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昼頃から、廷内を慌ただしく侍従たちが駆け回る姿がちらほらと見かけられるようになった。声に出すわけではないが、表情はただ事でなさそうに汗を掻いている。
見兼ねた壮年の男が、侍従の一人を捕まえた。
「なにごとか」
低い声が端的に言葉を紡ぐ。
「こ、これはコルトス宰相閣下」
強面の髭面に一瞬身が竦む。恐怖するには及ばない。目前の男は、廷臣たちのなかで最も皇帝の信頼が厚く、また権力のある人物なのである。しかし厳しい男でもある。雷に打たれる心配と同様の心持ちを覚えても不思議ではなかった。
若い侍従は額の汗を拭って畏まった。
「それが……」
若い、おそらくまだ二十代の侍従は、声を潜めて宮廷の主の不在をコルトスに告げた。
宰相は、侍従ほどには取り乱さず、ひとつ溜め息をついた。
「またか」
予想はついていたようである。
市井で自由に生きていた青年にすれば、宮廷だけの生活など牢獄も同じなのだろう。コルトスはもはやあきらめ半分の表情を、いかめしい顔の下に隠して侍従に指示を下す。行き先にだいたいの察しはつく。自らは近衛詰め所に足を向けた。護衛の手筈を整える為だ。
「なにやら侍従どもが騒がしいようですな」
貴族の男は、廊下と部屋を仕切る朱色のカーテンを閉ざした。
カーテンには、高貴を表わす薔薇と、盟約の帯と呼ばれる意匠を重ね合わせた刺繍が施されている。この部屋に扉はないが、このカーテンを開けるのが許されるのは高い身分の持ち主だけ、という印である。いかに宮廷の内部に仕える侍従といえども、これを破ればたいへんな処罰の対象となる。間違って召使いやらそういった下々の身分の人間が触れようものなら、気位の高い貴族によってはその場で斬り捨てられてもおかしくはなかった。もっとも、この場を血で汚すのを無粋と考える彼らであるから、ほかの手段をとるであろう。腰にある細剣や短剣は、彼らにとって宝石で飾られた装身具でしかない。
「若者が、供も連れずに散歩に出掛けたようですよ」
室内でテーブルを囲う彼らは、誰もがみな高価な衣装で身を飾る者たちだった。その中でも最も若いと思われる青年が、騒ぎの種を明かした。
彼は、身につけているものだけでなく、その容姿にいたるすべてが麗しさを帯びてその場に存在していた。白い肌の輪郭を女性とも見紛う細いあごが切り取り、豊かに波打つ金髪を後ろに束ねて流している。それは金細工などを身につけるよりよほど彼を飾った。そう、彼に装飾品のたぐいは不要であった。整った顔立ちを際立たせるのは、その緑の瞳があれば十分である。
「シリス・カナン・フォスバール、それは本当かね?」
彼と年令的に対極にある人物が問うた。彼が若く煌くなら、その壮年の男は、貴族社会の経歴で円熟味を帯びた風貌であった。彼の頭髪の色はすべて真っ白く抜けきっており、口の上にある髭だけが黒い。まるでこの男の腹の内を表わしているようだ、と若い貴族、シリスは胸のうちで冷笑する。
「もちろんです、アルター公。そして行く先は、たぶんあのお飾りの剣士の家でしょう」
