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第29話 ― 箱の中の衣類

その朝、玉座の間の空気はいつもより少しだけ穏やかだった。

フロスティーヌは長椅子に優雅に腰掛け、ハーブティーを啜っていた。

立ち上る湯気が、ダンジョンの冷たい空気の中で踊るように揺れている。

梳かしたばかりの長い紫の髪は、紫の浴衣の肩の上で高級な絹のように流れていた。

暖炉で薪がはぜる音に反応して、彼女の狐耳が時折ぴくりと動く。

(昔は、カップの正しい持ち方なんて考えたこともなかったな)

フロスティーヌは、紅茶の表面に映る自分の姿を見つめながら心の中で呟いた。

十分間も髪を梳かすどころか、頬に飯粒がついていないか確認する以外に鏡を見るのも億劫だった。

彼女の視線は、自分にしか見えない透明なステータスウィンドウへと移った。

[ アイテムボックス:347スロット使用中 ]

(ああ、そうだった。ここが骨董品屋の倉庫みたいになっているのを忘れていたわ)

彼女の手が空をなぞり、数ヶ月間触れていなかったカテゴリーを開く。

[ アパレル ]

保管された過去

仮想画面は、一瞬にして衣類のアイコンで埋め尽くされた。

冒険を始めたばかりの頃の重厚な鎧。

所々が裂けた旅装束。

そして……女への変化に戸惑い、アイデンティティ・クライシスに陥っていた頃に「気まぐれ」で買ったドレスの数々。

(なんでこんなに胸元の開いた赤いドレスなんて持っているのよ……)

サテン生地のパーティードレスのアイコンを見て、彼女は微かに頬を染めた。

ああ、そうだ。あの時は魔力に酔っていて、少し「大胆」なものを試したい気分だったのだ。

(外で着る勇気がなくて本当によかったわ)

ペットのスライムであるピップが、唐突に彼女の膝の上に飛び乗った。

彼は小さなマネキンの形に姿を変え、「さあ、一着試してみて!」とでも言いたげに合図を送る。

「後でね、ピップ。今は整理したいだけだから――」

「お姉様! 何して遊んでるの?」

アリスの元気な声が、彼女の言葉を遮った。

起きたばかりの少女の金髪は鳥の巣のようにボサボサだったが、その目はアイテムボックスから取り出された布の山を見て輝いていた。

「古い服を整理しているのよ、アリス。手伝ってくれる?」

「やる!」

アリスは勢いよく返事をし、床の上に直接あぐらをかいて座った。

一着ずつ、服が取り出されていく。

夏の空のような水色のドレス。

雪の結晶の模様が入った白い着物。

そして、男性的でフォーマルな黒いスーツ。

(これは……自分がまだ男だと言い聞かせようとしていた頃のスーツね)

フロスティーヌはその黒いジャケットの生地を撫でながら思った。

(でも今これを着たら、きっと胸のあたりが苦しくてたまらないでしょうね)

(この肉体は、本当に妥協というものを知らないわ)

龍からの贈り物

仮想の山の底に、フロスティーヌは独特な説明文を持つアイテムを見つけた。

[ 薄手の黒浴衣 ― ルファスからの贈り物 ]

(ルファスがこれをくれたことがあったかしら……?)

彼女は眉を寄せ、古い記憶を掘り起こした。

ああ、思い出した。一緒に住み始めたばかりの頃、彼女がよく私をからかっていた時のことだ。

『黒い色は、アンタの白い肌をより魅力的に見せてくれるわよ』

彼女はその服を取り出した。

生地はひどく軽く、光にかざせば透けてしまいそうなほどで、対照的な鮮紅色の帯がついている。

「お姉様! これ着てみて! すっごく綺麗だよ!」

アリスが黒浴衣の裾をぐいぐいと引っ張る。

フロスティーヌはしばし考え込んだ。

(まあ、ルファスはまだ玉座で寝ているし。少し試着するくらいならいいわよね)

(サイズがまだ合うかどうか確認するだけだもの)

彼女は自分に言い訳をしながら、仕切りカーテンの裏へと歩いた。

静寂の中で、紫の浴衣を脱ぎ捨てる。

ダンジョンの冷たい空気が滑らかな肌に触れ、産毛が逆立つのを感じた。

薄手の黒浴衣に袖を通した瞬間、彼女はあることに気づいた。

(これ、思っていたよりもずっときついわ……)

