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第3話:呼び名

神殿の白い階段は、上るだけで息が上がる。

だからレオン卿は、最初から歩幅を合わせてくれた。


「休みますか」


「いえ。ゆっくりなら大丈夫」


私がそう言うと、彼は頷くだけ。

でも、私の指先が手すりを探す前に、手すり側へ自然に誘導してくる。

引っ張らない。押さない。

ただ、倒れないように。


診療室で会った治癒師——名前が出ない——は、淡々と告げた。


「感情の昂り以外でも、強い不安で発動する場合があります。あなたは……“記憶の書庫”が繊細だ」


「じゃあ、恋以前に生活が難しい」


私が言うと、レオン卿が一歩前に出た。


「対策は」


「“固定点”を作ることです。灯り、匂い、音。毎日同じもの。——そして、呼び名」


「呼び名?」


治癒師は私を見た。


「あなたがあなたを見失うとき、誰かが同じ言葉で呼ぶ。それが、戻り道になります」


神殿を出た帰り道、私は小さく呟いた。


「……呼び名、決めませんか」


「必要なら」


「必要です。私が、私のままでいるために」


レオン卿は少しだけ考えた。

そして、短く言う。


「ユイ」


「え?」


「あなたの名。柊結衣。——短い方が、呼びやすい」


名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねそうになって、私は慌てて立ち止まった。

深呼吸。


「……ユイ、って」


「問題がありますか」


「……嬉しい、が危ないので、問題です」


私が正直に言うと、彼はわずかに目を伏せた。


「では、呼ぶのは一日一回。朝だけ」


「……朝だけ?」


「固定点は、固定されているほど強い」


合理的な言い方。

でも、その“朝だけ”が、私の一日を支える灯りになる気がした。


屋敷に戻ると、門前に神殿の使者が立っていた。

封蝋の赤が不穏に見える。


「結衣様、神殿より召喚状です。——司祭長がお会いになりたいと」


レオン卿の手が、私の前に出る。

無言で、私を背に隠すように。


「内容は」


使者が答える。


「呪いは“国に必要な制度”であり、個人の都合で揺らしてはならない、と」


正論。

冷たい正論。


私は封を切らずに、胸に抱えた。

震えたら、記憶が抜ける。

だから震えないように、言葉を選ぶ。


「……行きます。私が、私として話します」


レオン卿が、頷く。


「朝、呼びます。ユイ」


その一言が、怖さを少しだけ薄くした。


(つづく:次話「正論」)

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― 新着の感想 ―
恋愛描写ではなく、生活描写で距離が縮まる構成がとても好み。 湯気や灯りの描写が、“忘れても残る感覚”として心に残ります。
合理主義を隠さないレオンの登場が鮮烈。 「生活を最適化する」という言葉が、冷たくなく、むしろ安心として響くのが巧みです。
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