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第32章:信じがたい報告


 王宮の冷たい大理石の回廊は、静まり返っていた。

 サーシャとミーシャの足音が微かに響くが、二人にはその音さえ遠く感じられる……まるで自分たちのものではないかのように。

 サーシャにとって、オーレリアン王国の栄華の象徴である黄金の柱は、今や崩れかけの舞台装置のように脆く見えた。

 あの不滅の森で「空が落ちてくる」ような光景を目にした後では、人間の権力など風に舞うカードの束も同然だった。

 サーシャは自分の肩に手をやった。

 ワイバーンの爪痕はすでに塞がっている。

 しかし、そこには白く細い跡が残り……触れると今なお冷たい。

 それは単なる治療ではなかった。

 肉体に対し、流血を止めるよう強いた「絶対的な命令」の痕跡だ。

 謁見の間の重厚な扉が開く。

 玉座には、険しい表情を浮かべたアルドリック王が鎮座していた。周囲を黒衣の顧問官たちが囲み、騎士団長ヴェイロンが剣の柄に手をかけたまま、音もなく立っている。

「戻ったか」王の重苦しい声が響く。

「報告せよ。森の中で何を見た?」

 サーシャとミーシャは膝をついた。

 ミーシャの体は未だに震えが止まらない。

「陛下……」サーシャの声は枯れていた。

「偵察任務は……失敗に終わりました」

 室内は即座にざわめきに包まれた。

「道に迷い……ワイバーンの群れに襲撃されました」

 サーシャは深く息を吸い込む。

「ですが……我々は救われたのです」

 場は一転して、水を打ったように静まり返った。

 そして――

 嘲弄に満ちた鼻笑いが漏れる。

 ヴァルン大臣が一歩前へ踏み出した。

「救われただと?」

「あの不滅の森でか?」

 その声には侮蔑が混じっている。

「まさか、親切な密猟者にでも会ったとでも言うつもりか?」

 サーシャは顔を上げた。

 その眼差しは鋭い。

「違います」

「我々が出会ったのは……『彼女』です」

 その場の空気が凍り付いた。

「あの紫の女……」

 サーシャは奥歯を噛み締める。

「『歩く災厄』です」


「――『歩く災厄』です」

 その言葉が、静寂に包まれた謁見のに落とされた。

 静かな、しかし場を支配していた沈黙を粉々に打ち砕くには十分な響きだった。

 一瞬――。

 誰も口を開かなかった。

 まるで部屋全体が、その言葉への反応の仕方を忘れてしまったかのように。

「……馬鹿げている」

 静寂を切り裂いたのは、冷淡で、拒絶に満ちた声だった。

 ヴァルン大臣は鼻で笑い、不遜に腕を組む。

「『歩く災厄』だと? サーシャ騎士、自分が何を口にしたか分かっているのか?」

 その視線は、容赦なく彼女を突き刺す。

「それは古の記録にのみ記された言葉だ。一国、あるいは一都市を瞬時に灰燼に帰す存在……それを指す言葉だぞ。それを、貴様が目撃したと言うのか?」

 周囲の貴族たちから、さざ波のような囁きが漏れ始める。

 それはもはや嘲笑ではなく、隠しきれない「動揺」だった。

 サーシャはすぐには答えず、ただこうべを垂れていた。

 しかし、その拳はゆっくりと、強く握りしめられていく。

「……重々承知しております」

 声は低い。だが、一点の揺らぎもなかった。

「承知しているからこそ、そう断言したのです」

 ヴァルンの口元に、薄ら寒い笑みが浮かぶ。それは人間らしい感情というより、獲物を切り裂く刃に近いものだった。

「ならば説明せよ。貴様らを救ったというその『災厄』が、いかなるものだったのかを」

 サーシャは一拍の間を置き、語り始めた。

「ワイバーンが……いえ、一頭ではありません。数十、あるいは、数百……。森の空が、奴らの翼で埋め尽くされていました。逃げ場など、どこにもなかった」

 隣でミーシャが唇を噛む。あの光景を思い出し、その瞳が恐怖に揺れた。

 場から笑い声が消え、誰も口を挟まなくなる。

「我々は死を覚悟しました。ですが、その時です――」

 サーシャの声が一段と低くなる。言葉の一つひとつが、重いくさびのように場に打ち込まれていく。

「空が……割れたのです」

 ――……。

 数人が眉をひそめた。比喩だと思った。だが、誰もその先を遮る勇気はない。

「比喩ではありません。文字通り、天が裂けたのです。戦場で決して揺るがぬはずの私の手が、その時ばかりは震えました」

 彼女は唾を飲み込み、続けた。

「そして、その裂け目から……『彼女』が降りてきました」

 以前よりも深い静寂が、謁見の間を支配する。

「魔力の気配も、魔法の兆候もありませんでした。ただ、彼女がそこに現れた瞬間、すべてのワイバーンが静止したのです。まるで、飛び方さえ忘れてしまったかのように」

 息を呑む音が聞こえる。サーシャは顔を上げた。その瞳には、今もなお消えぬ「絶対的な恐怖」が宿っている。

「それは、戦いなどではありませんでした。攻撃も、詠唱も、力の衝突さえもなかった。彼女がただ、一瞥しただけ。その一瞬で、ワイバーンの大群は――消滅しました」

「……消滅した、だと?」誰かが掠れた声で呟いた。

「塵一つ、血の一滴さえ残さず。最初からそこに存在しなかったかのように、跡形もなく消え去ったのです」

 再び訪れた沈黙は、鉛のように重く、息が詰まるほどだった。

 ヴァルンの顔から笑みが消えた。

「……高度な幻惑魔法か、あるいは古のアーティファクトによるものか」