口髭の男、アルター公ヒルデムはその唯一黒い髭先を摘んで捻り、思考に精神を傾けた。視線は横を向き、あらぬ場所で焦点を結んでいる。ほどなく、髭を摘んでいた指で、背後の別席で談笑していた男を声もなく呼び付けた。公の子飼いの小貴族で、シプレン子爵キルクという男とシリスは記憶していた。細く尖った顎とこ痩けた頬、細く釣り上がった目尻が特徴である。公はキルクの耳元に何事か囁いて行かせた。
「そういえば、新帝は例の王女の追放を容認したそうではないか」
アルター公はおもむろに話題を変えた。指示が何事であったか、そう口を挟むのを許さないという表明であるようにみえる。
新帝、彼らは非公式の場でヴィスタークをそう呼び慣わした。そして新帝とのみ、敬称を外して呼ぶ彼らは、新帝政権懐疑派である。無論、おおやけな派閥ではない。
「さよう。公明正大、法に厳しい我らが皇帝陛下が、大逆の罪にある一族を処罰せぬとは、いかがなものでしょう? これはお聞きせねばなりませんなあ」
テーブルの席に着く貴族から声が上がった。揶揄するときに限って、いやらしく尊称をつける。同調する声がそれぞれのテーブルから上がり、アルター公は満足気に髭を撫でた。
シリスは、冷ややかな瞳を長い睫毛のしたに隠して紅茶に口をつけていた。
すっかり長居してしまった。街路の隅を歩きながらヴィスタークは胸のうちで呟いた。とはいえ悪い気はしなかった。友人の家は居心地が良い。実家、皇帝に宮廷以外でそう呼ぶところがあるのも妙なことだが、実の両親がいる家には帰れない。老いた父は、皇帝であるヴィスに帰ることを許さなかったのだ。だから、あの家は唯一の心の拠り所となってヴィスを支えている。
来たときと同じように、ヴィスはマントと帽子で身を隠して通りを皇宮へと向かった。
「陛下」
路地から男が不意に姿を見せ、ヴィスはぎょっとして立ち止まった。
「宰相……なぜそなたがここにいる」
ヴィスは肩を竦めて言った。
「それはこちらの台詞でございますぞ。御身がいかに大切か、よくお考えください」
平服姿の宰相コルトスは銀色の眉毛の下、目頭を揉んだ。その身振りは、主君の自覚のなさが嘆かわしい、とでも言っているのだろう。
そこへ、コルトスの現われた路地からもう一人、騎士らしき男が姿を見せた。
「周囲は固めました。不審な人間は見当りません」
その騎士は、平服姿だがヴィスには見覚えがあった。常に自分を警護する立場にある近衛の一人だ。報告する口はこちらを向きながら、視線は常に周囲に配られている。
ヴィスの肺腑から自然と溜め息が漏れでた。彼らを紹介されたとき、石や空気もしくは飾られた鎧とでもお思いください、などと言われたが、こうも堅苦しい警護はおそらく育ちからくる慣れが必要で、でなければ生きている人間をそんな風に無視は出来ないだろう。たとえば、話し掛けないようにしたり、逆に話し掛けられても応えなかったり、そういうことは出来る。でも、それは存在を無視していることにはならない。神経は彼らの存在を否応なく認知し、気疲れさせる。それすら無視できるのは、生まれながらの皇族か、大貴族と呼ばれる人々だけ。たとえばアルター公のような人間だ。
「宰相、大袈裟ではないか?」
「……とんでもございませぬ」
コルトスがそう答えた直後だ。
――――ガシャーン!
