第21話 ― 彼女に捧げられたのではない警報
夕暮れ時。ヴァルトラの街は、束の間の平穏と活気に満ちていた。
太陽は西の地平線へと傾き、街の空を温かな黄金色に染め上げている。クリスタルの窓がその光を反射し、公園からは子供たちの笑い声が響いていた。
ルファスの背中でうとうとしていたアリスが、突然目を覚ました。彼女は小さな鼻をひくつかせ、眠そうな目をこする。
「……何か、いい匂いがする」
「ふふ、お腹が空いたのね」
フロスティーヌが微笑むと、アリスは恥ずかしそうに頷いた。
通りを歩いていると、香ばしい匂いを漂わせる肉串の屋台を見つけた。カリカリに焼かれた肉と野菜に、甘辛いタレが塗られている。
「食べる?」
「うん、食べる!」
魔導書を片手に暇そうにしていたルファスも、ひょいと首を巡らせた。
「わらわも、やぶさかではないわね。人間の俗な味というのも一興よ」
フロスティーヌは小さく笑い、屋台へと歩み寄った。店主の中年女性――ハナは、フロスティーヌの紫の狐耳と九本の尾を見て一瞬息を呑んだが、すぐに商売人らしい柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、お嬢様方。何本になさいますか?」
「三本お願いできるかしら」
銀貨を手渡すと、ハナは恐縮しながら串を差し出した。
「ありがとうございます! どうか、ヴァルトラの旅が素敵なものになりますように」
焼き串を受け取り、三人は近くのベンチに座る。アリスは一口かじるなり、目を輝かせた。
「あまくて、美味しい!」
ルファスも優雅に串を口に運び、満足げに頷く。
「なかなかやるわね、人間も」
「明日も、また来てもいい?」
アリスが期待を込めて尋ねる。フロスティーヌは少女の金髪を優しく撫でた。
「ええ、また来ましょうね。でも今日は、そろそろ帰――」
言葉の途中で、ルファスがピタリと動きを止めた。いつもの気だるげな黄金の瞳が鋭く細まり、街の中心部を見据えている。
「フロスティーヌ」
「どうしたの?」
彼女の視線を追うと、街の象徴である白く巨大な『魔力探知塔』が、異常な脈動を始めていた。頂上のクリスタルはもはや青い光ではなく、パニックに陥った心臓のように、どす黒い赤色に染まっている。
ルファスが扇子で口元を隠し、捕食者のような冷たい笑みを浮かべた。
「あの塔……お前の魔力を強引に読み取ろうとして、システムが悲鳴を上げ始めているわ」
数秒後、その平穏は粉々に打ち砕かれた。
ビーーーーッ!!
骨を震わすような低音。これまで一度も鳴らされることのない、災害級の警報が街中に響き渡る。
「警報だ! 逃げろ! 全員シェルターへ!」
街がパニックに陥る中、限界を迎えた魔力探知塔が、目を焼くような白い光を放って大爆発を起こした。
轟音と共に魔力の衝撃波が街を駆け抜け、広場の窓ガラスが次々と砕け散る。フロスティーヌは即座に立ち上がり、アリスを守るように背を向けた。爆風が彼女の紫の髪を激しく揺らすが、九本の尾が不可視の結界を展開し、少女の体には一切の衝撃が及ばない。
「どうやら、これ以上の長居は歓迎されていないみたいね」
ルファスが静かに呟く。
広場にはすでに、武装した兵士たちが集結し始めていた。鎧を身にまとった騎士たちが、円陣を組んで彼女たちを包囲する。その後方では、宮廷魔導師たちが杖を掲げ、いつでも攻撃できる態勢をとっていた。
一人の騎士が前に出た。赤いマントを翻すその姿は、指揮官のそれだった。
「お前たちは何者だ! あの塔を破壊したのはお前たちか!」
フロスティーヌは冷ややかに見下ろし、静かに答える。
「私たちは、街の観光に来ただけよ。攻撃するつもりはないわ」
「嘘をつけ! お前たちが現れてから塔が――」
極度の緊張に耐えきれなくなったのか、後方にいた若い魔導師が我を忘れて火球の魔法を放った。
ドォン!
灼熱の塊がフロスティーヌに向かって飛来する。兵士たちが息を呑む中、彼女は微動だにしなかった。
代わりに、背後の九本の尾のうち「一本」が、鬱陶しい羽虫を払うかのように素早く動いた。
パンッ! という破裂音と共に、火球はあっけなく空中で霧散した。爆炎の欠片すら、彼女たちには届かない。
アリスが小さく悲鳴を上げ、フロスティーヌの服の裾をぎゅっと握った。
「アリス、大丈夫?」
「うん……でも、怖い」
怯える妹の声を聞いた瞬間。
フロスティーヌの紫の瞳から、一切の感情が消え失せた。
「ルファス」
「ええ、喜んで」
次の瞬間、フロスティーヌは自身の真の魔力圧を、ほんの「数パーセント」だけ解放した。
それは、物理的な暴力とは次元が違った。
広場にいた数百人の兵士たちが、一斉にガクンと膝をつき、地面に這いつくばった。敬意からではない。重力が数十倍に跳ね上がったかのように、肉体が強制的に押さえつけられたのだ。
ルファスも負けじと、伝説の白竜としてのオーラを薄く展開した。周囲の空気が一瞬で凍りつき、ヴァルトラの空が錯覚で漆黒に染まったように見える。
すべての兵士が、ただ一言も発せずにガタガタと震えていた。彼らは本能で理解してしまったのだ。自分たちが今、武器を向けてしまった相手は、生ける災厄そのものだということを。
「街を見に来ただけだと、言ったはずよ」
凍りついた空気の中で、フロスティーヌの絶対零度の声が響き渡る。
「なのにあなたたちは……私の妹に、怯えを抱かせたわね」
火球を放った魔導師は、すでに魔力圧に耐えきれず白目を剥いて気絶していた。指揮官は地面に顔を押し付けられながら、歯を食いしばって何かを言おうとしたが、肺から空気が搾り取られて声が出ない。
「私たちは帰るわ。……二度と、邪魔はしないで」
フロスティーヌはそう言い放ち、アリスを抱き上げた。ルファスが悠然と後に続く。
兵士たちはただ地面に這いつくばったまま、追撃の号令をかけることすらできなかった。もしあの九尾の女がその気になれば、このヴァルトラの街は数分で歴史から消し飛ぶということを、全員が魂で理解していたからだ。
彼女たちが夕陽に向かって悠然と去っていく背中を、誰も止めることはできなかった。
同刻。オーレリアン王国の王城、執務室にて。
国王は緊急の報告書を握りしめ、血の気の引いた青ざめた顔で窓の外を見つめていた。
「計り知れぬ魔力……側に控えるは伝説の竜……。そして、その女はただ……肉串を買いに来ただけだと言うのか?」
謁見の間に集まった重鎮たちは、誰一人として答えられない。
国王は深く、重い息を吐き出した。
「宣戦布告だと? 触れもせず魔力探知塔を崩壊させるような存在に、こちらから戦を仕掛けると言うのか? ……いや。今は急ぎ、外交の準備を進めよ。彼女たちの真の望みを、何としても突き止めるのだ」
しかし、王の心はすでに絶望的な真実を悟っていた。
この王国の人々の心に、新たな恐怖の名前が刻まれてしまったことを。
『歩く災厄』。
そしてその生ける災厄は、今日、ただの過保護な姉として街を歩いていただけなのだという、どうしようもない事実を。




