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夜半、出発間際の遅れを取り戻すためいく分か距離をのばしたのち、アレスら開拓移民はその日の夜営地を設営した。
「アレスが俺を呼んでいるって?」
すっかりティオの一家に厄介になっているカーテーギュウだが、その夕食時にティオが言伝を預かって帰ってきた。
「すぐ戻ります」
「オレも行くよ」
立ち上がったカーテーギュウに続こうとするティオの耳を、母親がひっぱった。
「あんたは飯食いな」
「すぐ戻るさ、先に食ってろ」
ティオの額を小突いてカーテーギュウは一家の天幕を出た。
「よお、カーテーギュウ、メシまだなら寄ってけよ!」
天幕の群れを縫って歩くと、そこここで声が掛かる。数日で、カーテーギュウは彼らとずいぶん打ち解けていた。彼の活躍で、多くの仲間が助けられたことが大きいが、カーテーギュウ自身の人当りも良い方向に作用するようだった。
「ああ、次はご馳走になるよ」
カーテーギュウは似たような誘いをあと二つ、障りなく断って、アレスが待つ夜営地の外れに向かった。
「アレス、何か用事でも?」
彼は背を向けて、砂丘から闇にのまれた砂の大地を見渡していた。その静寂は、なにものも棲まない死の大地と覚しいが、危険な生物が闇に息を潜めている。
一切の星明かりもない闇夜、夜営地の明かりもほんの近場を照らすだけ。まるで、異界にわずかばかり結界を張った人間の拠り所のようですらある。
闇を見据えて固められたアレスの拳は、じわりと汗を握っていた。そのくせ、夜気に触れる手の甲は、恐ろしいほどに冷えている。
「アレス?」
呼び掛けるカーテーギュウに、アレスはただ首だけを巡らして振り返ると、また闇ばかりの砂漠へ向き直った。
促されたように思えて、カーテーギュウはアレスの斜め後に立ち、眼前の闇を見渡した。
闇の向こう、砂漠を越えた彼方に、めざす目的地はあるのだろうか。今なら引き返せる。
食糧も水も尽きていない今なら。
この大陸に、帝国の法の及ばない国はない。やはり夢物語かもしれないカーティリーンをめざすほかないのか。
肉親を失い、国を失って追っ手の恐怖にさらされる彼女の境地を、カーテーギュウは知り得なかった。だから知りたい。どうやったら、彼女の心を解きほぐすことが出来るだろうか?
「アリエル……」
カーテーギュウは、少し躊躇いがちに、肩越しのアレスの、いや、彼女の輪郭の向こうの表情を知りたくて、ほんとうの名前を呼んだ。
少し、彼女の体が揺れた。
「……やっぱり、気づいていたんだな」
「……目を洗ったときに」
あんなにも深く蒼い瞳を、カーテーギュウは見たことがなかった。フィンデル王宮の、肖像画の中の少女以外には。
「なぜ、放っておいてくれないんだ? お前の友人とやらは」
カーテーギュウは、アリエルの言葉を黙って聞いた。
彼女にとっては平和で幸せな家族、それを壊した皇帝。自分に従って落ち延びる人々にまで追っ手を放つ皇帝。
皇帝への叛逆は一族全て死罪。カーテーギュウがもしそのつもりで追うとしたら、それは彼女だけであり、人々を追い詰めることはしない。アリエルが行くからこそ、人々は行くのだ。
「アリエル……」
もう一度カーテーギュウはその名を呼んだ。
「ヴィスは、ヴィスタークはお前を殺そうなんて思っていない。今なら引き返せる」
「それを、信じろとでも?」
カーテーギュウは苦い顔をして黙った。肉親を殺し、国を奪った人間の言葉を、理屈でわかっても納得するのは容易ではない。そして本来ならば帝国法によって自分は死罪なのだ。それでも、カーテーギュウは引き止める事が自分の使命のように思えた。
「よく考えろ、お前が引き返すといえば、ここまでついてきた数百人の命も助かる。危険な賭けをせずに、元の暮らしに戻れるんだ」
