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六、  桃源郷

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 一一王国三六公国シルヴェンライン帝国の中央は、本来寒冷な土地だ。

 銀の北嶺と呼ばれる峰々が描く弧のなかに広がった広大な沃土を基盤にして、帝国は大陸の覇権を握った。この肥沃な大地は、短い春夏にも豊かな恵みを人間に与え、国力を付けさせた。

 もし帝国中央に穀倉地帯が誕生しなければ、それが理由の全てではないとはいえ、大陸全土に広がる現在の版図はありえなかった。

 いまでこそ国力の割合からみればその生産力が占める比率は下がったとはいえ、この穀倉地帯は現在も豊かさの象徴である。

 その広大な穀倉地帯の一翼を領土として治めるのが、ラプラレア湖を抱くユルフレーン公国である。



「お嬢さま……お嬢さま……」

 その呼びかけに、窓辺の椅子に腰掛けて本を読み耽る娘は気づかない。それが自分を指す言葉だなんて、つゆとも思っていないのだから。くわえて、窓から差し込む陽気に照らされた本の白いページに、意識は釘付けであった。

「マリーシアお嬢さま」

 え、と顔を上げると、母親ほど年の離れたエプロン姿の女性が、車の付いた台にお茶を載せて、いつのまにやら傍らに立っていた。

「なんどもお呼びしたのにお気づきになりませんもので、勝手に失礼しました」

 にっこりと皺を作って笑うと、小さなテーブルに白塗りの陶磁器を並べていく。

 お砂糖、ミルク(ラーレ)、ポット、お皿にカップ、そして運んできた台に至るまで、お茶の道具としてひと揃えの品だ。上品に草花の色取りが施された高価(たか)そうな品々だった。

「どうぞ、お茶になさってくださいまし」

「は、はい……ばあや」

 まだ打ち解けない言葉の選び方にも、女性は微笑んで返してくれた。

「さ、どうぞ」

 ばあやが注いだお茶の湯気に誘われて、マリーシアはカップを手に取った。口に寄せると、形の良い小さな鼻を湯気がくすぐり、鼻腔に豊かな実りの香りが広がる。

「おいしい」

 ひとくち飲むと、微笑みがこぼれた。

 口当たりのよさに、渋みと苦味がうまく包まれているような味わい。これほど味も香りも際立ったお茶をマリーシアは知らなかった。淹れ方も良いのだろうけど、きっと町でも高値の品を置くところでしか手に入らないのだろう。もしかしたら、貴族でないと口にできないような品物かもしれない。そう考えると、美味しいのだけれど、やっぱり場違いな気がして落ち着かない。

 ここはロンテスキン領。貴族たちの別邸がそこかしこに建つ帝都の外苑であった。

 ばあやはマリーシアの姿をうれしそうに見つめながら、このロンテスキンの別邸にこの娘が来た日のことを思い出した。

「マリーシア、こちらはローナ・エルロン。我が家に長く仕えてくれているの」

 家族の思い出が色濃く残る領地と、行き来の多かった帝都から久しく離れていたラーナッタ夫人だったが、長い年月をかけた気持ちの変化からか、旧友に会いたいと舞踏会に出るため別邸を訪れていた。そんな折だ。弟、今では宰相となったコルトスから使いがやってきて、夫人は亡くなった娘の衣装などを持ち出して慌しく宮廷に上がった。

 一人の若い娘を連れ帰ったのは翌日。良い天気の昼下がりだった。その巡り合わせは、一足先に手紙で知らされていた。

「いまではこの別邸をすっかりまかせっきりね」

 ふふ、と微笑みながら、頼りにしてるのよ、とラーナッタ夫人はローナに向きなおって付け加えた。なんとも相変わらずひとを朗らかな気持ちにさせてくれる人だろうか。年にほんの数日しか顔を合わせなくなってはいたが、ローナも夫人も、互いに気心をよく心得ていた。

