五、 アリエル
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開拓移民たちの行程は、いよいよ砂漠に深く踏み入った。
灼熱の太陽に晒され汗をしたたらせる。
暦でいえばまだ清涼な風のそよぐ帝都を思いながら、カーテーギュウは力いっぱい縄を引いた。
銀の北嶺に背を守られたリスターテルクから、街道を南西にフィンデル王国へ至り荒野を踏み越えると気候が一変する。大陸の東に広がるタリク海とは別の海が南には広がっていて、その海から吹き込む風が乾燥と熱波を持ち込むのだという。
だが南の海を帝国人は知らない。北嶺に匹敵する険しいロンザス山脈がその道を阻んでいるからだ。しかし、南の海の説が正しければ、ロンザス山脈が熱波を防ぎ帝国の湿潤な気候と沃土を守っているといえた。
そして、荒野と砂漠はロンザスの綻びが生んだといわれている。
ならばこんな荒野と砂漠の果てに、カーティリーンと呼ばれる桃源郷があろうか。
砂地に車輪を取られた荷駄車を縄で引く男らに混じったカーテーギュウは、そんなことを思って気を紛らわせていた。
開拓移民たちの生活は、日中は大休止して、明け方と夕方から晩に移動するものに変わった。
陽が傾きはじめたころ出発の準備をはじめ、そして行程をこなす。今日は運悪く、柔らかい砂地に荷駄車の車輪をとられて、出鼻で立往生してしまった。
この先には当分固い地面の道などないが、移民の荷物すべてを四つ足の動物の背に任せるのは不可能だった。砂丘が周囲に見え始めたから、車輪に頼るのも今日が限界というところではあるが。
男たちが、荷駄車に縄を掛けて砂溜りから引き上げようとする。出発したばかりで、まだ日差しが強い。男たちの体から、たちまち汗が吹き出した。荷駄を引いていた牛が懸命に重しから逃れようと砂を掻く。のんびりと涼しい夕暮を待つ訳にはいかなかった。一日の遅れで余分に水を消費する。オアシスに辿り着く前に水がなくなれば、干上がってしまうことになる。
「それっ、あと少しだ!」
掛け声を合わせて指揮するその男の足が、砂地に脛まで埋もれたその瞬間、男は突如として宙に舞い上がった。
いったい何事か。その隣にいた男には、突然そいつがいなくなった、としか見えなかった。
男は粘液のまとわり付いた蔓のようなものに足首を絡められて、空中に放り投げられたのだ。蔓に引かれて着地するだろう場所に現われたのは、あの人喰蜥蜴だ。
周りの人間が、あっと思ったときにはすでに遅かった。男は蔓のように長い舌に引かれて人喰蜥蜴の口に飲み込まれた。子供と違って丸呑みとはいかず、それが逆にかえって男の死を早めた。無数に並ぶ獰猛な歯と、強靭な顎が、男を噛み砕き、引き千切ったのが外からも分かった。
悲鳴がわっと移民たちに伝播した。それを助長するかのように、数匹の人喰蜥蜴が砂溜りのなかから次々と現われる。
そのとき、カーテーギュウをはじめ護衛役の多くが荷駄を引くのを手伝っていた。普段身軽に、馬上で労の少ない人間がこうした余分な労働に一番に手を貸す。いつもは楽をしている分、苦労を買って出る。不満を生まないための働きどころを護衛役の男たちはわかっていた。ただ、彼らは武器を周囲に脱ぎ捨ててしまっていたことが対処を危険な状態までに遅らせた。念のために周囲の警戒にあたる護衛役は、やはりそれほど近い場所にはいない。足元から外敵が現われるとは、念頭にはないことだったのだ。
人喰蜥蜴の舌が次の獲物に向けて飛ぶように伸びる。
どろりとした粘液が舌とともに獲物を絡めて放さない。その舌は、カーテーギュウの胴体を巻き取っていた。
「ティオ! 剣だ!」
カーテーギュウも、例に漏れず丸腰だ。
足を踏ん張るが、ぐいぐいと舌がカーテーギュウの肋骨を圧迫し、胃袋の中へ巻き取ろうとしていた。
「迅く! 投げろ!」
おっとりと、よく言えばいつも悠然としたカーテーギュウの声にも、さしもの焦りが混じる。
「いくよっ!」
従者然とティオマットが剣を預かってくれていたのは幸いであった。それどころか、少年の存在は間違いなく彼を救ったといえるだろう。人体を噛み砕く顎に引き込まれるすんでのところで、ティオが投げた剣を受け取ったカーテーギュウは、その長剣で人喰蜥蜴の頭部を叩き斬った。
「カーテーギュウ、大丈夫かい?」
「ああ、よくやった、ティオ」
続く大立ち回りで数匹の人喰蜥蜴を片付けたカーテーギュウは、砂地に尻をついてティオを褒めた。
躍動感のある筋肉の線が、荒づいた呼吸で上下する。汗と粘液と返り血の上に、砂埃をかぶってどろどろだ。カーテーギュウの獅子奮迅の活躍の証だった。
「おう、カーテーギュウ! 助かったぜ。この水、少しだが使ってくれ!」
「おい、俺のも使ってくれ。あんたは命の恩人だ!」
周りから口々に感謝の言葉と、手が差し述べられた。特に水はこの先、命の量を計る値ともなろう。そして布きれが少し乱暴にカーテーギュウの汚れを拭い、女たちが血みどろのシャツを楽しげにひんむいた。
「お、おい、ま、待ってくれ」
「カーテーギュウさま、こんなに汚れてしまってはしようがありませんわ。お脱ぎくださいな」
その女が言ったときには、すでに誰かの手で脱がされたあとだ。
「ふん、大した人気だ。ここまで守ってきたのは俺たちだぞ」
馬上から遠目に見ていたロニスは、胸のむかつきを唾棄するように言った。その目は、部下たちが犠牲になった仲間の遺体の無残な欠片を集め、せめてもの手向けとともに葬るのを見つめていた。
「そうじゃないのか」
轡を並べたアレスに、彼は同意を求めた。王女の代弁者的立場であるアレスにだけは、はっきりと認識を示してもらいたい事項だ。組合の男たちを束ねる人間として、自分たちの有用性をないがしろにされるのはたまったものではなかった。
「ああ、それは分かっている」
苦い表情でアレスは応じたので、ロニスは少し満足して馬を返した。
ロニスはアレスの表情を都合よく解釈したが、その場に残ったアレスは別の思いでカーテーギュウを見つめていた。腰に差した剣の柄を、アレスは強く握り締めた。