第1話:恋をした瞬間、記憶は消えます
「恋をした瞬間、あなたの記憶は一枚ずつ消えます」
神殿付きの治癒師は、まるで規則を読み上げるみたいに言った。
春の光が差す診療室で、薬草の匂いだけが濃い。
私は、驚いた。怖かった。
でも、泣かなかった。
「……何を基準に“恋”なんですか」
声が震えそうになったので、質問を先に出す。
治癒師は肩をすくめる。
「心拍、体温、脈の乱れ。身体は嘘をつけません。あなたの場合、昂りが一定値を超えた瞬間に“記憶の書庫”が一枚抜けます」
「一枚ずつ、って……」
「初めは小さな欠けです。昨日の夕飯、道の角、誰かの声色。けれど、積み重なると——あなたは、あなたでいられなくなる」
私は窓の外を見た。中庭の灯り台が、昼なのに整備されている。
不思議と、それが現実味をくれた。
「じゃあ、恋をしなければいいんですね」
治癒師が目を瞬く。
絶望の反応を待っていた顔が、少しずれる。
「……そう、ですね。けれど恋は、意思で止められない」
「止めます。止めるように生きます」
言い切ると、自分の背骨が少しだけ真っ直ぐになる。
私は、派手に強い人間じゃない。おっとりしてるって言われる。
でも——決めたことは曲げない。
診療室を出ると、廊下の先に鎧の影があった。
騎士団の護衛。私のために、今日から付くという。
黒髪、背が高い。表情は硬い。
目が合っても、彼は礼だけして口を開かない。
「……あなたが護衛騎士?」
頷き。
返事はない。
困っていると、隣の文官が小声で教えてくれた。
「レオン卿です。口数が少ない方で……ですが、腕は確かですよ」
レオン卿。
私は、心の中でその名を繰り返す。
記憶が消えるなら、先に刻んでおきたかった。
歩き出すと、彼は一歩後ろ。距離は正確で、息苦しくない。
なのに、私が段差で躓きかけた瞬間、手が伸びてくる。
支える。引き寄せない。
ただ倒れない位置で止める。
——合理的。
でも、優しい。
屋敷に戻ると、彼はまず窓を開けて換気をした。
次に部屋の灯り台の芯を整え、火打石で火をつける。
昼なのに、柔らかい灯りがともる。
「明るいと、安心します。暗いと、脈が上がる」
やっと聞こえた声は低く、短かった。
説明のようでいて、私のための言葉だった。
それから彼は厨房に向かい、湯気の立つスープを運んできた。
塩加減が優しい。胃が落ち着く。
三つ。
換気。灯り。温かい食事。
この人は、最初から“私が昂らないように”整えている。
——最初から味方だ。
「レオン卿」
名を呼ぶと、彼はわずかに眉を動かした。
「恋をしないで生きるって、変ですか」
「合理的です」
即答。
それが可笑しくて、私は小さく息を漏らす。笑いかけて、慌てて口元を押さえた。
昂りは禁物。
彼は少しだけ視線を逸らし、言う。
「対策は、あります。——あなたがあなたでいるための」
胸が、ほんの少しだけ温かくなった。
それを“恋”と呼ばないように、私はスープの湯気に顔を近づけた。
(つづく:次話「生活の最適化」)




