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少し、馬を走らせてくる、そういうと老人は心配そうな顔をしたが、黙って見送ってくれた。
鞍の上で風を切ると砂漠の夜風が衣服の隙間に忍び込む。だが、まだ昼間の熱気に火照る身体には心地よかった。
天幕の群れから遠くはなれたのを見計らって手綱を引くと、勢いの止まらないうちに鐙を蹴って砂地に身を躍らす。
砂を背に身を横たえていると、冷えていく空気が体温を奪うのを、熱のこもる砂がまるで毛布のように守ってくれた。
星のひろがりは視界を埋め尽くし、暗黒の闇は存在しない。
広がる地平、広がる宙のした、独りだ。背負うべきものもない。とてつもない孤独感が心地いい。この仮初めが真実であるならば。
なのに、あの男の言葉が、不安と義務感で胸を押し潰す。このひと時でさえ、忘れさせてくれない。このささやかな幸福のときすら奪われるのか。
雫が、砂をぬらした。
魔人もまた独り、砂を踏みしめて夜空を見上げた。
残してきた妹は今頃どうしているだろう。心強い友人がいるから、さほど心配はしていないが。
ふと、気配を感じて振り返る。
「ギリアム老」
やわらかい砂地でわずかな足音もしないが、そこに王女に従う老人の姿があった。
「王女は、お休みですか?」
老人は、青年のかまを掛けた様な非礼とも取れる問いを、穏やかな沈黙で受け流し歩み寄った。
「夜の散歩でありましょうか」
ギリアムが話題を提供するのは珍しいことのように思えた。要らぬ会話を他者に求めないのがアレスに従者然と仕える老人の姿勢だからだ。
「卿は、まったく奇妙な名をお持ちだ。失礼ながら本名ではございますまい」
それともこの問いは非礼への巧みな仕返しだろうか。
「ええ。でも本当の名前は聞かないでいただきたい」
「ほう。いささか興味深いですな」
真に興味ありげな熱を含んで老人は言った。
「私の運気は人を呪うのだと、聖者が言いました。以来、私は古の魔人の名で自らを呪い、それを封じ込めなければならなくなった。実は、うっかり偽名も騙れないのですよ」
地に尻を落として、彼は砂を弄んだ。
「私めは、フィンデル王ヨシュア六世陛下のもと、秘密裏に間諜が集める情報を束ねておりましてな。新帝陛下がご即位され、傍らにその剣たる人物を置かれたのを我々は観察しておりました。これは、民衆出の皇帝陛下が持つただの情か、その名の通りわれらを切る刃か、と。
果たして、その剣は叛乱の芽をいくつも取り除き、また多くを新たな帝権の味方につけたとか」
一人歩きした情報に、苦笑いして首を振る。ただ、友人の知恵のとおりに動いただけなのだ。
「そしてその者は古の魔人の名を、秘密の名前に使っていると聞いております」
「秘密などと、とんでもない。さっき言ったとおり、魔人の名に縛られて偽名を使えないのです。もはや本名以上に本名らしい」
「否定なさらぬ?」
覗きこむように、老人は青年の顔を見下ろした。
「ええ」
「ならば信じられる」
まるで息子の隣に座るように、老人もまた砂地に腰をつける。
「私が敵でないと?」
「それは念のため保留いたしましょう。感情では信じておりますが、それよりも、魔人の名で運気を呪い、偽名すら騙れぬという、そこの件ですよ」
「なぜです?」
「なに、簡単なこと。身を守るために嘘をつくべきところで嘘をつけない」
「なるほど」
頷く。情報を扱う人間の論理的な思考に感心した。身の上話を、頭から信じてくれる人は数少なかった。
「しかし、それでは密偵は勤まりませぬなあ」
老人はかつての職務柄の査定をしたようだった。
「ギリアム老も密偵呼ばわりですか」
「これは失態」
老人の口の端が緩むのも、これまた珍しい。
「確かに密偵失格ですが、そもそも私は密偵ではないので一向に構いませんよ」
「そうでしたな。あなたは始めからそう言っておられた」
その言を最後に、老若の間に沈黙が訪れた。
そして老人もまた、空を見上げた。いとし子がどこかで見上げる空を。自らではなく、子の未来を願って。
「これなら、あなたのご友人を信じられそうだ」
そのつぶやきに言葉を返さず、青年も星を見上げた。




