四、 リスターテルク
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帝都リスターテルクに、まだ夏の気配はなかった。しかしそれもあとわずか。涼しい春と短い夏、そして足早に訪れる厳しい冬が、帝国中央にめぐる季節だ。
この時期が、おそらく帝国中央ではもっとも過ごしやすい季節だろう。
そんな季節のある正午、兄が留守にしている家で独り、マリーシアは昼食の下拵えに取り掛かろうとしていた。といっても、男の口が減った分、用意するのはささやかなものだ。昨夜作ったシチューも余っていることだから、ほかの余りものも足して品数を揃えようと算段していると、家の戸を叩く飾り気のない音がした。
誰だろう? マリーシアは来客の顔を想像して玄関に向かった。よく気に掛けてくれる隣家の小母さんは午前中に来たばかりだし、同じ年頃の友達は最近お嫁にいって会う機会もない。小母さんは、マリーシアもいい人がいないのかい、などと言うけれど、自分が家を出たら兄が独りになってしまう。それを思うと結婚なんて考えられない。
さて、親戚などいないし、来客など思いつかなかった。
それは開けてからのお楽しみ。めずらしい訪問者に期待して、マリーシアは扉を開けた。
外は陽気で、日は明るい。そこにマントを纏い、帽子を目深く被った人物が立っていた。一瞬誰だか分からなかったが、帽子のつばから覗く瞳で、マリーシアはすぐにその正体に気づいた。
「まあ、ヴィスターク兄さん!」
思わず大きな声を出してしまって口元を押さえる。外の往来に目を配ったが、誰も彼の正体に気づいてはいないようだった。マリーシアはほっと胸を撫で下ろした。
「や、やあ、兄上から君へ手紙を預かってるんだ……入っていいかな」
お忍びの皇帝陛下は、遠慮がちに言った。
「もちろん。へんなヴィスターク兄さん。毎日遊びにきてたくせに」
マリーシアは、兄の親友であるヴィスターク青年を扉のなかへ招いた。
「昼食の準備かい?」
エプロン姿のマリーシアを見てヴィスは訊いた。長い髪も、いまは布でまとめている。
「ええ、そうなの。ヴィスターク兄さんも、良かったら食べていって」
「いいのかい?」
「ええ。余りものしかないけどね」
ヴィスタークのマントと帽子を預かったマリーシアは、にこやかに言った。ヴィスタークは照れ臭そうにはにかんだ。
そうと決まれば、マリーシアは手際よく料理をはじめる。余りものの他にひと品たして、ふたり分。豪華じゃないけれど、温かい食事。くつろいで、心の栄養も採ってほしい。だから、せめて心をこめて。
マリーシアは聡い娘だ。ヴィスタークが宮廷で、張り詰めた緊張の中で過ごしている事を知っているのだ。
「ヴィスターク兄さん」
ヴィスは、いつのまにかうたた寝していた。マリーシアの後ろ姿を見つめながら、彼女のはな歌を耳にしていると、心地よい眠気が彼を誘った。昔に戻ったみたいに、身体の力が抜けて心底休まる。
「……ああ、ごめん。眠っていたみたいだ」
「カーテーギュウ兄さんの部屋が空いているから、休んでいって?」
「いや、廷内にぼくが居ないと分かったら大騒ぎだからね。それに今夜は貴族たちを招い
た宴が開かれるんだ。ぼくは……一応主催者だから」
「そう……」
マリーシアは顔を曇らせた。兄同様、この青年のことも心配なのだ。
「おいしそうだね、頂いていいのかな?」
「え? ええ! たんと召し上がれ」
このささやかな時間は、ヴィスタークにとって幸福の大半を占める至福の時だ。
どんなに贅を尽くした宮廷料理もかなわない、心のこもった食事。そして、大切な人々と共有する時間は、彼がもつ絶大な権力をもってしても手に入れることはできないものだ。
「そうだ、大事な用を忘れていたよ」
食後のお茶をマリーシアと楽しんでいたヴィスは、本来の訪問の理由を思い出した。
懐には、カーテーギュウがヴィスに預けた妹宛ての手紙がしまわれている。それを取り出してマリーシアに渡した。
封筒には蝋づけもなにもなかったが、ヴィスが中身を改めたかどうかは彼ら兄妹には明らかだ。
マリーシアはテーブル越しに封筒を受け取ると、その場で書面を開いた。
マリーシアへ
この手紙を、ヴィスが自分の手で届けてくれていれば幸いだ。
そうしたら、おまえの手料理を振る舞ってやっておくれ。そしてなるべく引き留めて、私の部屋を使っても良いから、休ませるように。
私は帝都に戻らず、フィンデル王国のアリエル王女を追って荒野に入ることに決めた。
法によると、彼女には死が与えられるのが定めだが、ヴィスも私にもそれは本意ではない。かといって、荒野に逐われた王女を放っておけば、やはり運命は彼女に死を与えるかもしれない。どうするか、まだ心に定めてはいないが、自分とヴィスが望む結果を探ってみるつもりだ。
しばらく帰れない。しっかり者のおまえの事だから大事ないと思うが、何かあれば恥じずに隣人に頼って、もしもの時はヴィスを頼るように。
身体に気をつけて。
私の方は心配いらない。逃げ足がいちばんの得意だから。
文末にはカーテーギュウの署名と日付、そして躊躇いがちに付け足された言葉、愛する妹へ、と結ばれていた。
「なんだって?」
「カーテーギュウ兄さんったら、普段は自分のこと俺っていうのに、〝私〟だって」
妹にとって唯一の家族である自分は、兄であると同時に保護者でなくてはならない。そういう意識がカーテーギュウの中には幼い頃からあった。それを理解しているマリーシアは、兄への感謝を心に抱いて忘れたことはない。口に出すには少し照れくさいけれども。
「すまない、マリーシア。カーテーギュウを危険な場所へ行かせることになってしまって」
マリーシアは茶化したが、ヴィスタークはそれを額面どおりに受け取りはしなかった。親友が妹を思うように、彼女が兄をどれだけ大切に思っているか、彼にはよく分かっている。
「気にしないで。カーテーギュウ兄さんが自分で決めたと手紙に書いているわ。それならきっと、どんなことがあっても承知の上だと思うの。兄さんは、ヴィスターク兄さんにそんな風に謝らせるつもりなんてないに決まってる」
マリーシアの優しげな眼差しがヴィスタークにそそいだ。こんなとき、二人の兄妹に、ヴィスはただ感謝するばかりだ。




