第16話 ― 空と、心の在り処
あの空での事件から三日が過ぎた。
鏡の前の儀式は、今日も変わらない。紫色の長い髪を丁寧に梳き、右目を覆う前髪を指先で分ける。鏡の中の私は、冷静で完璧に制御された微笑みを浮かべていた。けれど、今までの私とは少し違う。出口の方へ視線をやるたび、瞳には抑えきれない期待が宿っていた。
私は、またあの空へ戻りたかったのだ。
教育係は、もちろんルファスだ。報酬は「たっぷりとした美味しい食事」という、彼女らしい条件。私が飛行の制御を覚えるたび、彼女は隣で黄金の瞳を光らせ、私のマナが乱れればいつでも捕まえられるよう準備してくれていた。今では、木々の頂よりも高く飛んでも、あの息の詰まるような恐怖を感じることはなくなっていた。
今日の修練は、今まで以上に自由だった。
ルファスは地上から見守るだけでなく、私のすぐ隣を飛んでいる。彼女の魔法の翼は、紫色の光に照らされて宝石のように輝いていた。ボルドーのドレスが風に舞い、黒髪は夜の帳のように流れ、長い耳飾りが羽ばたきのリズムに合わせて揺れている。
「今日は、空中機動を教えるわ」
風の音に負けない、澄んだ声が響く。「私についてきなさい、フロスティーヌ」
答えを待たず、ルファスは加速した。速く、しなやかで、どこまでも優雅に。巨大な枝の間を、まるで重力など存在しないかのようにすり抜けていく。私は深く息を吸い込み、背中にマナを送り込んでその後を追った。
最初はぎこちない動きだった。二度ほど大きな枝にぶつかりそうになり、驚きで狐耳がピンと立つ。けれど、体は次第に空に慣れていった。漆黒の翼は思考に鋭く反応し、マナの流れは温かく安定している。
私たちは寄り添うように飛び、急旋回や急上昇、そして谷間に沿った急降下を繰り返した。その姿はまるで、紫色のキャンバスに舞う二つの影のようだった。
「ふふっ、飲み込みが早いわね」
霧に包まれた谷の上で静止したとき、ルファスが笑った。それは滅多に聞くことのない、軽やかで純粋な笑い声だった。
「先生が優秀だから、かしらね」
冗談めかして返すと、ルファスは微笑んだ。それはいつもの悪戯っぽい笑みではなく、私の胸を少しだけざわつかせるような、慈愛に満ちたものだった。
陽が傾き始めた頃、私たちはダンジョン入口に近い静かな丘に降り立った。
温もりの残る草の上に座り、闇に包まれゆく《永遠の森》を眺める。ルファスは私のすぐ隣に座った。彼女は黒いヒールを脱ぎ捨て、しなやかな足を直接地面に預けている。ボルドーのドレスが、草の上に美しく広がっていた。
「……ありがとう、ルファス」
沈黙を破り、不意に言葉が漏れた。
「ん?」
「教えてくれたことも。……あのとき、捕まえてくれたことも」
ルファスは少しの間、沈黙した。黒髪を指先で弄びながら、彼女は私を見ず、空をじっと見つめている。
「アンタが落ちるのを見るのは、嫌だっただけよ」
私は、夕闇の中でどこか憂いを帯びた彼女の横顔を見つめた。
「この数千年の間に、私は多くを失ってきたわ」ルファスがぽつりと続けた。いつもの自信に溢れた声が、今は少しだけ脆く聞こえる。「友も、敵も、同族さえも。結局、みんな私を置いていってしまうのよ」
白い尾が、彼女の足首に寂しそうに絡みついた。「でも、アンタは……何て言うか、違うのよね」
「何が違うの?」私は囁くように聞いた。
ルファスは私の方を向き、じっと瞳を覗き込んできた。まるで私の瞳に書かれた運命を読み解こうとするかのように。
「よく分からないわ」彼女の声は、夜風に溶けそうなほど優しかった。「でも、アンタを失いたくないと……そう思ってる自分はいるわね」
静寂が私たちを包み込む。冷たくなり始めた夜風が、私の紫の髪を揺らした。**狐耳が夜の音を拾い、**胸の奥にはマナの循環とは違う、温かな何かが広がっていく。
「……私を失うことはないわ」
ようやく、私は言葉を返した。「まだ教わりたいことがたくさんあるもの。あの浮遊島よりも高く飛ぶ方法だって、まだ聞いていないし」
ルファスは小さく笑い、いつもの調子に戻った。
「バカね。そんなに高く飛ばれたら、追いかける私の身にもなりなさいよ」
ダンジョンに戻る頃には、夜の闇が完全に降りていた。
アリスが明るい声で出迎えてくれ、リルは中型犬ほどのサイズに縮んで、すっかり愛嬌のある姿になっていた。ピップはアリスの膝の上で、私たちの帰還に安心したように揺れている。
ルファスはいつものように部屋の隅に寝転がり、目を閉じた。ボルドーのドレスが床に広がり、彼女は静寂を楽しみ始める。
私は玉座に戻り、背筋を伸ばして腰掛けた。指先に小さな火を灯すと、冷たい壁に私たちの影が揺れる。




