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 6

 扉が開いた瞬間、まるで夢のような輝かんばかりの世界が、視界に広がった。

 待っているあいだ、胸元の開いたドレスの下で打っていた早鐘は最高潮を通り過ぎ、もう何もわからなくなった。

 ただヴィスタークの手に引かれるままに足を踏み出したのを覚えている。踏み出したはいいけれど、その足が地に付いた感覚はちっともなかった。そんな足で、よく舞曲のステップを踏めたものだと、マリーシアは自分のことながら感心した。

 今は星が見下ろす庭園で、夜風にあたっている。高潮していた頬にその冷たさが気持ちいい。そしていま、広間の輝く世界に足を踏み入れたときとは違う静かな緊張が心を占めていた。

 広大な庭園の奥、大理石を削りだした彫刻仕立ての長椅子にお尻を乗せる町娘は、ドレスが汚れぬようにと敷かれたハンカチ(ニーフ)に腰をつけて、きっとひと月くらい食べるに困らないほどの額面がつくのだろう、その高価な布の提供者を見上げていた。

「寒くは、ありませんか?」

 ハンカチの提供者は、ゆったりと落ち着きを与える語調で言葉を紡いだ。

 星明りのした、幻想的な色合いを見せる白磁のような肌と金色の髪は、まるで妖精のようで気後れしそう。

 でも、いけない。いま自分は貴婦人なのだから。

「ええ、だいじょうぶです」

 見知らぬ美しい青年をまっすぐに見つめた。

「それは残念。あなたの肩に上着を掛ける栄誉を賜りたかった」

「まあ」

 顔が少し綻ぶ。これが宮廷の優雅な言葉の選び方というものなのだろうか。でも、不安と緊張は晴れない。

「それより、まずは謝罪を」

 マリーシアは無言で、口にするより先に、瞳がその意を問うていた。

「あなたの意思を確かめる前にここまできてしまったことに。あなたの手を取ろうとする敵手が、あの場には多すぎました」

 そう、魔法のように大広間から連れ出され、気づけばこの庭。一方、自分に掛かった魔法は間違った言葉で解けてしまう。ヴィスターク兄さんは教えてくれないけれど、たぶん宮廷というところは敵が多いのだ。自分が落ち度を作ってしまって、それに兄の親友が付け入られてはいけない。

 それにしても、導かれるままに踏み入れた庭園は、まるで迷路のようなつくりで、到底独りでは抜け出せそうになかった。



『シルヴェンライン帝国皇帝、ヴィスターク五世陛下――――!』

 館内がどよめく。大方の好意的な雰囲気が広がり、ついで戸惑いに近いざわめきが重奏を奏でた。

 若き皇帝は独身。いまのところ公的事実としての愛妾もいなければ、寵愛(ちょうあい)を受ける貴婦人もいない。これまでこうした場で、女性を伴って姿を見せたことはなかった。たった今この時までは。

 ヴィスタークは帝国の最大の権力者にして、卓越した容姿の持ち主でもある。特に青い瞳は、清冽な大河ではなく、小川のようなやわらかさで貴婦人たちを虜にした。

 そういう類の賞賛が聞こえるのはもはや珍しくない。しかし、今宵のざわめきの半分は、恐れ多くも皇帝の腕を取る、見慣れない娘に対しての諸氏のものであった。いや、貴婦人たちですら純粋な感嘆の溜め息を漏らしていたに違いない。

 ヴィスタークの隣で、町娘に過ぎないマリーシアは、兄の友人の腕に手を回して場違いに立ち尽くしていた。少なくともそう本人は思っていた。

「まあ、なんて可憐なかたでしょう」

「いったい、いずこの王侯の姫君であろうか」

 ざわめきの一つ一つはそういった声であった。

 急ごしらえではあるが、この場の貴婦人たちに負けぬ衣装をしつらえられ、化粧をし、髪を結い上げる。どれも上級女官たちが仕上げた力作である。なにしろ、皇帝の周りにはいまだ女気がなく、腕の振るいようもないのだ。宮廷に、皇帝が密かに連れ帰った少女を、女官たちは限られた時間のあいだに貴婦人へと嬉々として仕立て上げた。

 特に一番の力作は長く美しい栗色の髪。

「なんて立派な御髪(おぐし)

