7
星空のした、庭園がまるで別世界に感じられる。
迷路を模して刈り込まれた植樹は背が高く、庭園の広さもあいまって周囲の建物は見えない。あのきらびやかな世界から、違う世界に連れ出されたかのようだ。
ラーナッタ夫人が貸してくれたグラムニルのドレスを汚さぬように、大理石の長椅子にハンカチを敷いてくれた青年を、マリーシアは改めて用心深く見上げた。
青年はいちど星を見上げ、そして向き直る。
「私の名前はシリス」
「シリス……ご家名はなんと?」
「私たちには必要ない、そう思いますが、どうでしょう」
「そう……そうですね……」
聞けばこちらも名乗らねば非礼になる。できるだけ自分の事は喋らない方がいいだろう。名だけで済むなら好都合だ。
「わたくしはマリーシア」
「良い名です。貴女にふさわしい音の響きがする」
そんな彼の褒め言葉は、雑音もなくて説得力があった。
「こういった場所は初めてですか?」
「ええ、今日……」
そういえば、ここに来た経緯は言えないな、と内心苦笑する余裕が出てきた。
「いかがでした。おめがねに適った男がいたでしょうか。何人かと踊られたでしょう」
「まあ、そういえば、あまりお顔を覚えていませんわ」
始めは緊張のあまり、そして後の方は言葉尻をとらえる事ばかりに集中して、相手の顔を見た覚えがあるとすれば数人だけだった。
「でも、あなたのお顔は忘れそうにありません」
シリスは形の良い眉をあげて眼を見開いた。そして表情は微笑に変わる。
「無邪気にそう仰らない方がいい。それは見事な口説き文句ですよ。まるで効き目の強い媚薬のような」
妖精のよう。絵画のような印象をマリーシアはそんな風に口にしただけだったのだが、そういえばそういう意味にとれる、と頬を染めた。
恥ずかしさのあまり、唇を固く結ぶ。
「ほんの冗談です。どうか、そう身構えないでいただきたい」
「そんなことは……」
「貴女を飾るその宝石も、それではまるで他人を寄せ付けない鎧のように見えてしまう。高貴なる身分に圧倒されて、高嶺の花と諦めてしまうように。いや、もしかしたら私のような男を近づけさせないために、貴女のお父上が付けさせたのだと邪推してしまいますが、いかがです?」
その問いにマリーシアは表情を曇らせた。
父親や母親という言葉を聞くと、胸の内の虚ろな部分をマリーシアは感じてしまうのだ。
両親を亡くしたときは、まだ幼かったから、父母のぬくもりというものを漠然と想像するしかない。
「両親は……すでに亡くしました」
ユルフレーンの忘れ形見としても、それは間違いなく事実だった。
「それは、哀しみの傷を広げてしまったことをお許しください。その見事な宝石、さぞや名のあるお方のご令嬢なのではと、どうしても想像をとめる事ができませんでした」
胸元を飾る大粒の青い宝石、それが普通の宝石より格段に値打ちのあるものだとは、マリーシアにもわかる。
「とある名家に、清流の蒼さを具現化したと謳われる高名な宝石があると耳にしたことがあります。宝石の名は忘れましたが、社交の場から姿を消して久しく、今では実物を眼にしたことのある人も少ないとか。私も眼にするのは初めてです」
この青年は、知っているのだ。この宝石がユルフレーン家の縁の品であることを。
舞踏会に赴く直前、首飾りはラーナッタ夫人が手ずから付けてくれた。そのときに、ユルフレーンの家宝なのだと教えてくれたけれども、そういえば宝石の由来までは教えてくれなかった。一目見た印象からも、夫人はそういったことを自慢げにお喋りする性格ではなさそうだが、こんなことなら聞いておけばよかった。
「名は秘すほうが相応しいと仰ったではありませんか」
マリーシアは顔を背けて言った。どうしよう、深く質問されたらぼろが出る。
「そうでした……怒った貴女も可愛らしい」
くすりと青年はあどけなく笑う。シリスという青年にすれば、いつにない表情だ。
「実は幼いころ、そのご領地に避暑に訪れた際、その川で釣りをして遊んだ思い出があるのです。足を滑らせて溺れたこともね」
「まあ」
マリーシアは笑ってみせたが、果たしてちゃんと笑顔になっていたかどうか。
