第6話:短い喪失
翌朝、扉を叩く音が三回。
いつも通り。
——なのに。
「起床。水分を」
声がして、扉が開く。
見知らぬ騎士が立っていた。
黒髪。背が高い。鎧。
でも、名前が出てこない。
“護衛”という役割だけが、頭の上に浮かぶ。
「……どなたですか」
相手の目が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも、声は落ち着いている。
「護衛です。白湯」
私は白湯を受け取り、飲む。
温かい。落ち着く。
でも、胸のどこかが寒い。
「私、あなたを知らない」
「……今朝、進行が出た」
淡々とした説明。
だけど、その淡々が、私の心拍を守る。
彼は机に日記帳を置いた。
私が昨日書いた、私から私への手紙。
『明日、灯り祭り。レオン卿がいる』
「レオン卿……?」
文字を読むと、胸の奥が少しだけ動く。
名前の音が、何かを引っかける。
彼が、静かに言った。
「呼びます。——ユイ」
“ユイ”。
呼び名。固定点。
私は目を閉じて、灯り台を見る。
火がともる。橙。温度。
台所の鍋の音が、遠くで鳴る。
すると、霧が少し晴れたみたいに、顔が戻る。
「……レオン卿」
声に出すと、涙が出そうになって、私は慌てて白湯を飲んだ。
昂りは禁物。
でも、涙は悪いものじゃない。そう思いたかった。
「今朝の欠落は短い。導線が機能した」
「導線……」
「呼び名と、灯りと、同じ音」
彼は机を指す。
日記、灯り、台所の音。
「だから、続ければ戻れる。——ただし、進行は止まらない可能性がある」
怖い。
でも、回復の道筋が同時にある。
それが、心を壊さない。
「最後の手段がある」
レオン卿が、ぽつりと言った。
「契約を、書き換える」
「そんなこと、できるの?」
「できます。俺が、できるようにする」
合理的な声。
でも、その奥に、決めている熱がある。
私は頷いた。
「私も、やる。……私の人生は、私のものだから」
レオン卿は、初めて少しだけ、口元を緩めた。
「いい。——ユイは、強い」
(つづく:次話「契約の書き換え」)




