第23話 ― 空の亀裂
彼女たちがまだ街の門を出る前に、ヴァルトラの上空が引き裂かれた。
雲が晴れるような自然な現象ではない。燃えるような光を放つ長い切り口が夕闇を分断し、その奥で渦巻く虚無を露わにしている。それは高位魔導師のみが許される、広域転移魔法の産物だった。
光の渦から、彼らは降りてきた。
オーレリアン王国の『黄金獅子』の紋章を刻んだ兵士たち。後方では、長いローブを纏った魔導部隊がすでに杖を掲げ、数秒のうちに完全な戦闘陣形を築いている。その数、数千。王室の精鋭騎士団だ。
最前列から、一人の男が歩み出た。銀の長髪が風に揺れ、その青い瞳は威厳に満ちていた。
「カルロッタ指揮官」
ヴェイロンの声は淡々と、しかし圧倒的な権威を帯びている。カルロッタは震える体で膝をついた。
「総司令官……これは……」
ヴェイロンは彼女には目もくれず、鋭い視線をフロスティーヌへと向けた。
「この者たちを、街から出すわけにはいかん」
城門の外で、フロスティーヌは足を止めた。
アリスはまだ彼女の腕の中で眠っている。ルファスも立ち止まり、黄金の瞳に興味深げな光を宿して空を仰いだ。
彼女たちの頭上で、新たな魔法結界が形成され始めていた。それは街を覆う薄い防壁などではない。災害級の存在を閉じ込めるために設計された、分厚く息苦しいほどの『黄金の天蓋』だ。
「ほう? 今回は随分と本気ね」
ルファスが艶やかな声で呟く。
フロスティーヌは答えず、ただ抱き上げたアリスを見下ろした。少女はまだ深い眠りの中にいる。その穏やかな寝顔こそが、この場所がまだ火の海に変わっていない唯一の理由だった。
「アリスが寝ているのよ」
背後で響く数千の兵士たちの息遣い。それを彼女は静かに告げた。
ヴェイロンが、赤い水晶を冠した杖を掲げた。
「《呪われた森》の主よ。王の名において命ずる、降伏せよ!」
ルファスがくすくすと笑った。その笑い声は鈴の音のように美しいが、どこか底冷えする。
「降伏ですって? 面白いことを言うわね、人間」
フロスティーヌは微動だにしない。ただ、アリスが目を覚まさないように、そっとその背中を撫でている。
ヴェイロンは微動だにしなかった。
「撃て」
刹那、稲妻が彼女たち目がけて降り注いだ。静かだった夜空が、魔法の爆発音で震え上がる。
ルファスが悠然と前に出た。彼女が手のひらを一振りするだけで、すべての魔法が空中で静止した。勢いを失い、元の形のまま、ただ浮かんでいる。まるで、何かより高次の存在の許しを待っているかのように。
「なっ……!?」
ヴェイロンが息を呑む。
次の瞬間、それらは砕けた。床に落ちたガラスのように、粉々に砕け散った。何の衝撃も残さず、ただ消え去った。
「無詠唱での魔法相殺だと……?」
「その程度の低級魔法が、竜に通用するとでも思ったの?」
ルファスが嘲るように言う。彼女が手を振り返すと、今度は凍てつく風が前衛の数十の兵士を吹き飛ばした。その鎧は一瞬で凍りつき、武器は朽ちた枝のように砕け散る。
一方、フロスティーヌはただ静かに立ち、アリスを抱きしめていた。
一人の騎士が、彼女の五メートル手前までたどり着いた。そして、その目が彼女の紫の瞳と合った瞬間――唐突に石像のように固まった。その顔から血の気が引き、額に冷や汗が滲む。彼は彼女の目の中に、人間の精神が耐えられる限界を超えた“何か”を見たのだ。何も触れていないのに、その騎士はその場に崩れ落ち、気を失った。
一人、また一人と。フロスティーヌを中心とした半径五メートル以内に足を踏み入れようとした兵士たちが、外傷もなく倒れていく。
ヴェイロンは、自分の軍勢がルファスの手の中で玩具のように散り、フロスティーヌには近づくことさえ許されていないのを見て、ついに手を高く掲げた。
「止めろ! 全員撤退だ! これ以上の無駄死には許さん!」
兵士たちが困惑のうちに動きを止める。ルファスが面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「あら? もう終わり?」
ヴェイロンは兵士たちの列を抜け、独りで歩み寄ってきた。彼は五メートルの境界線――彼の戦士としての本能が“これ以上は危険”と告げるライン――の手前で立ち止まる。
「貴公は……一体、何者だ?」
フロスティーヌは静かに答えた。
「この子の親代わりよ」
ヴェイロンは安らかに眠るアリスを見つめた。血と暴力で満ちている状況とは対照的な、その穏やかな寝顔。彼は重要なことに気づいた。目の前の存在には、殺意がない。彼女はただ――
「家に帰りたいだけなの」
フロスティーヌが続ける。
ヴェイロンは深く息を吸い込み、自軍の方へ向き直った。
「結界を開け! 命令だ! 開けろ!」
頭上に広がっていた黄金の天蓋が、ゆっくりと薄れ、やがて完全に消え去った。解放された夜空が、星のない闇を取り戻す。
「感謝するわ、総司令官」
フロスティーヌはそう言い、歩き出した。ルファスが隣に並ぶ。
「さすがに人を見る目はあるようだな、あの男」
「ええ」
彼女は短く答え、一刻も早く家に帰り、アリスを温かいベッドに寝かせてあげたいとだけ思っていた。
背後では、ヴェイロンが遠ざかっていく彼女たちの背中をまだ見つめていた。カルロッタがよろめきながら彼の元に歩み寄る。
「総司令官……この報告を、どのように……」
ヴェイロンは、紫色のマナの残滓が漂う空を見上げた。
「『災厄』にも心はある――そう伝えろ。そして――」
彼は言葉を切った。
「彼女の平穏を、決して乱してはならないとも」
その夜、ヴァルトラは救われた。しかし、その記憶は人々の心に深く刻まれることとなった。そして空に残ったあの亀裂は、彼らにとって永遠の警告となるだろう。
紫の魔女の平穏を、決して乱してはならない、と。