 図らずも、その貴婦人とまったく同じ言葉を口にした女官の手によって、マリーシアの髪は整えられた。

「あんな結い方もあるのね、素敵だわ」

 とある貴婦人は興味深そうに扇を口に当てて値踏みした。

 そして、厳然と家柄を見る眼に対しては、胸元を飾る大粒の蒼い宝石が少女の貴婦人たるを証明していた。



「なんて立派な御髪」

 それは、長い栗色の毛先をふわりと手にした女官の素直な感想であったが、かしずかれることに慣れていないマリーシアは縮こまるばかり。

「長くてつやつやだし」

 彼女らは櫛や指を通しては玩ぶ。

「ほんと、ちっとも傷んでないわ」

 いや、もしかして品評会の品物のように採点されているだけなのかも。それでも、褒められているのには違いないから、やっぱりマリーシアは小さくなった。

「見て、この衣装。ラーナッタ夫人がお持ちになったのよ」

 傍らで、衣装箱を開いた女官が同僚に声を掛けた。たった一着のドレスのために作られた箱の中身をみて、その女官は息を呑んでいた。少し地味かとも思える色合いながら、その複数色の組み合わせと裁断の妙に、気高さと清楚さが顕われていた。

「すごい……これグラムニルよ」

 別の女官が、ドレスの箱にささやかに刻印された紋章を見つけて言った。グラムニル、百年たってもその意匠の技巧が色褪せない、帝国随一の巨匠の名であった。

「これはやりがいがあるわね」

 胸囲、身長、腰周り、腰の高さに腕の長さ。そのほか細かく採寸に取り掛かった女官が、衣装と少女の〝数字〟を見比べ、出来上がった姿を想像して言った。申し分ない値は、このドレスを見事に着こなすだろう。

 ふって湧いた仕事に、女官たちの興味は次第に熱を帯びた。

 先帝が崩御して以来、残された皇后と皇女は離宮へ移り、多くの女官たちもそちらへついていくことになったが、一方で新帝に仕えるために最低限の人数で残された彼女らには、腕の見せ所がなかった。

 マリーシアはそこへ舞い込んだとびきりの素材というわけであった。

 さあ、あとは夜の宴に間に合わせなくてはならない。

 三人がかりで採寸のとおりに衣装を縫い直す。

 そして、女官としての腕にかけてこの少女を一流の貴婦人に仕立てるのだ。



()から話を聞いて飛んでまいりましたわ。ぜひお使いください」

 隣室で、皇帝はマリーシアの件では特使とも言うべき女性に接見していた。

 硝子を透いて日の差し込む私的な応接間で、ヴィスタークと宰相は女性を歓待した。いや、宰相の眉間は寄っていたが。

「恩に着ます、ラーナッタ夫人」

 ヴィスタークは頭を下げた。普段軽々しく下げられない頭だが、ここでは気を遣う必要はなかった。

「先に拝見いたしましたけれど、綺麗で心根の良さそうなお嬢さんだこと。わたくし全面的に応援いたしますわ」

 目尻に優しげな皺を作って、ふくよかな頬からほほほ、と笑い声をひびかせる。

 磁器に注がれた紅茶の湯気が香り、夫人の持つ雰囲気とともに穏やかな空気をつくっていた。ラーナッタ夫人は、そういう人柄であった。

姉上(・・)、少しはお控えください」

 コルトス宰相が恐れを知らない姉をなんとか(たしな)めようと試みる。かつて幾度となく失敗した行為ではあるが。

「いいんだ宰相。私も気安くて助かる」

「まったく、陛下の仰るとおりです。姉を呼びつけておいてこの子は」

 宮廷にマリーシアを連れ戻ったのはいい。彼女には保護が必要だった。しかし、宮廷に町の娘がひとり。それはあまりに奇異で目立ちすぎる。宮廷は広大だが、数百人の人間が仕える場所である。そのなかには、情報を元に小遣いを稼ぐ人間も紛れていた。それは間諜というほどのものでもなく、噂話ほどの情報の流れであるから、完全に防げるものでもなかった。

 皇帝の剣という妬まれる地位を得た男の妹、そういう立場で宮廷に踏み入れば、権力を狙う人々を激しく刺激するだろう。すみやかに何か正体を隠す役どころを作らないと、今度はマリーシア自身を標的にする人間が出てくるかもしれない。穏健な貴族ですら、カーテーギュウのような庶民が皇帝の隣に家臣然たるを好まないのだから。

 コルトス宰相は、宮廷に向かう前から、早々と使いを立てて、姉ラーナッタ夫人を呼んでおいたのだった。

「娘のドレスが、晴れがましい舞台で陽の目を見るなんてありがたいことですわ」

 ヴィスもコルトスも、その台詞を悲しいものに聞き取ったが、夫人本人はつとめて元気だった。

 宰相コルトス・ル・シャロドワールの家門は、知勇に優れた人材を輩出し続けてきた家柄である。宰相までに上り詰めたのはコルトスが初めてで、先々帝より与えられた伯爵号を持つが広大な領地はない。