 抗うように言葉を絞り出すが、その声には先ほどまでの余裕はない。

「いいえ」

 サーシャの答えは、残酷なほどに即答だった。

「あれは幻でも魔法でもない。我々の知ることわりなど、とうに超越した存在です。陛下……」

 サーシャは玉座へと視線を向けた。

「もし、あの存在がこの国の『敵』に回れば……我々に抗う術はありません。オーレリアンは、なす術もなく滅びるでしょう」

 反論する者は、もう誰もいなかった。

 アルドリック王は、玉座に深く腰掛けたまま、沈黙を守っている。

 その鋭い眼光は、眼下の騎士を見つめ、量っていた。

 


その静寂は――。

まだ、続いていた。

誰も、それを破ろうとはしなかった。

あの言葉が、放たれた後では。

「この王国に……勝ち目はありません」

その言葉は、いまだ宙に浮いていた。

重く。

圧し掛かるように。

まるで目に見えない宣告のように。

そして――。

「もうよい」

その声は、玉座から降ってきた。

深く。

静かに。

しかし、広間にいる全員を服従させる重みを伴って。

アルドリック王が、ついに口を開いた。

全員が背筋を正した。

不注意に呼吸をすることさえ、誰もできなかった。

王の鋭い眼差しが、サーシャに注がれる。

鋭く。

深く。

真実の核心を貫こうとするかのように。

「騎士サーシャよ」

「一つ、答えよ」

その声音は、荒らげてはいなかった。

しかし、それゆえに――。

いっそうの圧迫感を生んでいた。

「あの存在は……」

「敵意を示したか?」

サーシャは、一瞬沈黙した。

問いは単純だった。

しかし、その答えは――。

すべてを決定づける。

「……いいえ」

その答えは、静かに出された。

しかし、はっきりと。

「彼女は、我々を襲いませんでした」

「言葉も交わさず……」

「それどころか……我々を、気にかけるべき対象としてすら見ていませんでした」

数人の貴族たちが、一斉に身を強張らせた。

その言葉は――。

どんな脅しよりも恐ろしかった。

王は、すぐには反応しなかった。

「では、なぜ……そなたを助けたのだ?」

サーシャは、一瞬だけ目を閉じた。

あの瞬間を、思い返す。

「……わかりません」

「ですが――」

彼女は、目を開いた。

「それは、慈悲ではありませんでした」

静まり返る。

「強いて言うならば……」

「道端の蟻を、不意に踏んでしまった者のように」

「そして、何も考えずに……ただその道を掃き清めただけなのです」

今度こそ――。

本当に、誰も言葉を発することができなかった。

それは救済ではない。

それは――。

ただの、残酷な偶然。

アルドリック王は、ゆっくりと玉座の背もたれに身を預けた。

その目を細める。

考え。

計算し。

口には出せない何かを天秤にかけている。

「……承知した」

一言。

短く。

しかし、その議論を打ち切るには十分だった。

そして――。

「命ずる」

広間全体が緊張に包まれる。

「この情報は、この部屋から一歩も出してはならぬ」

「もし漏らす者がいれば……」

王は、言葉を切った。

その視線が、貴族たちをなぞる。

冷たく。

感情を排して。

「……反逆者とみなす」

反論する者はいない。

その勇気がある者など、いなかった。

「ヴェイロン」

騎士団長が、直ちに跪いた。

「はっ、陛下」

「精鋭部隊を編成せよ」

「王国の紋章を隠し」

「身分を捨てさせよ」

「《永遠の森》を調査するのだ」

「ただし――」

王の声の色が変わった。

より深く。

より重く。

「接触は、一切禁ずる」

「挑発もするな」

「もし、あの存在に遭遇したならば……」

一瞬――。

王でさえ、言葉を止めた。

「……撤退せよ」

その命令は――。

何よりも明確だった。

王ですら、認めたのだ。

あれは、戦うべき相手ではない。

「御意に」

ヴェイロンは、迷いなく答えた。

しかし――。

その瞳には、微かな動揺が滲んでいた。

生まれて初めてのことだった。

「これにて、閉廷とする」

その一言で、会合は締めくくられた。

しかし、すぐに動ける者はいなかった。

全員が、囚われていたのだ――。

まだ見たこともない、何かの影に。

サーシャとミーシャは、跪いたままだった。

やがて――。

「下がるがよい」

二人は立ち上がった。

ゆっくりと。

そして、広間を後にした。

しかし――。

あの感覚だけは、消えなかった。

王宮の外では……。

夜風が穏やかに吹いていた。

空は暗い。

静かだ。

あまりにも、静かすぎる。

サーシャは、足を止めた。

なぜか――。

何かを感じた。

ゆっくりと……。

彼女は、顔を上げた。

空を、見上げる。

その時――。

彼女の息が止まった。

「……ミーシャ」

その声は、ほとんど聞こえないほどだった。

「動かないで」

あの上空――。

何もないはずの、雲の間に――。

「それ」は、いた。

シルエット。

人影。

浮遊し。

静かに。

監視している。

あの紫色の長い髪が……風に吹かれ、緩やかに揺れていた。

そして、どんなに距離が離れていても――。

サーシャには分かった。

あの視線が……自分たちに向けられていることを。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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