
ロンテスキン家は、シルヴェンライン帝国が大陸を統一してのち、その治世が安定と繁栄の時代に変わりつつあった頃、政治的な功績をもとに時の皇帝から与えられた家名であった。
初代ロンテスキンは、その頃はまだロンテスキンという姓ではなかったが、さておきその男は皇帝の信任が厚かったがゆえに、彼が爵位を持つことに他の貴族たちは強く警戒し反発した。戦乱の時代の武断的な知行はまかり通らなかったのだ。
そこで、皇帝は当時計画のあった帝都外苑の整備を彼に任せ、その土地の世襲管理職と、それから地名と同じ姓を与えた。
これがロンテスキン領とその家門のはじまりである。
「初代ロンテスキンは、恐れ多くも時の皇帝レザリス四世陛下から友情までも賜り、陛下はなんとしてもこの土地を、との強いお心で先祖の功績に報いてくださったのだとか」
その二人の友情を妨害したのが当時の貴族たちであった。
治める土地までも当人に用意させる貴族のなんと高慢なことか。初代ロンテスキンは、自分のものとなる領地の整備を、まったく無から始めなければならなかった。しかし、そうした回りくどい方法で、どうにかレザリス四世は友人に報いたのであった。ついに爵位は与えられなかったにしても。
準男爵という中途半端な位で小貴族の体裁を得たのは、数代の当主を経てからようやくの事であった。準男爵という位階も、帝国では正式なものではなくあくまで特例であり、大貴族は世代を重ねても病的、或いは刷り込みのようにロンテスキンへの爵位の授与を忌避した。
そんな話を聞いて、マリーシアはふと兄とヴィスタークを思い浮かべる。
それにしても。
「それは貴族とどこが違うのでしょう? 名目にばかり囚われて、心の狭い人が多かったのですね」
と、ロンテスキン家の有り様と貴族との違いを見出せずにマリーシアは口にした。
まったく、と同意するクラウブ。体面にこだわる貴族の愚かしさを突いた言葉に頷く。そして、いつしかこの少女の人当たりを快いものと評価していた。彼女は自分の嫌いな人種ではないようだ、と。
「まあ、ご先祖様がすんなり領地を得られなかったおかげで、こうして貴女と散策できるわけですがね」
マリーシアはそれを聞いて、なぜかくすくすと笑みをこらえた。こんな貴公子然とした言い回し、今まで接する機会がなかったのでどうにもこそばゆい。舞踏会のときは慣れた風を装っていたが、気が緩むとこらえられなかった。
「なにか?」
「いいえ、光栄ですわクラウブ様」
少女の笑顔に微笑み返す栄誉を賜りつつ、クラウブは油断なく視線を背後に放った。
「ところで、マリーシア殿、この外苑にご友人は?」
「いいえ、おりませんが」
「そうですか……」
そういって、歩きながら彼は考え込む素振りをしたかと思うと、そこへ通りかかった、真実職務として警邏中の衛士を呼び止めた。
「これはクラウブ閣下」
衛士は若く、クラウブと同年かやや年上に見える。だが、彼は正しく服従と尊敬の態度を保って直立不動した。
黒一色に、赤い帯布をたすき掛けに意匠した制服、つばの付いたやや縦長の制帽に、槍を手にして剣を背負った姿が彼らの一般的な装備だ。警備に当たる土地柄、華美ではないが優雅さを持っていた。それらを一つ一つ値踏みしてから、クラウブは口を開いた。
「頼みがある。そこの角まで全力で駆け足して、周囲を見回して来てくれ」
「はっ!」
「よし行け」
衛士は、忠実に命令を実行する。あらんかぎりの速度で、彼は二人が今来た道を走った。
「どうか、なさったのですか?」
「なに、たぶん私の気のせいでしょう」
クラウブは嘘をついた。きっと今ごろ、あの道の角のむこうで、何者かが慌てふためいて逃げだしているに違いない。いや、慌てふためいてくれるくらいなら喜ばしい。麗しい貴婦人に恋慕してその背中を追う男、という類の話で済むだろう。
小さくなった衛士が音もなく、並木と建物で見えない十字路の向こうを見渡しているのを、二人は眺めて待った。やがて、衛士は同じように駆け戻ってきた。
「どうだ、不審者はいなかったな?」
「はっ! これといって見当たりませんでした閣下」
精一杯静かに呼吸して、再び直立不動。日焼けしているが、もともと色白なせいか、血の気がのぼって顔が赤い。
「ご苦労、あとで私の執務室へ。茶でもご馳走しよう」
「はっ、ありがとうございます!」
槍を握り持つ手を制帽のひさしまで掲げる敬礼をし、その衛士は警邏に戻った。
「さて、マリーシア殿、お騒がせしました」
「いいえ、皆さまの熱心なお勤め振りを拝見して頼もしいです」
と、彼女は二歩、三歩と先に足を出すと、閉じていた日傘を開いた。
鮮やかに広がる白い生地とともに、クラウブは胸中に不安感をにじませた。
「でも、よろしければ後でなにがあったか教えてくださいね」
彼女は、いちどだけ振り返るとそう言い残したのだった。