「楽しい思い出だったのですが、なにぶん幼い頃の記憶なので、その宝石と同じ川の名前がどうしても思い出せなくて、ぜひ教えていただきたいのです」
このひとは、何を知りたいのだろう。素性を疑っているのか、それともただの宮廷流の言葉遊びなのか。素性を疑っているのなら、なぜ疑うのか。もしくは、本当に名家ユルフレーンに連なる娘だという確証が欲しいだけなのか。
「ずるいですわ、貴方はもうわたくしのことをご存知の様子。なのに、わたくしは貴方のことを知らないなんて」
なんとかはぐらかすほかはない。
「川の名前さえ教えていただければ満足しますとも。私は思い出を豊かにしたいだけ。貴女と私の間に、家の名前が不要だと言ったことに、偽りはありません」
「シリス様は、先ほどから川のことばかり。わたくしは川に嫉妬する役どころをこなせば良いのでしょうか」
「いいえ。とんでもない」
青年は首を振る。豪奢な金髪が肩の上でこすれた。
「私は、貴女のほんとうの名前が知りたいだけなのです」
心臓が、宝石の下で跳ね回っているのが分かる。息が苦しい。危険だ。彼の追及が言葉遊びの名を借りているうちに離れなければ。
「宝石の名前をお知りになりたいのでしたら、いずれまたゆっくりお話しましょう」 と、マリーシアは目を逸らす。 「少し寒くなってまいりました。広間に戻りたいわ」
「それはいけない」
シリスが手を差し伸べる。その手をとるべきか。迷路の出口の誘い手は、魔手であるかもしれないのに。
「マリーシア、そこにおるのか」
そこへ、樹がさえぎる向こうから低い声がした。
灰銀の髪と髭、武人さながらの宰相が厚い葉の陰から姿を見せた。
「これは宰相閣下……。では、やはりユルフレーン家に縁のご令嬢だったのですね」
事情通の者なら、有名な家門の系図も話題の種。ユルフレーン家に嫁いだのが現宰相の姉であったことも記憶しているだろう。シリスは当時を覚えているというには若いから、あくまで情報として集めた事柄だろう。情報を集める動機が、こちらに向けられた悪意と善意、そのどちらであるかは判らないが。
「君か」
常からの眼光鋭い無表情で、コルトス宰相はシリスを見とめた。
シリスは宰相の眼光すら風のように受け流して目礼した。
「初々しいご様子で、ついお誘いしてしまいました」
「これの祖母はそういったことはなにも教えずに付けさせたので、衆目の好奇を集めてしまったようだ」
自分が叔父(正しくは大叔父であるが)なら、姉ラーナッタは確かに祖母ということになる。姉は喜ぶだろうか、歳を儚むだろうか。
「まだまだ未熟な子ゆえ心配しておった。姪に粗相はなかっただろうか。カナン・フォスバール」
「いえ、ちっとも。宰相閣下」
少しおどけてみせる姿は、シリスを知る『赤いカーテンの向こう側』の人々は決して目にしないものだ。
若者の態度に表情を変えるまでもなく憮然としながら、コルトスは本題を切り出す。
「楽隊の指揮者が、貴君とこの子が踊ったところで曲を切るように頼まれたと教えてくれた」
「おや、いくら払ったのです? 私もけっこうな口止め料を与えたのですが」
「ふむ、小遣い稼ぎでは彼らの方がうわ手のようだな」
「そのようです」
「で、なにが目的だね」
「なに、といわれましても。美しい令嬢に興味があってはおかしいでしょうか」
「ふむ、恥を掻く前に連れ出してくれて助かった。礼を言おう」
コルトスは勘繰った見方を改めた。これでは後ろめたいことがあると言った様なものだ。
姪に手を差し伸べ、マリーシアはごつごつとした大きな手をとって立ち上がった。
「ゆくぞ」
「はい、叔父さま」
「マリーシアどの、我が家門のことは、叔父君に聞かれるとよいでしょう」
背を向けたマリーシアにシリスは言った。静かな言葉なのに、また胸の鼓動を打たされる。
コルトスが促して迷宮の出口に足を向ける。
助かった。背中の、シリスの視線が遠ざかるにつれ、胸の高鳴りは徐々に収まってくれていた。宰相という雲の上のような人物を叔父と呼び、あまつさえ本当の血縁のように腕を取って歩くのだから、緊張のいくばくかは残っているけれども。