 その家の長女として生まれたのがラーナッタである。当時は男爵家であった。彼女は、いずれ弟が継ぐであろうシャロドワール家から、父の命で古い名門であるユルフレーン家へ嫁がされた。名門とはいえ、名が立つばかりで権勢はすでに衰えてはいたが。

 半ば政略結婚ではあったものの、それは幸せな結婚であった。夫婦には後継ぎたる男児が生まれず、娘ひとりではあったが、家門の断絶を心配するより、その娘への溺愛ひと筋の幸せを、夫たるユルフレーン公は何よりも変えがたく過ごした。

 娘はやがて婿をとり、念願の男子を設けたが、帝都と領地との間を旅行中に馬車が山間の街道から滑落する事故が起き、親子三人ともども亡くなった。

 老いたユルフレーン公が心労に倒れて帰らぬ人となったとき、その顛末は宮廷内で悲劇として語られた。

 いまから十六年も前のことである。

「もう昔のことでございますわ。ですから、かえって嬉しゅうございますのよ?」

 夫人の持ち込んだのは、一人娘が数えるほどしか着なかった、一等とっておきの衣装だった。

「もし孫娘がいたら、きっと着せたに違いありませんわ」

 お茶を一口、思い出話の後口に夫人はいただいた。

 小さな取っ手を上品につまんで器をお皿に載せ、卓に戻すと、夫人は傍らに用意した箱を卓の中央に置いた。装飾と鍵の付いた小箱。小箱といっても片手には余る、おそらく宝石箱だ。

