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短剣を握るアリエルの手に、血がしたたった。
白刃が、いつもは長い襟に隠されていた白く華奢な首筋に深く埋まる……。
「やめろ」
そのすんでのところで、カーテーギュウの手が届いた。切っ先が肌に触れる直前、彼の手が短剣の刃を掴んだのだ。血は、刃を掴むカーテーギュウのものであった。
死ぬことを許されなかったアリエルの顔は、いっそう哀しみにくれた。彼女は短剣から手を離し、カーテーギュウの胸板を突き飛ばして砂丘の斜面に身を投げた。深い角度で下も見えない。運が悪ければ、首の骨くらいは折れる高さかもしれなかった。カーテーギュウは彼女の身体に飛び付いて、斜面を転がるように落ちた。上手く落ちれば、どうということはない斜面でもあるはずだ。それにしても、かなりの高さを落ちることになったが。
最後には砂の上を滑り落ちて、二人は止まった。
カーテーギュウに寄りかかったアリエルは、震える腕で身を起こした。
束ねた髪はほどけ、亜麻色の髪が肩や頬に流れる。
「なぜ……死なせてくれないの…………殺してくれたら、楽になれたのに……皆を死地に導くこともない……」
小さなこぶしが、カーテーギュウの胸をたたく。
この小さな手で、人々を導いてここまで来たのだ。
「よすんだ、アリエル……」
カーテーギュウは、線の細い彼女の身体を、やさしく、力強く抱き締めた。アレスという騎士の姿はそこにはなかった。アリエル、彼女の責任感が必死になって作り上げた姿、それがアレスだったのだ。本当の彼女を抱き締めたカーテーギュウは、両親のことを思い出して泣く幼い頃のマリーシアを、どこかで思い出していた。
夜がまだ明けぬうちに、移動が始まる。強烈な日差しを避けるために他ならない。
朝の眠気もあってか、集団は静かだった。
荷駄の牛馬の声が風に乗って聞こえてくる。
薄闇のなか、まだ空気は肌寒かった。
砂地を蹴るカーテーギュウは、人々に気を配りながらも、物思いに耽りながらあたりを見回した。
道のり砂が深くなり、荷車が打ち捨てられ、荷はすべて牛馬の背の上だ。そうすると、子供が荷車の上で休むことが出来なくなり、先日来、歩き疲れた子供がぐずる泣き声が聞こえることがあった。どうしても泣きやまない子供を、アレスがつい自分の馬に乗せてしまったので、組合の男たちも手分けして子供をあやす事になってしまった。全員を一度には無理な話だから、少しずつの時間だけ、一人一人。
そんな光景を眼にして微笑ましく感じていたのはほんの数日前だった。アレスにも笑顔があった。でも、それは気を張って見せていた顔に過ぎなかったのだ。
カーテーギュウはアレスの、アリエルの姿を探した。
馬上の彼女は、薄暗がりの中でもやつれた雰囲気がはっきりと判る。弱音を一人とはいえ他人に曝け出し、ついに死を決意して実行してしまった彼女は、まるで抜け殻のようだ。ただ義務感に追い立てられて、再び馬上にある。それだけのような気がした。
「カーテーギュウ殿……よくぞ姫様をお救いくださった」
昨夜王女の天幕で、短剣の刃を掴んで負傷したカーテーギュウを手当てしながら、老ギリアムは言った。その泣き顔にも見える微笑みが、アリエルに対する慈愛の深さを教えてくれた。
「いえ。結局、私の存在がアリエル王女の心を追い詰めてしまった」
カーテーギュウの言葉に老人は首を振る。
「必要なことだったのです。それも」
ギリアム老はそう言うものの、しかし自分はまだ彼女を救えていない。カーテーギュウはそう思った。
日が、不意に青い薄闇の世界に光を与えていく。アリエルが背にする地平線が、黄金色を帯びた。眩しさに目を細めるカーテーギュウの方を、彼女は振り向いたように見えた。