「あの、コルトスさま……」
「叔父と呼びなさい。誰が聞いておるやも知れぬ」
「はい、叔父さま。あの方は、最初から私がユルフレーンの……関わりのある人間だと知っていてお誘いになったようなのです」
「さもあろう。『ラプラレアの源』は、かつて知らぬ者はおらぬほどであった。やつが知っていておかしくはない」
ラプラレアの源、それがこの蒼い宝石の名前、そしてシリスがしきりに訊いた川の名前なのだ、とはマリーシアにも分かった。
ユルフレーン公爵家が衰退してからは日の目を見なかったが、かつてはあれこそがと、知らぬ者のいないほどの名声を、その輝きとともに放っていた。すなわち公爵家の繁栄の印だったのである。
「それなのに、あの人はユルフレーンとは直接聞かずに、宝石の由来の川の名前を訊いてきました」
叔父と呼ぶ男は、マリーシアを見下ろして立ち止まった。
その視線に、少し心が縮こまる。
「ラプラレアは湖だ」
コルトスは気を取り直したように息を吐き、腕に添えられたマリーシアの手を引いて再び歩き出した。
マリーシアは内心で、あっ、と自分の失敗に気づいた。
『川』の名前を問うシリスに言ってしまったのだ。『宝石』の名を知りたければ、と。
川の名前が宝石の名を指すという間違いを、ユルフレーンの家の者がするわけがない。
話を聞いたコルトスは頷いた。
「気に病むことはない」
相変わらず厳しい表情のままではあるが、ほんのわずかな語調の違いで気を遣ってくれているのだと、なんとなくマリーシアには知れた。
「そなたがただの町娘と知られたところで、陛下の致命的な落ち度にはならん。戯れか、それこそ寛大な御心によって保護したのだといえばよい。それよりも、陛下が心配なのはそなたのことだ」
マリーシアは、今は叔父である宰相の横顔を見上げて話に耳を傾ける。
「陛下が町娘を保護する為にとはいえ、宮廷に招いたとなれば、悪意も含めて注目の的となろう。そうなれば町での普通の生活になど二度と戻れぬ。だからユルフレーン家の忘れ形見という仮面を用意したのだ」
宮廷の情報は、重要な機密においては堅固に守られているが、一方で社交的な噂話の類では筒抜けである。こうして表向きの情報を「お披露目」する、真実を隠す手法が必要であった。大半の人間は、噂の素材が提供されればそれで満足し、深い部分へ追求することはない。探ってくる相手がいれば、その相手を敵と疑い、より注意を払えばよいのである。
言い終えて一瞬、宰相は口ごもる。珍しく歯切れを悪くさせた後、そのまま黙ってしまった。
でも、マリーシアにはこう聞こえた。
『だから、安心したまえ』
だから返事をする。
「はい、叔父さま」 と。
宰相が大広間に姿を見せたときは、また少なからず場がざわついた。
ラーナッタ夫人と皇帝の口から、噂の貴婦人のお披露目がなされたのだ。
亡きユルフレーン家の忘れ形見が見つかった、と。
ラーナッタ夫人は簡単な経緯を説明し、社交の場に戻ったことの懐かしさと喜びを小気味よく語った。彼女が見回すなかには、旧知の顔もあり、彼女は暖かく迎えられた。
華やいだ声が階下に響く。
それを眼下に見下ろすアルター公ヒルデムの目は冷ややかであった。
「公爵閣下」
そこへ、使いのものがアルター公の席へ歩み寄り、何事かささやいた。
「フィンデルの王女を見つけたと?」
「鳥がもたらした報せでございますれば」
「すぐに命令は伝えられぬ、か」
鳥は帰巣本能によって飛んでくる。人間の思い通りに、元いた場所へ飛ばすことは不可能だ。
使いが手渡した紙片に目を落としてヒルデムは思考を巡らす。
「〝皇帝の剣〟も共にあるか……新帝め、なにを考えておる」
それはなんの布石なのか。これまで幾度となく皇帝の剣はヴィスターク五世の策を実現してきた。
「早馬を用意せよ」
ヒルデムは即座に決めた。新帝の策がどうあれ、鍵は王女に違いない。
それともまさか、砂漠を輸送路にしている品を嗅ぎ付けて、こちらと同じく王女を発見したのは偶然か。
どちらにしろ、手は打ってしかるべきだ。