「はじめまして、マリーシアお嬢さま。わたしのことは、ばあや、とお呼び下さい。何でもおっしゃってくださいましね」

 そういうローナの笑顔も、まるでラーナッタ夫人と姉妹のようだった。

 マリーシアもまた湯気の向こうにささいな過去を思い返していた。ばあやも夫人も良い似たもの同士なのだ。そう思うと、また笑みがこぼれる。

 なにやら楽しげに彼女は器を置いた。

「なんです? お嬢さまったら」

 まさか、同じように少し過去のことを振り返っていたなんて思いもしないだろう。

「いいえ、なんでもありません」

 場違いには思えるけど、この人たちは、とてもあたたかい人たちだ。

 ばあやは、マリーシアの少し張り詰めた気が解けた様子をみては、ひとつ安心を覚えた。

 緊張も、長くすると病んでしまう。ラーナッタ夫人が、かつて男爵家だったシャロドワール家から嫁いできたときも、家の格の差に塞ぎこんだものだ。そのとき、年の近いローナが話し相手をつとめていたからこそ、いまの関係があるのだった。

〝まるでお嬢さまが帰ってらしたようです〟

〝あなたもそう思う?〟

〝ええ、ほんとうに〟

 夫人とそんな会話をローナは交わした。

 亡くした娘のことを彼女らはマリーシアに重ねた。

 まるで淡く明るい花を置いたように、華やいで安らぐ雰囲気を二人は愛したのだった。

「ところでお嬢さま、なにを熱心に読んでらっしゃったのです?」

「これよ」

 マリーシアは、ひざの上に伏せた本の表紙をみせた。やや子供向けの詩と童話をまとめたものだった。

 編纂した文学者は著名ではなかったが、とある童話を収めたことがきっかけで、本は多くの人々の少年時代に触れられた。その文学者も大人たちの中でちょっとだけ名前が売れた。

 いまのマリーシアの年齢では相応という時期を過ぎた書物だった。

「〝アルドンの子供たち〟ですか。懐かしゅうございますね」

 ばあやも、その童話の表題には覚えがあったようだ。

「ええ、カーティリーンのお話が気になって……ヴィスターク兄さんに、昔先生に読ませてもらった本がないか聞いたら、ちょうど持っているって、貸してくれたの」

 ぱらりとマリーシアはページをめくった。

―――――  アルドンの子供たちは、妖精さんに手を引かれて逃げ出しました。

 手を取り合って、ついに逃げ出しました。

 野を越え、恐ろしい人食い竜があらわれる荒野を越え、走っていると不思議なことに、昼と夜がぐるぐる回っています。

 いつのまにか空を越え、降り立ったのは、宝石の海が見える森でした。森にはおいしそうな果物や木の実が沢山なり、動物がいっぱいいました。海と川には魚がじゃぶじゃぶと跳ねています。

「ここはカーティリーンだよ」 と妖精さんが言いました。

 版画の挿絵は、他愛のない夢のような世界を描いている。挿絵が付いた上に、装丁も立派だ。さぞ高価に違いない。そしてマリーシアはぱらぱらとページをめくり、お話の最後を開いた。

「〝ここにはお父さんとお母さんがいないんだもの〟 アルドンの子供の一人がそう言って、元の村へ帰っていくところで、お話は終わっているの」

「私も子供のころに読んだ覚えがございます……けれど、お嬢さま、そういえばアルドンってなんでございましたっけ」

 それは親の名前というわけではなかった。そのことはばあやの記憶にもあった。

「ううん、いちど読んでみて、私もそう思って読み返してみたのだけれど、アルドンがなんなのか、どこにも書いてないのよ……不思議ね」

「そうですわね……もしかして、村の名前だったのを説明し忘れたんでしょうか」

「まさか」

 冗談めかしたばあやの言葉にマリーシアは微笑む。だが、はっと表情を変えた。

「でも、おかしいわ。村の名前とは書いていない。けど、親の名前じゃない(・・・・)とも書いてはいないわ」

「それが、どうしたんでございますか?」

「だって、ばあやも私も、アルドンが親の名前じゃないって、何で知っているの?」

 二人とも、なぜか作品の中に説明のないこと、アルドンが子供たちの親の名前ではない、ということを過去からすでに認識していたのだ。子供のころに自然と物語を飲み込み、いままでなんとも思わずこのお話から離れていったから、この不思議に気づかなかった。

 今度はばあやがはっと口を開ける番だった。

「まあ……まあまあまあ、不思議でございますわね」


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