第5話:小さな遠出
「やりたいこと、ありますか」
突然の問いは、夕食後の静かな台所で落ちた。
鍋の蓋が乾く音。灯りが揺れる音。
安心の音に包まれて、私は首を傾げる。
「やりたいこと……?」
「呪いの進行を止められないなら、生活の満足度を上げるのが合理的です」
言い方は相変わらず。
でも、内容は優しい。
私は少し考えて、指を折った。
「市場の焼き菓子。蜂蜜の。あと、灯り祭りを見たい。……それと、温かいミルク」
「明日、行きます」
即答。
私は驚いて目を丸くした。
「そんな簡単に?」
「予定は空けられます。護衛経路も確保できます」
彼は紙にさらさら書き込む。
まるで作戦会議。
恋を避けるための幸福計画。
翌日、市場は人の声が多かった。
だからレオン卿は私の耳元で、短く言う。
「音が強い。離れますか」
「大丈夫。……でも、少しだけ、近くにいて」
言ってから、しまったと思う。
昂りそうで。
レオン卿は頷き、距離を半歩だけ詰めた。
触れない。けれど、迷子にならない距離。
焼き菓子屋の前で、蜂蜜の香りが立つ。
私は一口食べて、目を細めた。
「……おいしい」
「糖分は、気分が上がる」
「上がるのは、だめ?」
「上がりすぎがだめです」
彼は言いながら、私の手元を見ていた。
私の脈を、顔色を。
不安を先回りして潰す視線。
夕方、灯り祭り。
川沿いに灯籠が並び、橙の光が揺れる。
私は息を呑んだ。
「きれい……」
その瞬間、ふっと、視界の端が白くなった。
胸が冷える。
私は隣を見る。
——レオン卿の顔が、ぼやける。
輪郭が、知らない人になる。
「……え?」
怖い。心拍が上がる。
上がったら、さらに抜ける。
私は必死で灯籠の光を見た。
固定点。灯り。息。
自分に言い聞かせる。
そのとき、低い声が落ちた。
「ユイ。——見て。灯りだ」
“ユイ”。
呼び名。
輪郭が戻る。
彼の顔が、ちゃんと彼になる。
「……今、わたし」
「抜けた。大丈夫。戻った」
短い言葉。
でも、断言が安心をくれる。
私は震えないように笑って、言った。
「……怖いね」
「怖いのは正常です。——怖いまま、進みます」
その言葉が、なぜだか救いだった。
怖いことを否定しない。
ただ、一緒に進む。
灯り祭りの最後、彼が温かいミルクを買ってくれた。
カップの熱が指先に移る。
私は思った。
この温かさを、“恋”と呼ばないで守りたい。
でも、守りたいと思うこと自体が、恋に近いのかもしれない。
(つづく:次話「短い喪失」)