ヴィスの来た方からそんな音と、たて続けて女の悲鳴が聞こえた。音は硝子が割れたとはっきり分かる。そしてヴィスの耳には悲鳴の主も。
ヴィスタークは今しがた来た道を猛然ととって返した。遠くはない。カーテーギュウの家を出たのはついさっきだ。
「お一人ではいけません陛下!」
宰相の叫び声を追って近衛騎士も走りだした。
「マリーシア!」
扉を跳ね開け、奥に駆け込むと、裏手の窓が破られ、黒い覆面の男がマリーシアににじり寄らんとしているところだった。
「貴様!」
覆面の男は、マリーシアから当初の標的に目標を切り替えた。ヴィスは振り降ろされた男の剣を、抜き打ちの剣で弾き返すと、返す刃で斬り返した。
「陛下、生け捕りにしてください!」
背後に追いついた宰相が叫んだ。生け捕るのは殺すより難しい。ヴィスタークの安全をより考えるなら生け捕れとは言わない。が、コルトスはヴィスタークの技量の並々ならぬ高さを知っていた。ならば、首謀者を葬ることが、より主君を守ることになる。
「心得た」
マリーシアが襲われたことに対する怒りで沸騰した頭を冷やし、冷静に男の剣をさばく。殺意は濁流のように押し寄せて敵を圧倒し、その命を奪う武器となるが、冷静さは精緻な剣技となって男を追い詰めた。
ヴィスは難なく男の剣を絡めとった。だが突然、男は苦悶の声をあげて前のめりに倒れた。ヴィスは決して致命傷を負わせることはしていない。それどころか、傷ひとつ与えていないにもかかわらず、である。答えは男の背を一目して瞭然となった。弩の矢が深々と突き立っていたのだ。
「御無礼を」
それを見て取った近衛騎士は、すかさずヴィスタークを庇うように、窓の外から死角になるところまで押しやった。
死角から窓の外を覗く。この窓は、通りとは反対側に面しており、地形的な段差のせいで、向かいの建物はちょうど二階にあたる高さだ。向かい側とは、段差を下る坂道と、それとは別の通りを挟んでいるので比較的距離がある。
「射手はどこだ」
窓を挟んで左右に張りついたヴィスタークと近衛騎士は、窓枠の景色の一片一片に視線を分け入らせて観察した。
「ヴィスターク兄さん、裏向かいは宿屋なの」
しゃがんで床を擦り寄ったマリーシアが、蒼い顔をしながらも言った。確かに、遊び慣れた友人宅の近所は、ヴィスタークも知り尽くしている。
ヴィスと近衛の視線が即座に向かいの建物に走る。二階の窓が開け放たれているが、見える限り、中に人影はなかった。
「おそらく、失敗した刺客を始末して逃亡したに違いありません」
覆面の男の検分をしていた宰相が推察の結果を述べた。はぎ取った覆面の下から、もがき苦しんだ形相で絶命した男の顔が出てきた。男は口から泡を吹きだし、つい先程死んだとは思えない青ざめた顔色である。
それを眼に入れたマリーシアは、小さな悲鳴をあげて顔を背けた。
「毒ですな。運が悪ければ、射られたのは陛下だったでしょう」
暗に主君の軽はずみな行動を宰相は非難していた。
ヴィスは両手を挙げた。
「降参だ。私が間違っていた。今後気をつける」
「私は部下に周囲の捜索と宿屋の取調べを命じてきます」
念のため雨戸を閉じた近衛騎士は、そういって部屋を出た。
「マリーシア、迷惑かけたね」
「ううん、助けてくれてありがとう」
けなげにも彼女は笑って応えたが、不安と動揺は隠せない様子だ。
「宰相、馬車を手配してくれ。彼女を保護したい。友人の妹だ」
「は、畏まりました」
「そんな、ヴィスターク兄さん、気を遣わなくても大丈夫だから……」
「マリーシア、無理しないで甘えてくれ。でないと僕がカーテーギュウに怒られてしまう」
マリーシアは強がってはいるが、人間が射殺されたばかりの家に独り置いておける訳がなかった。彼女は困ったように俯いたが、やがて頷いて応えた。
シプレン子爵キルクの報告を聞いて、アルター公は片眉を上げた。
「ほう、さすがに容易く〝王手〟とはいかんか」
公は、白く繊細な女性のものとすら思わせる手が、盤上から自分の手駒を排除するのをなされるままに見送った。
「あの男には優秀な手駒が多いのです」
彼の手によって盤上から除外された駒に、公は視線を落とした。
「確かに、大物を仕留めるには安すぎる手だった」
排除された、それは兵士の駒である。
公は次に、自分の手駒を摘み上げて、盤上の配置を移した。
「ならば相手の手駒を削ぐのが定石、といいたいのであろう?」
シリスは公の兵士を騎士で排除した。しかし、騎士にとってもそこは危地であった。わざと、彼はそのような手を打ったのである。公に次なる手を示唆するのに、彼は口で言うことはしなかった。
彼、シリス・カナン・フォスバールは満足気な微笑みを美しい面立ちに湛えた。
「さあ、そろそろ参りましょう。我らが〝王〟がお待ちです」