透け感のある黒い生地が、挑発的に体のラインを強調する。

胸のあたりは生地がパンパンに張り、最初にこれをもらった時よりもずっと「重くなった」双丘の形を露わにしていた。

腰の赤い帯が、彼女のシルエットを完璧な砂時計の形に締め上げる。

フロスティーヌは、そこにある小さな鏡を見つめた。

(私……本当に、今は大人の女に見えるのね)

複雑な感情が込み上げた。

刺すような羞恥心と、それから、どこか奇妙な誇らしさ。

(昔の「アキラ」が見たら、今の自分を見て間違いなく気絶するでしょうね)

予期せぬ反応

フロスティーヌがカーテンの裏から出てくると、アリスは唐突に言葉を失った。

ピップに至っては、色が明るいピンク色に変わり、ハートの形になって震えている。

「お……お姉様……」

アリスは目を見開いて呟いた。

「お姉様、すっごく綺麗! キツネさんの女神様みたい!」

フロスティーヌは胸元を隠すように腕を組んだ。

「そうかしら? なんだか少し……露出が多すぎる気がするわ」

「いいの! お姉様、ずっとこれを着てなきゃダメだよ!」

「アンタたち……朝っぱらから騒がしいわね……」

玉座の方から、低く気だるげな声が響いた。

ルファスが欠伸をし、フロスティーヌのぬいぐるみを抱いたまま体を伸ばす。

しかし、ルファスの視線が、自分が贈った黒浴衣を纏って部屋の中央に立つフロスティーヌを捉えた瞬間。

ルファスの動きが、完全に凍りついた。

五秒間、完全な沈黙が流れた。

「……ルファス?」

フロスティーヌが恐る恐る尋ねる。

ルファスのいつもは青白い顔が、耳の先まで一気に真っ赤に染まった。

彼女は慌てて顔を背け、手で口元を覆った。

(見てるわ。彼女、私のことを爪先までじっくり見てるじゃない!)

フロスティーヌも顔が熱くなるのを感じ、パニックに陥った。

「なんで……それを今、着ているのよ……」

ルファスが少し裏返った声で尋ねる。

「アイテムボックスの中で見つけたのよ。あなたがくれたものでしょう?」

ルファスは鼻を鳴らし、完全に失敗しながらも平静を取り戻そうとした。

「私がそれをあげたのは、寝る時に着るためであって、玉座の間で披露するためじゃないわ」

「でも、アリスが良いって言うから」

「……確かに良いわよ」

ルファスはアリスの笑い声にかき消されそうなほど小さな声で呟いた。

「良すぎて、他の誰にもそんな姿を見せないように、今すぐ着替えさせたいくらいだわ」

フロスティーヌは呆然とした。

今の言葉は、褒め言葉だったのだろうか。それとも、独占欲の現れなのだろうか。

受容

その日の夕方、突発的なファッションショーが終わった後。

フロスティーヌは再びテラスに座り、外で遊ぶアリスを眺めていた。

ルファスの反応を見た後、なんとなく着替えるのが億劫になり、彼女はまだあの黒浴衣を纏っていた。

ルファスが近づいてきて、お菓子の皿を手に隣に座った。

「着替えないの?」

ルファスは前を向いたまま尋ねた。

「生地が心地いいのよ」フロスティーヌは短く答えた。

「それに、あなたが似合うって言ってくれたから」

ルファスはしばし沈黙し、それからフロスティーヌの肩に頭を預けた。

「ええ、似合っているわ。黒は、アンタの色よ」

フロスティーヌは薄く微笑んだ。

かつて元の世界で男だった頃の自分――誰からも気に留められなかった平凡な会社員だった頃を思い出す。

今の自分は一人の女であり、姉であり、古代龍のパートナーであり、奇妙な小家族の中心だ。

(昔は、この変化を憎んでいたけれど)

フロスティーヌはルファスの手に触れながら心の中で思った。

(でも、女になることがこの幸せを手に入れるための対価だったのなら……悪くないと思えるわ)

夕暮れの静寂の中で、フロスティーヌはあることに気づいた。

彼女はもう、道に迷った「アキラ」ではない。

彼女は星のない空の下、この家の主であるフロスティーヌなのだ。

そして彼女は、今の自分が、とても好きだった。

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