ある意味その言葉は、移民たちの命を盾にして彼女の気持ちを無視した卑怯な駆け引きだった。
アリエルは沈黙した。
アレスという姿は、責任を果たし罪悪感から逃れるためのかりそめの姿。
自分の命を守るために、多くの人々を危険な旅に叱咤し駆り立てることなど、アリエルに出来はしなかった。その反面で、人々への責任を果たすため、王女に付き従うアレスという騎士の姿に身をやつした。
いつでも彼女は、責任への義務と罪悪感で身と心を削っていたのだ。
「お前の言葉は……一見やさしいが、とても残酷だ」
アリエルは、暗がりで手にしていた剣の鞘を、つよく握り締めた。
「お前の言うとおりだ。私が引き返せば、みな皆にこんな困難を強いることもないだろう」
だが、彼女は拒絶するように頭を振った。
「でも、私には還ることなど出来ない」
アリエルは、いや責務を果たす騎士アレスとして胸を張ったアレスは、再び背を向けて闇の砂漠を見渡した。
「お前の友人のことは、世間知らずの私も少しは知っている」
彼女の背からつむがれる言葉をカーテーギュウは待った。
「若き皇帝ヴィスターク。賢帝と謳われる先々帝の真の後継者。庶民のなかで育った善政の皇帝。我が王宮のものたちもみな好意的だったし、あんな事をしてしまったフィアルト兄様ですらその手腕を褒めていた。心の奥底では何を考えていたのか知れないけれど、それを知っていたら、私はお諌めできたろうか」
深い溜め息をついて彼女は俯いた。
「お前の友人なら、きっと私たちを救ってくれるのだろうな……そして、逆に私の行動は無意味に皆を死地に追いやるだけ……」
アリエルは、カーテーギュウに向き直った。剣の柄を握り、ゆっくりと抜き放つ。
「さあ、満足したか密偵」
「アリエル王女……」
白刃が風鳴りをたてる。つづけざまアリエルが突いた剣を、カーテーギュウは間合いをとってかわしていた。
「殿下……!」
剣を構えなおしたアリエルは、踏み込んで一閃する。王女という身ながらアリエルの剣は鋭く、カーテーギュウは自分の油断を感じた。だが。
「どうした密偵、剣を抜け! 抵抗しなければ貴様に帰路はないぞ」
アリエルは斬撃をさらに加える。たしかに彼女の剣はある程度鍛えられたもの。しかしそれは年月をかけて積み重ねた技量の持ち主ならば、たやすく推し量れるものでしかなった。
二度目の斬撃に危機感は感じなかった。三度、四度とかわす内にわずかな隙が生じ、五度目には脳裏で彼女の剣を素手で絡め取ることができた。あえてそれをせず、カーテーギュウは彼女の刃をかわし続けた。
剣を振るうというのは、体力を消耗するものだ。肩で呼吸し、腕の筋肉は剣の重量を持ち上げられなくなる。まして、騎士の姿を偽るだけの王女の細腕では、たとえ少々鍛えたところで長続きはしない。
アリエルの膝は震え、切っ先が地に落ちた。
言葉はない。荒げた呼吸が口から洩れる。
残る力で剣を振り上げ、カーテーギュウに振り下ろす。それをカーテーギュウはたった一歩、ゆっくりと横に身をずらして避けた。
振り下ろした勢いに引きずられるように、アリエルは砂地に転んだ。
片肘を大地との間にこじ入れて這いつくばり、砂のついた頬をあげて身を起こす。
剣を諦め、今度は革帯に挿した短剣を抜いた。腰だめにそれを構えてカーテーギュウに向かって飛び込む。だが、彼女の足にはろくに力もなく、あっさりとかわされて両膝を屈した。
一陣の風が吹く。
乾いた砂の匂いに、アリエルは顔を上げた。
目の前には、先ほどまで見渡していた闇が砂丘の眼下に広がっていた。
果てぬ大地。かすかな星明りでは、闇に沈んで尽きぬ道は見渡せない。
彼女の瞳から、ひとすじ、流星のように涙が落ちた。
両膝を地に着け、彼女は祈りを捧げる乙女のように。
瞳を閉じ、祈りを捧げる乙女のように。
彼女は、短剣を首筋に突き立てた。