「それからこれを」

 夫人は首に掛けた宝石細工の鍵を取り出し、箱を開けた。

 ヴィスタークとコルトスは眼を見張った。

「ユルフレーンの家宝でございますが、もう誰も使う者がおりませんから、亡き夫も許してくれるでしょう」

「しかし、ラーナッタ夫人、これは……」

「宝石も人を輝かせてこそ、ほんとうに光るものですわ」

 夫人の笑顔は、底抜けに純朴であった。



 大広間の注目を一身に浴びて、マリーシアは皇帝の隣にいた。

 ヴィスタークの歩調に合わせて階段を降りる。

「いいかいマリーシア、今夜の君の名前はマリーシア・レ・ユルフレーン。コルトス宰相の姉ラーナッタ夫人の娘の忘れ形見、いいね」

 耳元にヴィスが囁く。マリーシアはこくりと頷いた。

「陛下、このたびはフィンデル叛乱の早期平定、おめでとうございます!」

 目新しい貴婦人への興味もすておけぬが、まずは皇帝の戦果を称える声が若い貴族から上がった。新進気鋭の若い貴族には、同じ世代の皇帝に共感する若者も多い。

 一方で新帝を快く思わない人間の大部分が、赤いカーテンの向こうで帝政を牛耳ってきた人々だった。

「まったく、いい気なものよ」

 中二階で顔に笑顔を貼り付け、形だけでも見下ろさんとする彼らは毒づいた。

「ほう、今宵の陛下はご婦人をお連れではないですか。記憶にある限り初めてのことですな」

 中二階の席の一つ。アルター公ヒルデムは、同席するヘイデルン王に意見を求めた。

「ふむ、なかなかの貴婦人だが、一皮向けばどこの馬の骨とも知れぬ」

 ヘイデルン王は酒杯の残りを呷って席を立つ。その悪口が図らずも的を射ていたことは誰も知らない。

「さて、せっかく陛下がお見えだが、私はこの辺で失礼するとしよう」

 アルター公は王の手がかすかに震えているのを見逃さなかった。

「おや、残念ですな。今宵は帝都の夜を楽しまれるとよろしいでしょう」

「そうさせてもらおう、公のおかげだ」

 ヘイデルン王をヒルデムは横目で見送った。若き日のヘイデルン王レイオス三世は、武芸に優れた闊達な王であったが、最近は恰幅が過ぎているようだ。

 入れ違いに、シプレン子爵キルクがヒルデムの元へやってきて耳打ちした。

 耳打ちの内容を、ヒルデムは吟味する。ふと、階下を見下ろすと見目麗しい若者が動いているのが見て取れた。

「よい、カナン・フォスバールがなにやら考えているようだ」



「陛下、戦勝おめでとうございます!」

 若い貴族たちの声に応えながら、ヴィスタークは階段を降りた。

 シリス・カナン・フォスバールとクラウブ・ロンテスキンは、大広間の端で地上に降り立った王者と、その隣にいる天使にしばし見入った。

「驚いたな。なあ、シリス」

 そういって隣を見ると、そこにはめずらしく思案顔を表に出した友人がいた。

「クラウブ、ちょっと失礼するよ」

 何か思いついた金髪の貴公子は、ご婦人方の視線が外れている隙に素早く行動に移る。

彼は演奏の指揮者の元へ行き、何事か話しかけた。

「シリス、君はまたなにを企んでいるんだい?」

 窓辺に戻ってきた友人に訊ねる。悪戯を嗅ぎつけたように笑みを浮かべて。

「人聞きの悪いことを、クラウブ」

 やがて、広間の中央、やや片側寄りに作られた演奏のための空間から、とある旋律が響き始めた。楽器奏者の配列と、そのために作られた広間の床のくぼみ、天井の形状が、音を濁りなく大広間全体に響かせる。

 調べを聴いて、貴婦人の手を貴公子たちが麗句をもって争い始めた。皇帝陛下のご入来に合わせて、舞踏曲が再開する段取りであったのだ。

「『カーティエットと小鳥の円舞曲』だ。踊れるね?」

 ヴィスタークはマリーシアを踊りの輪に促す。

 それは、庶民から貴族まで共通して人気のある珍しい曲だった。祭りで火を囲い、あるいはこうした優雅な場所で、演奏者の曲調しだいでどこでも用いられ、気ままに踊られる曲だ。

「踊れる……けど、ヴィスターク兄さん」

「大丈夫、さっき言ったことを忘れないで」

 問題は、簡単な振り付けを一巡したら、男女の組み合わせが変わってしまうこと。それが分かっているから、マリーシアの不安は胸の高鳴りになって現れているのだ。

 マリーシアは、簡単な円舞曲ならいくつかはこなせた。

 貴婦人教育とまではいかないが、礼儀作法などを躾ける教師のもとへ子供を通わせるのはごくありふれた事である。特に後を継ぐ家業のない家などは、貴族の侍女や宮廷の女官として勤められるような教育を女児に施すのは珍しくなかった。

 少女時代にはマリーシアも両親が遺した蓄えを使って、兄がそういう場所へ通わせてくれた。円舞曲は上流階級を志向する嗜みとして教えられたひとつなのだ。

 少女たちにとって、それがすべて役に立つわけでもなく、役に立つ方が稀なこともある。早い話、花嫁修業の一環として広く浅くということだった。

 元高級女官の教師が教えた宮廷の作法が役に立つという稀有な経験をマリーシアはしようとしていた。

 いよいよ曲が一巡する。

「またあとで」

 ヴィスタークは何の心配もなさそうににこりと笑って、白い手袋をした手を離した。

 笑顔が少し恨めしい。

 くるりとまわってドレスのすそを膨らませると、マリーシアは新しい男性の手をとった。

 さあ始まる。なにが始まるか、わからないけれど。



 大広間の玄関に出迎えの馬車が寄せられた。

 催される式典によっては立ち入りが制限されるが、今宵は高貴な人々の乗りつけた馬車が前庭の噴水を丸く囲って列を作り、主人を待っていた。

 宴は始まったばかり。それなりに身なりを整えた御者たちも、気を抜いて所々に集まり談笑している。

 この時刻に宴を去る人影は無いに等しいが、その影を丁寧に呼び止める声があった。

 ヘイデルン王レイオス三世は振り向いた。

「そなたは?」

「主人より陛下へ伝言をお持ちしました」

 深々と頭を下げる。身なりは、御者らなどよりもいっそう整ったものを身につけている。主とともに屋内へ出入りして用利きをする立場の従者はそういうものであった。ならば、この者が主人というのはアルター公のことだろう。名を伏せるのは念の入った警戒を周囲に対して払っているというわけだ。

「なんだ、早く申せ」

「もし王がどうしてもお試しになりたいと仰せならば、少量であれば問題ないでしょう、との言づてございます」

「そ、そうか。公によろしく伝えよ」

 自分の従者が扉を開けて待つ馬車に、王はそそくさと乗り込む。手すりにつかまる手が震え、足に踏ん張りが利かなかった。

 アルター公の使いが深々と頭を下げる。

 鞭を打つ音とともに、馬車は慌しく駆け出していった。



 案の定、カーティエットと小鳥の円舞曲は、曲調もゆったりと優雅に編曲されていた。街のお祭りは、曲の最後にどんどん調べが速くなり、ステップと身のこなしをこなせるかという競い合いも半分で、踊りを周囲に披露して汗を流す。

 マリーシアはあまり速いステップはできないので、お祭りではほどほどのところで切り上げているが、宮廷風はマリーシアでもたまに足があまるくらい。ついつい男性を引っ張ってしまいそうになる。

「はじめまして。ぜひ、お名前を伺いたいのですが」

 と、少し驚いて相手の殿方を見上げる。

 そうだ、踊りは公然と男女がお近づきになる場所なのだ。宮廷内や貴族ともなれば身軽に出歩くこともできない。特に女性は。だから、会話もできないくらい息が上がるような曲の速さではいけないのだ。

 妙な角度から納得したマリーシアは、最初より少し落ち着いていた。それに、いったん言葉に詰まったのがよかった。果たして安易に名乗ってよいものか。なにしろ身分も名も偽りである。

「わたくし、名前を問うには先に名乗るのが礼儀だと子供の頃に教わりました」

「し、失礼。僕はクルフ家の……」

「取り繕いはけっこうですわ」

 次に言葉を掛けられるのが怖かったので、ぴしゃりと言い切ってしまったら、意外にもその青年はしょんぼりと踊りをこなすだけになったので、マリーシアはなんだか可哀想になった。

「次の機会には、ぜひお名前を教えください」

 踊りの相手が切り替わる間際、マリーシアはにこりと笑って言った。

 その笑顔と言葉に、青年の顔はなんともいえず緩む。次の貴婦人の手をとり損ねるほどに。

 一方、マリーシアの手を次の貴公子が急ぐように握った。踊りの順序に割り込む輩などいるはずも無いのだが。

「私はロカス男爵家のバレンと申します。ぜひ、貴女のお名前を」

「手が、痛いですわ」

 思わずマリーシアは口にしてしまった。なぜだろう、いつもの自分なら我慢して言い出せないのに。

「こ、これは失敬」

「女性の扱いを知らない方とは、あまりご一緒したくないのですけれど……」

「む……」

 容赦ない言葉にロカス家の男子は黙り込む。自分の台詞にマリーシアはすぐにも謝罪したい気分だ。

「でも、貴方は狩猟会や乗馬がお上手そう。ご一緒したときには、ぜひ良くしてくださいまし」

 ごつごつとした手と、体格の良さに気づいたマリーシアは、離れ際にそう付け加えた。

 若者は、語ってもいない得意の領分を褒められ、顔を赤くして頷いた。

 そして次の手をとる。

「ごめんなさい、わたくし踊りには不慣れなのです。失敗しないように教えてください」

「なんと、おまかせあれ」

 そういうと、次の男は踊りの振り付けを、マリーシアが恥を掻かないように、小さな声で熱心に教授してくれた。頼られたことに夢中になって、男がいざ名を問おうとしたときには、マリーシアの手は離れていた。

 そうやって、その後も次々とはぐらかすマリーシアだったが、さてあと何人相手にしなければならないのだろうと思うと、だんだん気が重くなってきた。

 またひとり、適当な言葉であしらう。

 そんなとき、ひやりと冷たい手がマリーシアの手をとった。

 黄金を(くしけず)ったような髪を束ねた貴公子は、白磁のような頬にへつらうような笑みも見せず、ただマリーシアを緑色の瞳で見下ろしていた。

 青年の身のこなしは軽やかで、そして気品に満ちている。つやのある唇は結ばれたまま。

 緑の瞳に見つめられてマリーシアは当惑した。その瞳は、観察されているようにも、優しく語り掛けているようにも、冷酷に見下しているようにも見える。

 突然、青年は足を止めた。自然、マリーシアも足を止めなければならず、彼を見上げる。

「どうして……」

 足を止めた理由を問おうとして、自分の勘違いに気づいた。曲は終わっていたのだ。それだけ彼の瞳に気をとられていたというのか。

 しかし、曲が終わるのが少し早すぎるようで、館内はややざわついていた。そもそも、何順も繰り返しのきく曲であるから、早めに切ることも指揮者(・・・)次第だったが、それにしても不自然だった。いつもは、踊り相手が一回りするくらいの時間を掛けるものだから。

 と、指揮者のほうへ眼を向けていたマリーシアの手を青年は引いた。

「こちらへ」

 初めて口を開いた青年は、すぐ横にある外へ通じる扉へと導く。周りは、指揮者へ疑問の目をむけたまま、誰もそれに気づかない。静かに、扉は閉じられた。


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